嵐のみなさんが2020年末で活動を停止されるという記者会見で、「無責任ではないか」「大野さんが悪者にされてしまう可能性もある」という質問をした記者さんがいらした。

 それで、ネット上ではいろいろな反応が出ているけれども、私は正直、「驚いた」というのが感想である。

 どこからそんな質問が出てくるのか、その発想が私の中にはないというか、想定外の質問だったからだ。

 この質問に怒っている人が多い。

 とにかく私にとっては「エイリアン」のような記者さんの質問の背景にある「価値観」とか「前提」のようなものを探ってみた。

 「無責任」というのは、嵐は人気グループで、レギュラー番組も多く、また、何よりもファンの方々の夢、期待もあるから、嵐としての活動を続けるのが「責任」だというのだろうか?

 それで、どんな理由であれ、嵐としての活動をやめてしまうのは、「無責任」だというのだろうか。

 また、「大野さんが悪者にされてしまう可能性もある」というのは、今回、大野智さんが人生で他の道も探りたいというようなことで活動停止のきっかけになったことを、「悪者にされてしまう」というようにとらえたのだろうか。
 
 どちらも、ものすごく変な発想、価値観だと思う。

 ぼくはこう考える。
 アーティストは、それぞれ、自分の表現したいことを探っている。それは、内面の必然性から生まれるものである。

 つまり、無意識との対話であって、そこから何が出てくるかわからない。

 そのようなアーティストという「個」が集まったものが嵐のようなグループである。

 個の必然性が変化して、違う方向にいったら、いつ終わるかわからないし、また、そのような生命だからこそ、アーティスト活動として輝く。

 ビートルズの結成と解散の事を考えればわかるだろう。
 
 もし、ビートルズが、「責任」があるから、メンバーが悪者にされてしまうからという理由で、義務感から活動を続けていたとして、その活動は楽しいもので、アーティストとしても輝くものになったろうか?

 今回、嵐のみなさんは、2020年末まで(まだ2年近くある!)活動をしてそれで停止すると予告したことで、十分に記者さんの言う「責任」を果たしていると思う。

 これ以上、何を求めているのだろうか?

 また、社会の中では、この記者さんの言うような「責任」や「悪者になる」というわけのわからない価値観に縛られて、無理して我慢していたり、自分の内面的な必然性を追いかけられないで苦しんでいる人たちがいっぱいいると思う。

 その意味でも、とても良くない質問だった。

 記者さん自身が、同じような「責任」の文化の中で生きて、他の人にもそれを押し付けて暮らしているならば、これがいい機会だからそういうやり方をやめて自由になったらいいと思う。

 アーティストが輝くのは、精神の自由があるときである。
 そして、アーティストではないすべての人たちも同じことである。

 ぼくは、大野さんを始めとする嵐のみなさんの今回の決断、そしてとても丁寧な発表の仕方を支持します。

 みんなで、もっと自由になったらいいと思う。

(クオリア時評)


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