ただいま。

空色のスーツケースをガラガラいわせながら、家に帰ってきた。
朝、七時二十分。
朝帰り。

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昨日、劇団絶対少女領域第5回公演『ひとめあなたに。』が無事終演した。
それを祝し互いを労って乾杯し、その後は夜通し歌を歌っていたから、雪降る中の朝帰りになってしまった。

帰ってきてすぐに、メイクを落としてメガネをかける。
暖房をつけて、帰りしなに買ったコーンスープを飲んだ。

衣装と小道具がたくさん詰まったスーツケースを押しながら歩いていて、自宅周辺の景色に、思わず「ただいま」と思っている自分がいた。

そして同時に、もう、西宮北口に通うこともないんだな、と思うと、急激に寂しくなった。

西宮北口。
名前だけ知ってたけど、何も知らなかった駅。
今公演の稽古場所は、たいてい西宮北口付近だった。週に2~3回のペースで、3ヶ月間通い続けた。

おかげさまで、グーグルマップを開かなくても各稽古場まで迷わず行けるようになったし、
西宮北口にある行ってみたいお店もたくさんできたし、
三ノ宮や岡本が素敵な場所だということも知れた。
なのに、私があの場所に通うことはきっともう、二度と、と言っていいんだと思う、二度とないんだろう。

自宅周辺の景色に「ただいま」と思いはしたけれど、
私の心は一つ何か大きなものを失っていた。



まぁ、舞台公演ってそんなもんだ。



どれだけ一生懸命作れども、本番が終われば全ての形はゼロになる。
どれだけ終わらないことを願おうとも、舞台作品は必ず終わる。映像作品は半永久的に残るけど、舞台作品は、必ず消える。
舞台セットも、たった2時間でバラせてしまった。
私たちの演じた役が生きた空間は、たった2時間で、跡形もなく消え失せさせることができた。

だけど、
その儚さ、有限性こそが舞台作品の魅力であり、
私が舞台をすきな最大の理由の一つでもある。けど。





今回私が演じた役は、35歳、主婦。
旦那様がいる身でありながら、他の男性に恋をして、不倫に走ってしまう。

でも決して悪い人なんかではなくて、
むしろ常識人。
上品で、控えめで、生真面目な人。
人のために動くことがすきで、細かな気遣いのできる人。
落ち着いていて、ちょっと気弱。
そんな善良な人。

私は彼女をすきだった。
すきだったのは、その人柄。
でも愛おしかったのは、その心。

善良な彼女が、配偶者に対する裏切り行為をはたらいてしまうまでの、心の過程や人生の葛藤。
その心の弱さ醜さが、私はとても愛おしかった。
彼女はとっても、とっても魅力的なキャラクターだった。
彼女について考える日々が、もう終わったのだと思うと、
今は何だかとても、心がぽっかり。



木綿子(ゆうこ)という役名だったのだけれど、皆には「もめこ、もめこ」と呼ばれていて(木綿=もめん)、呼ばれるたびに「ゆうこです」と訂正していたのだけれど、もめこ、と呼ぶ劇団員の声が脳内再生余裕、

そしてゆうこです、と言ったあとの、「へへっバレちった」みたいな皆の笑顔とか、あるいは「え、なんて…?」みたいな皆のきょとん顔とかも(←この場合はしい名前を忘れてやがる)、脳内再生超余裕、、、

テンションを上げるために、稽古前によくsuchmosを聴いていたのだけれど、今はもうsuchmosを聴くと公演のことを思い出す、

馴染みのカフェで、よく台本を読んで考え事をしていたのだけれど、今はもうそこへ行くと手が反射的に台本を鞄から探そうとしてしまう、

果ては、会話中のリアクションや、歩く時の足さばきに、意図せず木綿子の面影が出てしまって、母親に「木綿子出てるって!」と笑われてしまう始末、

にしても、皆の声が頭にこびりついている、、、
記憶が声に偏るなんて、私、声フェチなのかしら。









きょうはくせいしょうがい、

というやつがあって、、

詳しくはなんか、そーやな、下記URLでもご覧ください


お国の説明分かりやすい。







次の稽古までにしておこう、と思ったことを、少しでもできていなかったら、稽古に行けない。

セリフを覚えている最中に、「ここの感情はどういう流れなんだろう?」ということが気になったら、その結論を出さずにはいられなくて、結果、もともとしなければならなかったセリフ覚えが終わらない。

