■3分で読める『致知』の感動実話
━━━━━━━━━━━━━━━━
【1万人以上の心を救ったカウンセラーの
「生かされた命を全うする生き方」】
10年で1万人を超える人の
心と寄り添ってきた
カウンセラーの中島輝さん。
95%という高い回復率の裏には
小学4年の頃から経験してきた、
分裂症、躁鬱症、パニック障害や
10年間にも及ぶ
引きこもり生活がありました。
そんな中島さんが実感した
「生かされた命を全うする生き方」とは。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
私の病の発端は、
5歳の時まで遡ります。
家業で忙しかった
両親の代わりに
パパ・ママと呼ぶほど
慕っていた里親が事業に失敗し、
突然、夜逃げしてしまったのです。
その喪失感から
人を信頼できなくなり、
幼い私は自分一人で
生きていくと固く決意しました。
その後、実家で
暮らすようになったものの、
自炊を始め、風邪をひいても
自力で治す方法を探すなど、
誰にも頼ることなく、
感情を押し殺して
過ごすようになりました。
・ ・ ・ ・
小学4年生になると、
ストイックな生活がたたって斜視、
分裂症など、幾多の病状に
苦しむようになりました。
心身ともに
助けを求めてはいるものの、
私の心にあったのは、
「この症状を絶対に
誰にも見せるもんか」
という必死で、
頑なな一念のみ。
愛情を注いでくれない
両親への憎しみも
あったのでしょう。
自分が誰だか分からなくなると、
足のつけ根を強く抓って
正気を取り戻しつつ
一人耐え忍びました。
なぜ自分にばかり
次から次へと困難が来るのか。
何のために生きているのか。
自問する10代、20代を
過ごしました。
・ ・ ・ ・ ・
一方、家業は父が
飲食業から不動産業まで
手広く拡大し、
従業員も2、300名ほどに
増加したところでバブルが崩壊。
多額の借金を負う羽目になり、
会社も私生活も
窮地に立たされました。
そんな状況下で
長男の私は24歳の時に
会社を存続させるために
家業を継ぐことになり、
「借金を返さなければ」
といった責任感に駆られ、
極度の完璧主義者
だったことも相俟って、
過呼吸とパニック障害の発作に
常時悩まされるようになりました。
錯乱状態になり、
何度自殺を試みたかしれません。
そして25歳の時、
遂に外出できなくなりました。
・ ・ ・ ・ ・
電話カウンセリングを頼っても、
他人事で通り一遍な
受け答えばかり。
苦境から逃れたい一心で、
安岡正篤先生やゲーテをはじめ
思想や哲学、心理学の本を
貪るように読み、
自分で自分にカウンセリング
するようになりました。
日中は会社経営を行い、
真夜中には人目に触れず
外出のトレーニングを
積みました。
いまでも覚えているのが、
自宅から200メートルの距離の
コンビニに何とか辿り着くと、
もう二度とこの場所には
来られないのでは、
という強迫観念に駆られ、
駐車場に這いつくばり
石や土を食べてしまうのです。
当時は無我夢中で、
異様な行動をしている自覚は
ありませんでした。
・ ・ ・ ・ ・
どん底を経験しながらも、
私が光を見失わずにいられたのは、
一人の恩人の存在が
あったからでした。
その方は大企業の社長で、
年に数回お会いしていましたが、
私の顔を見て瞬時に
「もっと頑張れ」
と言ってビンタしたり、
「もういいよ、頑張るな」
と抱きしめてくれたり、
その時々の私の状況に合わせて
言葉を掛けてくれるのでした。
心の奥底で希望の光が
消えそうになり、
もう死ぬしかないと
首にロープをかけた時にも、
「またその方に
会えるかもしれない」
という思いが脳裏をよぎり、
踏みとどまることができました。
・ ・ ・ ・ ・
ところが何と、
その方は50代の若さで
急死してしまったのです。
がんでした。
葬儀に出たくても、
外出できない私は涙を呑むしか
ありませんでした……。
1年後に
社葬が行われることを知ると、
何としても参加しなければ
と思い立ち、
毎晩精神安定剤を飲み、
朦朧(もうろう)としながらも
死ぬ気で外出のトレーニングを
重ねました。
当初は500メートルすら
移動できなかったものの、
徐々に距離も延び、
どうにか社葬に参加できました。
その時は何も恩返しできずに
過ごしている自分が不甲斐なく、
ただ号泣することしか
できませんでした。
しかし、絶対
にご恩に報いたいという
感謝の思いが原動力となり、
その方のように、
必要な時に必要な言葉を
掛けられる人物になると
決意したのです。
三十五歳の時でした。
・ ・ ・ ・ ・
すると、その後の
トレーニングは着実に進み、
私は病を克服。
病院などの既存のサービスで
満足に治療を受けられなかった
苦い体験をもとに、
経験者である自分だからこそできる
カウンセリングをしてきました。
特別なことをしたつもりは
ありませんでしたが、
カウンセリングを希望する方が
口コミで広がり続け、
一時期は400名の方が
半年先まで予約待ちに
なるほどでした。
・ ・ ・ ・ ・
私は一人の恩人によって生かされ、
感謝の思いを支えに今日まで
歩いてきました。
私と同様に、
生かされた命を全うすることが、
どんなに幸せなことなのか、
一人でも多くの方に知ってほしい。
その一心で今後も
仕事に打ち込みたいと思います。
――『致知』
連載「致知随想」より
◆人生を真剣に生きた人に学ぶ月刊誌◆
~体験から生まれた知恵は武器となる~
○お申込はこちらから○
~まずは気軽に1年間~
▽ ▼ ▽
⇒ http://www.chichi.co.jp/special/teiki1603/
(月刊『致知』は書店では販売していません)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 月刊『致知』とは
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
いつの時代でも仕事にも人生にも
真剣に取り組んでいる人はいる。
そういう人たちの心の糧になる
