アサギマダラには、もうならない。
お目通し下さり光栄です、京の迷い家母
平成小野篁西陣の拝み屋です。

2022年より再開する神奈川営業の受付詳細を公開いたしました。
12/1から受付開始、ご希望の方は先行受付いたします(笑)。
お気軽にお問い合わせください。
神奈川営業をどうするか、ずっと考えてきたことでした。
「もう撤退するんですか?」と、何度聞かれたか。
2020年4月の緊急事態宣言以降一度も行っていない
神奈川。
その間に人生は本当に大きく動きました。
コロナがなかったら、こうはなっていないだろう流れ。
でも、コロナの前にひとつ経験していた「痛み」があるのです。

2015年、足かけ4年かけて「願いを叶えるミセ」を辻堂に
つくりました。
それが「辻堂秘密基地」、一階に縫製アトリエ「Les Lien」が
二階に「和ませ屋」が入った古いテラスハウス。
あまりにぼろぼろな外観から「プレハブ」と言った
お客様がいらしたくらい(笑)。
秘密基地ができた2年後、わたしは京都と神奈川を
往来する生活を始め。
2018年、情熱だけを武器に京都へ上洛しました。
その際、一階さんから卵巣がんのステージ3であることを
打ち明けられました。
闘病が始まる盟友を置いて、それでも上洛を
辞めなかった一番の理由は、もしここで行かなければ
もういけなくなることを知っていたからです。
薄情だ、と、言った人もいました。
早く秘密基地を畳め、と言った人もいました。
でも、わたしが最後に叶えたかったのは盟友である
一階さんの願いだったのです。

2018年の夏、いろいろな事情から基地を閉じる話が
持ちあがりました。
あのときの挫折と嵐のような時間を、いまでも覚えて
います。
往来しながらの基地の閉鎖は本当に大変だった。
そして、基地の閉鎖を機に盟友はどんどん弱って
行くように見えました。
「基地」という共通項を失って離れた場所に暮らす
わたしたちは、うまく繋がることができなくなりました。
そして、盟友の病が悪化した2019年の春。
自宅へ見舞いに行く、と約束したその日。
わたしは朝から体調が悪く、同じ時期にとある同業者に
呼び出されて横浜で昼を共にしました。
そこで彼女から言われるのです。

「会いに行ったら、あなたの命も危うい」

盟友には、癌以外の別の「病巣」がある。
そう言われた言葉を確かめるため、わたしは
遠隔霊視で状態を見に行きました。
そこで観たものは、当時の自分ではどうにも
やりようがないものに思えたのです。
それでも、これが最後の対面かも知れない。
苦しんで苦しんで考えた末に出した答えは
自分の体調の悪さを相手の家族に疎まれないために
会いに行くのを辞める、ということでした。
わたしの代わりに、古い付き合いの生徒さんが
面会に行き、状況を伝えてくれました。
結果的にこれが彼女からの「遺言」となってしまいました。

わたしは京都に戻り、面会を止めた同業者に
どうにか会う方法がないか、尋ねました。
そこで、こう言われます。

「死にたくないなら、骨になるまで会ってはいけない」

この言葉が呪詛となったのか、わたしは葬儀にも
呼ばれず。
結局分骨された骨がご実家に戻った数か月後
ようやく小さくなった彼女と対面することができました。
その後、そのことが盟友の家族の耳に入ったのか
実家への訪問は遠慮せざるを得なくなってしまったのです。
彼女の最期は、どうだったのか。
彼女の最期の言葉は、なんだったのか。
でも、通詞人は私的に会いたい人には会えない。
苦しい時間が続きました、そんなとき、彼女の遺言を
届けてくれた生徒さんが「わたしが依頼したら、
先生は彼女と会えるんですか?なら依頼します」と
言ってくれたのです。
8月のお盆過ぎ、生徒さんの通訳という立場で
わたしは彼女と対面しました。
自分の想いは何も伝えられないけれど、彼女の
想いを生徒さんを介して知ることができたのです。
その後、炎上騒ぎが起こり、殺害予告が出され。
わたしは2020年の春、50年近く住んできた湘南を
追われることになりました。
そして、荷物を運んだ先には、引っ越しの日以来
行くことができなくなってしまったのです。