寝坊したら、「朝の準備は完璧に行わなければならない」という強迫観念と「遅刻は絶対に許されない」という強迫観念の板挟みになって、どうすることもできず、外出の予定をキャンセルしてしまう。

良いコンディションで、準備万端でないと、稽古に行けない。




そんなことで、何度、体調不良と嘘をついて稽古を休んでしまったことか。

途中で、演出には本当のことを言ったけれど。
演出はいつでも、温かい言葉をかけてくれた。本当に、感謝しかない。


今回私が最後までやり遂げられたのは、どんな強迫観念よりも、「舞台は絶対に上演されなければならない」という強迫観念が圧倒的に強かったから、というだけで、
過去に勝手に上演中止にされた公演と、
それに憤ったのにも関わらず、過去に私が上演延期にした公演と、
それに悲しんだのにも関わらず、過去に私が降板してしまった公演、
それらに対する激情が、まだ生きてしまっていたから、というだけで、
別にご立派な精神がゆえではなかった。


「情熱だけではやっていけない」
という言葉が指す、「情熱以外に必要なこと」とは、
技術や才能やお金や、現実的な状況などなど、その時々その人々によって様々だと思うけれど、
健康。
心身の健康。
その要素を持ってして、私は、自分自身に対して、「情熱だけではやっていけないよ」と、切に切に思う。

どれだけ役のことをすきだろうが、
どれだけ良いものを作りたかろうが、
稽古に行けなくては、良いものなんて作れない。

個人的な精神的課題も改めて明白になった公演だった、

私、大切なものをちゃんと大切にできるようになりたい、





母が、

「大丈夫なの?」と心配してくれた、

そんなにしんどいんだったら、
演劇はもうお休みしたら、って、

でも私は、「それじゃ何の意味もない」って説明した、

演劇から離れたところで、私はまた別のことをして日常を送るんでしょう、
そしてその中でまた、強迫観念は育ってくる、
それなら別に何も変わらない、

むしろ、だいすきなものは続けていたほうが良い、

すきこそ物の上手なれ?ほんまその通り、
すきなきもちは、その人に、その人自身を見つめさせる、ます、
恋は盲目とか言うけれど?まぁ、それは知らない。

すきなものじゃなければ、
稽古に行けなくたって別に悩まねʅ(◉౪◉)ʃ
どーでもいいもの。
すきなものじゃなければ、
そうやって、自己直視から遠ざかる。

別に遠ざかっていてもいいけど、
きょうはくせいしょうがいを治すつもりなら、
すきなことは多分、
続けといたほうがよろしい
と私は思う👴🏻🔎📝








たくさんのことができたな。
でも、できることはもっとあった。

たくさんのことができたな。
でも、やりたいことはもっとあった。

面白い作品を作れたなと思っている。
でも、もっと面白くできたなと思う。

楽しかった。たくさんのお客さんに、喜んでもらえて嬉しかった。
でも、悔しかった。きっともっと、もっと喜んでもらえたはずだ。

できたはずのことをできなかった、
それは、きょうはくせい(以下略)の影響もあるかもわからんけど、
ふつうに、能力や経験的なところも、大いに大いにある。

アプローチを途中間違えた、
努力の仕方を途中間違えた、
体力がない、
表現の引き出しが少ない、
人間観察力が足りない、
受け身的な姿勢が良くない、
自分の意見を人に伝えるのが苦手なのが良くない、
話し合いが苦手なのも良くない、
すぐに、いったん一人で考えたがるのも良くない、、

はん、せい、てん、

かい、ぜん、てん、

(   ´ ꒳ ` )💡

次はもっと良くなれる。





でも、
観に来てくれた人から、
「最近精神的に安定してるの?生き生きしてたよ」って言われた。
自分ではそんなつもりはなかったけど(役柄的に元気いっぱいな役というわけでもなかったし意識していなかった)、複数人に言われたので、たぶんそうだったのだろう。

