連続ツイート2293回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


アートはほんとうに難しいと思う。美大の卒業制作展にいくと、それぞれの作品は学生たちが一人ひとり必死になって人生をかけてつくっているのに、プレイリードッグがすっくりと立ち上がっているような、目立つ作品はほんとうに少ない。アートの淘汰はほんとうに厳しい。


キュレーションされた美術展に行くと、さすがに作品の質は粒よりだが、それでも、これは、という作品にはなかなか出会わない。もちろん、それは主観の問題でもある。ただ、多くの人がこれは、と思うような作品もある。アーティストはそれを目指すけれども、なかなかたどり着かない。


アート作品は、それを目の前にして経験しないと、本質的なことは何も言えない。クオリア、あるいはベンヤミンの言う「アウラ」は、実物でないとわからない。だから、ある作品が特定の文脈や意味付けをなされているからといって、それだけでその作品がわかるわけではない。実際に見てみないとわからない


あいちトリエンナーレに展示されている「少女像」については、周知のようにさまざまな文脈付けがなされている。しかし、アートの作品としての経験は、そのような文脈の中にとどまるものではなくて、実物を目にしたときにしか立ち上がらないものである。それをあらかじめ予想することはできない。


美術展において、アート作品に向き合うことの意味は、その作品について付加されがちな文脈を確認することではなく、むしろ、実物しか持たない、実物からしか感じられないクオリア、アウラを受け取ることである。その結果、その作品がどのように心に残るか、残らないか、それは厳しい分かれ道である。


「少女像」がアート作品としてどうなのか、それは、文脈を超えて、その作品自体と向き合わないとわからない。これは、アート好きな人ならば空気のように自然な倫理であるはずだ。そのために美術展はあるわけで、文脈だけで作品を決めていいのならば、美術展をやる意味はない。


以上、連続ツイート2293回「文脈だけで作品を決めていいのならば、美術展をやる意味はない」をテーマに、6つのツイートをお届けしました。

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