「あなたの命が危ういから、会ってはいけない」

この言葉の重たさと、戦っているうちに起きた
コロナ禍。
報道されるニュースでは、多くの方がわたしと
同じように家族に会えず別れていく。
その痛みが、痛いくらいに判る、そう思って
いました。
いつか時が来たら、そんな方のお役に立てる
ことがあるのではないか。
ずっとそう思って、京都の街で細々仕事を
続けてきたのです。

命が惜しいなら会うな。
そうも取れるあの同業者の言葉、それが
どれほど残酷で人を傷つけるか。
当然のように言われたこの言葉は、きっと
生涯忘れることができないでしょう。
これとよく似たことがいまから140年前にも
起きていたことを、先日の大河ドラマで
知りました。
コレラの流感、ドラマでは渋沢栄一の妻
千代さんがコレラで亡くなり、屋敷内に
隔離され、お子さんにも会うことができず
荼毘にふされました。

わたしは2001年に親友を脳腫瘍で亡くして
いますが、このときは臨終の席に立ち会う
ことができませんでした。
でもそれは、まだ諦めがつく、チャンスが
なかった、と思えるから。
それでも大きな柱だった人の最期の言葉を
聴かないまま逝かれる辛さは後追い衝動に
繋がるには十分な威力を持っていました。

その後靈氣と出会い、社会的に再生。
そこから17年後に訪れた盟友の発病は
周囲から「またなの?」と何度言われたか
判りません。
だからこそ、思っていた、今回は最後まで
死に寄り添う。
どれだけ辛くても、できる限り寄り添って
いこう、と。
その最後のチャンスに「命が惜しいなら会うな。
その体調が貴方の力量の表れ」と言われたのです。
「私に会えて運が良かった、じゃなきゃ死んでいたよ」
そう高らかに言われたその言葉をわたしは生涯
忘れはしないでしょう。
死にたいわけじゃない、でも、わたしにもっと力が
あったら。
最後まであの子に寄り添えたの?
2004年の入門以来、時に泥水を飲む思いで
這い上がってきた、それでもまだ足りないの?

ねぇ、神さま。
足りなかったってことですか?

あの日の敗北感と、歯噛みするような思い。
そして、「わたしのおかげ」と言っている目の前の
同業者が「お金積まれてもその子は助けない。
こっちが危ないもん」と言ったときの悔しさ。
大切なものを守りきる人になると強く決めて
這いつくばって来たつもりでいたけれど。
そんなものはつもりでしかない、そういわれた
気がしたあの日。
だからこそ、形は違えどコロナで同じような
経験をした遺族と故人の通訳はできるんじゃ
ないかと思うのです。
その世界を、垣間見たことがある自分ならば、ね。

まぁさ、こんなことをいうと世の中はすぐ「便乗商法」
とか「人の不幸が飯の種かよ」とか「詐欺師」とか
言うんだろうけどね。
そして、こんなことをオートリロードできるくらい
神奈川で言葉として浴びてきたんだな、っていつも
思うわけで(笑)。
脳みそThanks、忘れないよあの痛みは、絶対。

それでも。
やっぱりわたしはやろうと思う。
願いを叶えるミセを、もう一度やってほしい誰かが
いるように思うのです。
昨日、蜷川美花さんが「Holic」を映画化するという
ニュースを聴きました。
構想に10年かけたとか。
わたしが再生のためにもがいていた10年、Holicが
世に出るためにもがいていた人がいる。
蜷川さんの原色の世界を観たとき、脳裏でふと
盟友が笑った気がしたのです。

「みこさん、わたしの最期の願いを叶えて」と。

「このままは終わらない。いつかきっと、
 秘密基地に戻る。今は閉じるけど、必ず
 また秘密基地を開くから」
彼女は、基地の閉鎖が決まったとき、まっさきに
そう言いました。
あれが、わたしが聞いた彼女の最期の願い
なのだとしたら。

その願い、叶えましょう。
ただし、対価が必要です。

あの頃のように、もう一度言ってみよう。
願いを叶える蝶が、飛ぶように舞いながら。
あの子が暮らした東の地で、ね。