きっと、

楽しかったのだろう。

すきだったのだろう。

私は、役者でも歌手でも、ステージ上で生き生きしている人を見るのが本当にすきなので、
自分もこんなふうな感情を見ている人に抱いてもらえるような人でありたいなと密かに願っていたので、
嬉しかったよ!
闇とかじゃないの、闇とかじゃなくて、人に笑っていて欲しい、、、


私の出る舞台を長いこと観に来てくれている友人や母からは、
「舞台を重ねるごとに上手になってるね」
「舞台を重ねるごとに生き生きしていってるね」
という言葉を頂いたりした、
私としては、できなかったことがたくさんあって、最終的には苦渋の決断、断腸の思い、四面楚歌、背水の陣でなりふり構わず、本番に臨んでいたのだけれど
(「納得いく準備ができていない状態で舞台に立つのは許されない」という強迫観念と、「上演中止や降板は決して許されない」という強迫観念が、ずっとせめぎ合ってて苦しかった苦しかった、)、

はぁ、

そうか、

大切な人は喜んでくれた。

そんなもんや、



私の頭の中にある「完璧」なんて、
しょせん、私の頭の中という狭い世界のことでしかなくて、
共演者にも、スタッフにも、お客さまにもそれぞれの世界があって、
それが合わさって何かができ上がるから面白いのであって、
私の「完璧」が、客観的な「完璧」であるということなんかない。



アンケートも全部読んだし、
観に来てくれた友人知人とも話したけれど、
皆が喜んでくれて、ほんとによかった、
よかった、

よかった。



こういう時に感じる、「自分の気持ちよりも他人が喜ぶことをしたい」という気持ちは、
言葉にしたら似たような表現になってしまっていても、自己犠牲的なそれとは全く全く違うもので、
そんな痛々しくて汚いものではなくて、
とても、気楽で、美しいもの、と思う。

気楽で美しいものなんてなかなかないから、こういう気持ちは、とても、貴重なもの、と思う。

こんな気持ちに私をさせてくれてありがとう、と思う、

ついでに、こんな気持ちはなんていうのか、名前を誰か知っていたら、本をよく読む人誰か、教えて欲しい、、と思う。教えてー。







今作で、共演者からの良い影響もたくさん受けた。出会えてよかったと思う人たちばかりだった。

或る人は、
言葉を選び抜きながら喋る私とは正反対で、思ったことをNo審査で全部そのまま口に出す人。
本人は「失言が多いねん!」とか言ってたし、せやな、と思うけれど、
「こんなんやりたーい」「この映画おもろい!」「ここの芝居こうしよー」「それはおもんない」「おなかすいた」「お前おもろい」「今眠たい」「やるきでない」
びっくりするぐらい脳内だだ漏れな其の人と一緒にいると、
他人への警戒心が強くて、恥の意識が強くて、隠し事が多くて、怖がりで何も言えない自分が、なんか恥ずかしく思えた、
ほんのちょっぴり影響を受けて、
ほんのちょっぴり、「こんなんやりたーい」が、私も言えるようになった、。

そしてまた或る人からは、謙虚な姿勢の大切さと美しさを学んだ、
私のは、ポーズだけの謙虚さなんだなと思った、
其の人のが、中身の伴った本当の謙虚さだったから。
そんなん初めて見たかもしれん。
謙虚な人って、たいてい、純粋な“謙虚”じゃなくて、不純な“謙虚”。
謙虚な自分がすき、だったり、謙虚にしとけば得をする、だったり、謙虚ではなく卑屈さの裏返しだったり、自己顕示欲の裏返しだったり、ポーズや礼儀に過ぎなかったり。
本物の謙虚って初めて見たかもしれん。分からんけど。
芸能人の話とかで、謙虚エピソードはよく聞くし、本当に謙虚な人というのはこの世にたくさんいるのだと思うけど、私はもしかして見たの初めてかもしれん。
あれが本物だと思えば、私は違うな。
大切だし美しい、
そして、本物の謙虚さには必ず努力がついてくる、そしてその努力には必ず結果がついてくる。
手に入れることはできなくても、あの姿を覚えとこう、っておもった。

