連続ツイート2304回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


小林秀雄が、川端康成に語ったと自ら『無常という事』の中で記している、死んで遠く過ぎ去った人間ほどその姿がはっきりしてくること、そして「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」という命題について、ときどきふりかえって考えてみることがある。


プラトンがソクラテスのことをあれこれと書いたのはソクラテスが亡くなったあとのことだと思うが、師の姿がはっきりくっきりとプラトンの中で定まっていったからこそ、あのようにいきいきと対話篇や『ソクラテスの弁明』を書くことができたのだろう。


孔子の言動を記した『論語』になると、孔子の死後数百年の時の中で編纂され、次第に姿が定まって今伝わっているかたちになっている。孔子もやはり、亡くなって時間が経つ中で、次第にその真実の姿のようなものがわかってきた。


ソクラテスや孔子のような「特別な」人でなくても、ごくふつうの、平凡と言われるような人でも、亡くなったあと、時間が経つと次第のその人の姿が記憶の中で鮮やかに定まってくるようなところがあって、そんなことをこのお盆の時期に考え、ふりかってみるのも意義があることなのかと思う。


頼もしいのは、プラトンが描くソクラテスも、論語の中の孔子も、まるでその場にいるようにいきいきとしていることで、亡くなってから時間が経ってやがて鮮やかに定まっていくその人の姿というものは、その場で生きているかのような身近な存在でもあるということである。


ソクラテスが、『饗宴』の中で、パーティーの場になかなか姿を現さないで見に行くと道の途中で考え事をして立ち止まってしまっている様子とか、『論語』で孔子が不用意なことを言った弟子にその場で言わないで後でさりげなく言葉をもらす配慮とか、ああそういう人だったんだろうなあと心が動く。


ソクラテスや孔子の場合、その言動を弟子のプラトンや多くの門弟が記して編集しているということも興味深く、つまりは他人の認識、記憶を通してその人のすがたが定まっていくプロセスということである。そういえば、後期ヴィトゲンシュタインもまた同じであった。


以上、連続ツイート2304回「人の姿は、その人が去ったあとの時間の中で次第に鮮明に定まっていく」をテーマに7つのツイートをお届けしました。

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