連続ツイート2223回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、今朝思ったこと。


探求学習がブームの兆しがあるけれども、勘違いしてはいけないのは、親や教師が一定の方向を示して子どもたちをそっちに誘導していくのは探求学習ではないということ。探求は、ひとりひとりの子どもたちがテーマを見つけるべきで、基本的に大教室には合わない。

京都の堀川高校の探究科がすばらしいのは、高校二年でそれぞれの生徒が自分で設定したテーマで「卒論」を書くことで、そこには正解はないし、教師によるる誘導もない。ただ、プロセスはある。プロセスを側面から支援するのが教師の役割で、「正解」に導くことではない。


どんなに楽しそうにショーアップされた「授業」でも、それが「授業」である以上、それは探求学習ではない。私自身の子ども時代の経験から言っても、むしろ教師のそのようなふるまいは邪魔に感じていた。先生、ほおっておいてくれないかな、自分で調べて、考えて、探っていくからと思ったんじゃないか。


子どもが探求学習を始めるきっかけはほんとうに人それぞれのはずで、ぼくが7歳くらいのとき、突然、神社にゴイシシジミが飛び始めた。それまでものごころついてから数年間見たことがなかったのでびっくりして、なぜだろうと思った。そうしたら、ぼくの蝶の師匠である当時大学生の伊藤さんがけんちゃん


ゴイシシジミというのは、なぜかわからないけど、個体数が激しく変動するらしいよ、と一言言った。それがものすごく印象に残って、ゴイシシジミは幼虫がアブラムシを捕食する日本で唯一の完全肉食の蝶だけれども、そのことと個体数の変動はなにか関係があるのだろうかと思った。研究があるかどうかは


わからないし、最近調べたこともないけれども、今、探求学習について書いていて、ふと子どもの頃のことがよみがえった。あの時小学校に探求学習の時間があったら、ぼくはきっとゴイシシジミの個体数変動について調べていたのだろう。そして、先生や大人たちも、きっと正解など持っていなかっただろう。


探求学習は、本来、正解のないオープンエンドな探求であるはずで、その意味ではラジカルな立場であるが、これからの時代にもっとも必要なことである。しかし、ペーパーテストという評価関数になれている日本では、探求学習と言っても結局親や教師が特定の方向に導くなにか別のものになってしまうかも


しれない。それでは探求学習の名に値しないのであって、従来の教育観、学習館のほんの少しの変形に過ぎぬ。


以上、連続ツイート2223回「探求学習とはなにか」をテーマに、8つのツイートをお届けしました。

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