演出さんは、
良い意味で、良いとこのお嬢さんという感じの人。
基本的に心に余裕があって、卒論とか大変そうだったのに、いつも穏やかだった、、
本番直前のばたばたしている時とか、多少、一瞬余裕がなさそうな時はあったけど、そんな時ですら、空気をピリつかせない人だった、まじで、すごい。
私やったら絶対イライラしたりしてまう、、
急な休みが多い私に対しても、私やったら怒ったりしてまうと思う、、いや、普通は怒る。それが正当と思う
でも演出さんは常に温かい言葉をかけることを選んだ、内心は存じ上げないけども、行動はそうすることを選んだ、
それは、そうすることが、自分にも他人にも余裕を作ることだと、無意識的にか意識的にか、分かっていたからだと思う。
他人の意見を取り入れることも知っていながら、自分の芯を通すことも知っている。
私が演出さんみたいになれる日は多分死ぬまで、いや死んでからも来ないと思うけど、
数多ある理想の演出家像のうちの一つを、見た。
私はこんな演出家がすきだ。
ああああと、言わずもがな、いや、言っておくか、この人の脚本がすき!
描き方はポップでライトなのに、描く内容は人間の心のどろどろした部分、そして話の展開はダーク。
でもチラシは永遠に“女の子”だし、音響やら衣装やら舞台美術やらはずっとずっとはちゃめちゃカワイイ。
そのセンスがだいすき。あとオシャレ。脚本の言葉選びとかがなんかオシャレ。
少女領域続けてほしいーー(>_<)

それと、皆たくさんの本と映画と芝居を知ってた、、
私ももっとたくさん本を読んで、映画を観て、舞台を観なきゃなって切に思った!
思った!



芝居で食べていきたい、とも思うけれど、



何より、もっと素敵な役者になりたい。



あ、あ、でも今は、あれか、
未来の話より、今作への感謝と思い入れを述べたほうがいいか、



「誰かをどうしようもなく想う気持ち、」

愛とか恋とかってなんだろか、

なんだろかな、

とりあえず、ほん、ん、

もうしばらくお酒はいいやと思うぐらい笑ったし、

もうしばらく煙草はいいやと思うぐらい考えた。

打ち上げは、カラオケで寝てしまって、目覚めたらそこに皆がいたので、とても幸せでした、




すきだーーーー、



愛してたよーーーーー!








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真一花琉(まいける)さん主宰の劇団真一花琉旗揚げ公演
『I wanna be 尾崎豊…non non I am 湯咲尾高!』
を観劇してきました。

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昨日、 
現在同じ舞台を作っております、 せみのぬけがら くんが
「おまえは真一花琉さんの演技絶対すきやと思う!」
と、めっちゃオススメしてくれたので、
それならぜひと、観に行かせて頂きました。
多分、私がどうとかじゃなく、何よりせみくんが真一花琉さんをだいすきなのだと思う(笑)


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26歳で死んだ
尾崎豊。
彼の満足、不満、野望。幸せの意味。
客観的事実から推測される彼は天才。
尾崎の本心は。
…いやいや
そんなことはどうでもいいんですよ。
彼はもう死んだんだ。死人に口無し。生者に愚痴あり。
今を生きる男。湯咲尾高。
彼は尾崎を追い続ける限り豊にはなれない。
「同じ景色を見るためには並んで走れ」
追いかけ追われる日々。
湯咲の感じる甘い死。
尾崎を捨てて尾崎を知る。
FLY AWAY



以上が本作のあらすじです。
ちなみに劇団プロフィールは



出席番号4545072
人生初の晴れの場で
キングオブポップにけしかけた
「お前ならワンパンで倒せる。」
とは、主催の真一花琉の言葉。

見せるぜ根性!ただいま参上!
胸板厚さを自慢してDON!と叩けば
ドンキ・ホーテ。安さの殿堂。熱さで感動。
来たぞ!我らが劇団真一花琉。

劇団真一花琉では演劇のみに関わらず
様々な角度からのアプローチを
積極的に行っています。
その活動の一つとして
恵まれない子供たちへの
チャリティー運動を行います。