雑誌を創ろう――。
『致知』の創刊理念です。
***
有名な人、無名な人を問わず、
どんな世界でも各界で一所懸命に
生きている真実の人たちがいる。
そういう真実の人を見つけ出し、
その方たちの体験や
そこで得られた英知に学ぼう――。
それが『致知』の編集方針です。
■まずは気軽に1年間講読から
⇒ http://www.chichi.co.jp/special/teiki1603/
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【1万人以上の心を救ったカウンセラーの
「生かされた命を全うする生き方」】
10年で1万人を超える人の
心と寄り添ってきた
カウンセラーの中島輝さん。
95%という高い回復率の裏には
小学4年の頃から経験してきた、
分裂症、躁鬱症、パニック障害や
10年間にも及ぶ
引きこもり生活がありました。
そんな中島さんが実感した
「生かされた命を全うする生き方」とは。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
私の病の発端は、
5歳の時まで遡ります。
家業で忙しかった
両親の代わりに
パパ・ママと呼ぶほど
慕っていた里親が事業に失敗し、
突然、夜逃げしてしまったのです。
その喪失感から
人を信頼できなくなり、
幼い私は自分一人で
生きていくと固く決意しました。
その後、実家で
暮らすようになったものの、
自炊を始め、風邪をひいても
自力で治す方法を探すなど、
誰にも頼ることなく、
感情を押し殺して
過ごすようになりました。
・ ・ ・ ・
小学4年生になると、
ストイックな生活がたたって斜視、
分裂症など、幾多の病状に
苦しむようになりました。
心身ともに
助けを求めてはいるものの、
私の心にあったのは、
「この症状を絶対に
誰にも見せるもんか」
という必死で、
頑なな一念のみ。
愛情を注いでくれない
両親への憎しみも
あったのでしょう。
自分が誰だか分からなくなると、
足のつけ根を強く抓って
正気を取り戻しつつ
一人耐え忍びました。
なぜ自分にばかり
次から次へと困難が来るのか。
何のために生きているのか。
自問する10代、20代を
過ごしました。
・ ・ ・ ・ ・
一方、家業は父が
飲食業から不動産業まで
手広く拡大し、
従業員も2、300名ほどに
増加したところでバブルが崩壊。
多額の借金を負う羽目になり、
会社も私生活も
窮地に立たされました。
そんな状況下で
長男の私は24歳の時に
会社を存続させるために
家業を継ぐことになり、
「借金を返さなければ」
といった責任感に駆られ、
極度の完璧主義者
だったことも相俟って、
過呼吸とパニック障害の発作に
常時悩まされるようになりました。
錯乱状態になり、
何度自殺を試みたかしれません。
そして25歳の時、
遂に外出できなくなりました。
・ ・ ・ ・ ・
電話カウンセリングを頼っても、
他人事で通り一遍な
受け答えばかり。
苦境から逃れたい一心で、
安岡正篤先生やゲーテをはじめ
思想や哲学、心理学の本を
貪るように読み、
自分で自分にカウンセリング
するようになりました。
日中は会社経営を行い、
真夜中には人目に触れず
外出のトレーニングを
積みました。
いまでも覚えているのが、
自宅から200メートルの距離の
コンビニに何とか辿り着くと、
もう二度とこの場所には
来られないのでは、
という強迫観念に駆られ、
駐車場に這いつくばり
石や土を食べてしまうのです。
当時は無我夢中で、
異様な行動をしている自覚は
ありませんでした。
・ ・ ・ ・ ・
どん底を経験しながらも、
私が光を見失わずにいられたのは、
一人の恩人の存在が
あったからでした。
その方は大企業の社長で、
年に数回お会いしていましたが、
私の顔を見て瞬時に
「もっと頑張れ」
と言ってビンタしたり、
「もういいよ、頑張るな」
と抱きしめてくれたり、
その時々の私の状況に合わせて
言葉を掛けてくれるのでした。
心の奥底で希望の光が
消えそうになり、
もう死ぬしかないと
首にロープをかけた時にも、
「またその方に
会えるかもしれない」
という思いが脳裏をよぎり、
踏みとどまることができました。
・ ・ ・ ・ ・
ところが何と、
その方は50代の若さで
急死してしまったのです。
がんでした。
葬儀に出たくても、
外出できない私は涙を呑むしか
ありませんでした……。
1年後に
社葬が行われることを知ると、
何としても参加しなければ
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感謝の思いが原動力となり、
その方のように、
必要な時に必要な言葉を
掛けられる人物になると
決意したのです。
三十五歳の時でした。
・ ・ ・ ・ ・
すると、その後の
トレーニングは着実に進み、
私は病を克服。
病院などの既存のサービスで
満足に治療を受けられなかった
苦い体験をもとに、
経験者である自分だからこそできる
カウンセリングをしてきました。
特別なことをしたつもりは
ありませんでしたが、
カウンセリングを希望する方が
口コミで広がり続け、
一時期は400名の方が
半年先まで予約待ちに
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・ ・ ・ ・ ・
私は一人の恩人によって生かされ、
感謝の思いを支えに今日まで
歩いてきました。
私と同様に、
生かされた命を全うすることが、
どんなに幸せなことなのか、
一人でも多くの方に知ってほしい。
その一心で今後も
仕事に打ち込みたいと思います。
――『致知』
連載「致知随想」より
◆人生を真剣に生きた人に学ぶ月刊誌◆
~体験から生まれた知恵は武器となる~
○お申込はこちらから○
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そういう人たちの心の糧になる
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