街を歩いていたら、コーヒー屋さんに「ハンドロースト」というポスターがあって、そうか、手で、フライパンかなにかを動かしてローストしているのかなあ、それとも、ロースターをぐるぐる回しているのかなあ、と思って、それから、「ハンド」「手」だとおいしいという感じがするのは不思議だなあと思った。


 「手打ち」とか、「手こね」「手つくり」「手摘み」とか、「手」がつくとなんとなく美味しい気がするのは、手間がかかって愛情がかかって、しかも手はすべての部位の中で最も柔軟に動くから、高度な操作をしているんじゃないか、みたいなイメージがあるのだろう。


 また、この人手不足の世の中で、わざわざ人間が手を使って何かやっているということにありがたみを感じるのだろう。


 将来的に人工知能やロボットが発達したときに、「手」「ハンド」の価値はどうなるのだろう。


 手術はダヴィンチがかなりうまいみたいだし、コーヒーローストも、人工知能制御のロースターの方が本当は最適化されているかもしれない。


 自動演奏よりも手でピアノを弾く方がありがたいように思えるけど、それもいつまで続くだろう。


 手の信仰は精神性の信仰につながってそれは一つの思い込みなんだろうけれども確かにその思い込みはあって、ただその未来は必ずしも保証されているように見えない点に人類の今があるように思う。


(クオリア日記)