以上です。



こういう感じの舞台って、
圧倒的に刺激的な衝動的舞台になるか、
クソオナニーになるかの
両極端だと思うのです。

なぜなら、
こういう舞台には「内面の発露」が付き物ですが、
こういう舞台が、きちんと狙い通りに、圧倒的に刺激的衝動的舞台となるためには、
本来は意図的に引き起こすことはできないはずの「内面の発露」を意図的に引き起こして舞台上で再現し、
本来はただ現れ出るだけであるはずの「内面の発露」をきちんと観客に伝え届けなければならないのです。
つまり、「内面の発露」が本来持つ性質に抗い、正反対の働きかけをしなければならない。
これは、そこはかとなくエネルギーを使う作業です。
だからたいていの場合は、途中でエネルギーが尽きたり、時間が足りなかったり、準備が足りなかったりして、
自覚的・無自覚的の如何は問わずとも、こういう舞台はなかなか、その狙い通りに、圧倒的に刺激的衝動的舞台となることができない。

さらに恐ろしいのは、
こういう舞台は、本来の目的が達成され得なかった場合、単なる「つまらない舞台」になるのではなく「クソオナニー」になってしまうことです。

なぜなら、舞台上に載せられて調理されているものは「内面」だから。
それも、舞台にする必要があるほどですから、心のずっと奥深くにある、簡単には言葉にできない、複雑な、人に言うのは恥ずかしい、非常にプライベートな、「内面」です。
本来は人に見せるものではない。
しかし見せずにはいられなかったから舞台にした。
それが、きちんと芸術性のあるものとして完成されていれば見ていることができますが、
失敗していた場合、舞台上にあるのは、ただの、生のままの、見たくもない他人の「内面」です。
それは例えるならば、赤の他人の自慰中の自室をむりやり除き見させられているようなもの。見てはいけないとも思うし、そもそも見たくもないから離れたいと思うけれども、金縛りのように体が動かずその場から離れられない。苦痛。みたいなもの。
だからとてもリスキーなのです。失敗するのは、人様にオナニー見せている(あるいは、見せたくなくても見られている)のと同じことになるからです。



だから、こういう舞台が成功しているのって、本当に凄い。


だからつまり、この舞台は凄いと思った。



計算と衝動が両方するどいとおもった。


私にはこんな事、今はできない。
そしてこんな事をできる人を私は今のところあんまり知らない。



生のまま、
ダイレクトに胸にくるのです。



気持ち悪かった……主人公・湯咲の内面……あるいは真一花琉さんの内面。
でもかっこよかった……湯咲の内面……あるいは真一花琉さんの内面。



そして、ところどころめちゃ笑けた。
何をしても面白い人っていますよね。
突飛とかカオスとか意味不明な笑い、
笑っちゃいけないような気がするような笑いが、
私は大好物なので、
本当、腹の奥のほうにある見たこともないでっかい内臓ずっとくすぐられているような感覚で
あ、要は、腹の底から笑いがこみ上げてきた。ところどころ。

でも、いたかった。
笑けた次の瞬間めちゃくちゃいたかった。
そんで次また笑けたと思ったらまた次の瞬間轟速でいたかった。

笑けたのに痛かった。



きれいな男性だなとおもった。



観客にケンカ売ってきた時は、殺してやろうかとおもった。
むかついた…。いらいらした…。



観劇して殺意を抱くなんて、初めての体験だわ。

そして、殺意と愛情を同時に抱くなんて、人生においてもなかなかないわ。



惚れさせられてもーた。




あらはずかしい。









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たとえば、

小保方さんの騒動を覚えていますか。

割烹着を着た美人研究員が
「STAP細胞はあります!」と断言までしたのに
無かった。
という大騒動。

世間の人の多くは、あのニュースを見て、呆れたり、嘲笑したりしていました。
でも私は、ちっとも笑えませんでした。
むしろ、我がことのように胸が痛かったのです。

結果として、
彼女は嘘をついていました。
日本中どころか世界中を騙しました。
ただの詐欺ならいざ知らず、
あろうことか、研究論文です。
表記ミスすらあってはなりません。
ましてや虚偽の報告なんて、
前代未聞、
あっていい事件じゃないのです。
彼女は、理研という組織の信用を失墜させただけではなく、
研究者であったり、論文発表であったり、学問そのものの信用すらも、失墜させてしまいました。
人一人が責任を負えるような話ではなく、
彼女の人生だけで支えられるような話でもなく、
彼女が一生をかけて償ったって償いきれるわけがない、
とてもとても重い罪を、彼女は犯してしまったのだと思います。

