1144回


くるくるパーチクルさん


36歳。男。

人間の「理解する」という行為について考えている内に、情報を意味論的に理解するという事は、一種の「見切り発車」なのではないかと思うようになりました。
本来は統語論的に全てを網羅しなければ「理解した事」にならない筈なのに、人間はその情報処理能力の限界から、本当は理解していないにもかかわらず「理解したつもり」になっているだけなのではないかと。故に「無理解」や「誤解」からくるディスコミュニケーションが日常的に発生するのではないかと。

つまり、人間の脳内で発生する「理解」という現象は「幻想」なのだと思います。であるならば、人間はいずれ「理解する」能力においても人工知能に劣る日がくるのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、「理解」を土台とする様々な活動…コミュニケーションや創造性などにおいても人間は人工知能に劣る、という事になると思います。

しかしながら、コミュニケーション(雑談)や創造性は人工知能の最も苦手とする分野だとも聞いています。人工知能の方が遥かに深く正確に「理解」できるにもかかわらず、です。
この矛盾を解決するアイデアを僕は持ち合わせていません。

はたして、人間の行う「理解」という「幻想」にどのような価値があるのでしょうか?早々に理解する事を切り上げて、分かったつもりになっては誤解、勘違い、無理解を繰り返す事は、情報化社会を生きる上で最適に進化していると言えるのでしょうか?
「何かが当てはまる」という「錯覚」を持たない故に、この様な考えを持つに至りました。何か間違いがあればご指摘、ご指導頂けると幸いです。


ご回答


言葉の意味を「理解」するということを計算論的にとらえて、それに携わるチューリングマシンが停止するかという停止問題としてとらえた場合、くるくるパーチクルさんの言われるようにそれは停止しないのかもしれません。


そのような意味では、「見切り発車」なのでしょう。


一方、クオリア問題としてとらえた場合、あるクオリアが成立するという意味ではある準安定状態が出来ているとも言えます。


停止しない、しかし(停止したことにして)動いていくというバランスは、生命活動において重要なポイントで、理解のダイナミクスはそこが肝心だと言えるのかもしれません。

nounandemo
 
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