でも、


でもね、


もしも自分が、
ほんの些細な出来心でついた、
小さな小さな小さな嘘が、
どんどんどんどん大きなものへ繋がっていって、
そして気付いた頃には、取り返しがつかないほどの、大きな罪になってしまっていたとしたら?

その現実の重さに、私だったら耐えられるだろうか?と思います。
まず耐えられないでしょう。

現実を受け止められない人間は、どんな行動に出るでしょうか。

逃避します。

現実から目を背け、できる限り逃げようとします。
忘れようとする場合もあるかもしれません。

彼女が「STAP細胞はある」と主張し続けたのは、私には、現実を受け止められないがゆえの逃避行動にしか見えませんでした。


もちろん、
「この目の前の小さな嘘が、取り返しのつかない大事件になると分からなかった想像力の欠如が悪い」
「犯してしまった罪は、償いきれずともできる限り償うべきで、逃避など決して許されることではない」
という論は正論です。
私もそう思います。


でも、なら私は、
罪を犯したことはありませんか?

「これぐらい」と思った嘘が、自分の想像力の範疇を超えて大事件になったことはありませんか?

現実を受け止めきれず逃げ出してしまったことはありませんか?

責任を放棄したことはありませんか?

それが、情けないことに、たくさんあるのです。
それはもう、死にたくなるほど、たくさんたくさんあるのです。


もちろん、小保方さんは悪い。
小保方さんは大きな罪を犯した。
それは疑いようのない事実です。
そして、罪からは逃避すべきではなく、罪は一生をかけて償うべきです。


でも彼女を笑うことは私にはできない。


だって私も同じだからです。


同情こそすれ、
責めたり、糾弾したり、嘲笑したり、呆れたりすることはできませんでした。

そしてそれが普通だと思っていたし、正常だと思っていました。



でも、世間は全然違いました。



世間の多くは、彼女を責め、糾弾し、嘲笑し、呆れました。

それだけならまだしも、
私の、家族や、親しい友人や、心から信頼していた人や、とても大好きだった人も、
皆同じ反応でした。

私にはそれがショックで仕方ありませんでした。

一瞬で、
「誰も私の気持ちを分かってはくれない」ということが分かりました。
“誰も”というのは、世間の中にも見当たらないし、親しかったはずの人たちの中にも見当たらない、ということです。

人と人とが完全に分かり合えることなんてありません。
自分の全てが、誰かに分かってもらえるということもありません。

それでも、
こんな大切な感情、
誰か一人ぐらい分かってくれても良かったのに。


だれも分かってくれませんでした。


何人かに話したことはあったと思います。
その当時もですし、そのあとずっと経ってからも。
でも駄目だったのです。

私が、こんな大切なことを話すということは、心から信頼でき、心からだいすきな人だということです。
「この人になら、分かってはもらえなくても、受け入れてはもらえるのではないか」という期待を抱くことができて、なおかつ、
「受け入れられなかったとしても、私のこの人への信頼と好意は変わらないし、我々の関係も変わらない」と思える人、だということです。
しっかりしていて、思いやりも想像力も教養もあり、自分の意見があって、しかも他人の意見を尊重することを知っており、その人格を尊敬でき敬愛できる人、だということなのです。

でも駄目だったのです。



「私には分からないよ」という言葉には、二種類あります。

一つは、「私にはあなたの気持ちが分からない。それは、私とあなたが違う人間だからだ。でも、他者としてあなたのことを最大限尊重するし、あなたの気持ちに最大限寄り添い、最大限理解しようと努めるよ。分からないけど、分かりたい。教えてほしい」という、受容のニュアンスを含んだ「私には分からないよ」。

そしてもう一つは、「どうしよう、私にはこの人の言っていることが全く分からない。分からなさすぎて、どうしたらいいのか分からないし、何ていう言葉を返したらいいのかも分からない。もう素直に分からないと伝えるぐらいしか、返す言葉がない。本当に分からない」という、拒絶のニュアンスを含んだ「私には分からないよ」。

三つ目として、最初から私に興味もないし理解する気もないし分からなくて全然問題ないと思っている、もはや話を聞いていないに等しい「分からない」もありますが、それはまた種類が全然違うので今は置いておきます。

一つ目も二つ目も悪意はありません。
むしろ、私のことを大切に思ってくれていて、できるだけ理解しようと努めてくれた人でなければ、このような心境にはならないと思います。
どちらもとても有難いことで、どちらの分からないが返ってきても、私がその人のことを嫌いになったり、失望したり、距離を置いたりすることはありません。
感謝と愛情が募りこそすれ。


だけど二つ目は悲しいんです。


悪意がなかろうが、
愛があろうが、
「拒絶」のニュアンスであることに変わりはないから。


“分かろうとする”「分からない」なのか、
“分かることを諦めた”「分からない」なのかは、
大きな差です。
繰り返しますが、二つ目の「分からない」は拒絶だから。



そしてこれは先ほどからたとえばの話をしてはいるのですが、
たとえば、
小保方さんの騒動に関する気持ちを話して、
拒絶の「分からない」以外が返ってきたことは、今のところないのです。

分からないという言葉は使わなくても、
言葉の内容の核心をまとめれば、
みんな拒絶のニュアンスで「分からない」と言っていました。

それで嫌いになんかなりません。
むしろ、最後まで聴いてくれて本当にありがとうと思います。
でも、悲しいんです。



小保方さんの話はあくまでも例えの一つなので、
小保方さんの話だけじゃなくて、
他にも沢山沢山、こういうやつがある。

拒絶しかされたことのない、
しかし大事な私の価値観。



たとえば「STAP細胞はあります!」というウケ狙いのネタを誰かが言った時、
その都度、私は愛想笑いをしながら、こういう孤独感に襲われるのです。

日常生活の中に、そういう瞬間は、ふいに、ぽんっと、突然、放り込まれるのです。
そして私は突然、本当に突然、身を焼くような激しい孤独感に苛まれるの。



辛い。



どういうふうにも表せない。




こういうところをもってして、
私は、自分をおかしな人だと思っています。
厨二病と言われるかもしれません、
偽善者とか理想論者とか、
拗らせとか、メンヘラとか、
私みたいな者を揶揄する言葉は沢山あります。
実際何度も言われてきたし、
実際自分でもそうだなと思う。
その表現は合っています。
でも、別に何と言ってもかまわないけど、
私をそういう、既成の言葉の型にはめるんだったら、
だったら、こういう感覚で分かり合える人を連れてきて欲しい。
私と同じ感覚の人を連れてきて欲しい。



こういうところをもって、
私はたびたび夜に眠れなくなるし、

私はたびたび人ごみの中で現実感を失うし、

私はたびたび精神的に不安定になるし、

私はたびたび死にたくなる。



ただ単純に、孤独が辛い。



理解者が一人もいないということは、
世界中でひとりぼっちっていうこと。

心細い。
怖い。
悲しい。
辛い。



でも同時に、
私は誰を傷つけるつもりもありません。
困らせたくもないし、
不愉快な思いもさせたくない。
さっきから、拒絶されて傷ついたとか言っているけれど、拒絶“させた”のは私なのだから、
そう考えると、拒絶なんて悲しいことも誰にもさせたくないと思っている、本当は。




大切な人と仲良く心地よく過ごすことと、

大切な人との間に壁を作らないことが、

両立できない。

どちらかを叶えればどちらかが損なわれる。



辛い。

 
申し訳ないと思っている。心の底から。
こんな心で産まれてきてしまって申し訳ないと思っている。



苦しい。









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