連続ツイート第2117回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「タトゥー」のことについて。
タトゥーの方が、温泉やプールなどに入れないという問題、以下に述べるように、きわめてシンプルな論理学、集合論の誤謬であって、明日からでもそのようないわれなき差別は撤廃するべきだ。インバウンドのお客さんも増えている今、放置すれば日本の国際的恥である。
タトゥーを入れるということが、過去において、特定の社会的勢力の方に見られ、またそのような方々がある特定の行動(威嚇など)をされたと言っても、すべてのタトゥーの方がそういう行動に出るということは、集合論としてもちろんならない。ベン図を書けば、小学生でも理解できるだろう。
タトゥーを入れている方の一部分に、ある特定の行動が見られる(その事実自体もどれくらい確かか疑わしい)ということで、タトゥーを入れている方全体に、温泉やプールに入れないという不利益を与えることが、集合論としておかしいのは、落ち着いて考えればすぐにわかることである。
次に、タトゥーを見るとこわい、不快だ、ということを理由に、温泉やプールへの入場を制限すべきだと主張する方がいらっしゃる。これは、(おそらくは偏見と無知に基づく)自分の感性を、パブリックな場の運用のルールにせよ、と主張していると解釈できる。
自分の感性に基づいて、公のルールを決めろ、という主張が、論理的にどのような構造をしているのか、少し冷静に振り返ってみれば、誰でもわかるはずだ(と私は信じる)。個人と集団の関係。その意味で、タトゥーの方の入浴、プール利用の禁止はナンセンスだということは自明だろう。
親からもらった身体を傷つけるのはうんぬん、私はタトゥーをしないうんぬん、タトゥーは嫌いだうんぬん、日本において、タトゥーの方の入浴、プール利用を禁止することを主張する方々の主張は、ことごとく論理的に脆弱であって、批判的思考の深刻な欠如を示唆している。
世界的に見た、タトゥーの文化的、社会的意味合いの広がりを考えた時に、この現代の日本で、タトゥーの方の入浴、プール利用の禁止という奇妙なルールが温存されているのは、ひるがえって、日本における批判的思考の風土の欠如というより深刻な一般的問題の表れだと私は考えている。
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怖いと思い、席を移りました。これは偏見なんでしょうか?自分は海外生活も長く、所謂TATTOOは何とも思いません。
補足としては
自閉症スペクトラムの可能性を示唆しましたが
御自身が本当に客観性のある
脳科学者という御立場なら
薄々は御自身でも気付かれていたのではないかと思っているし
茂木氏がテレビ出演をされた際の
やや目線が定まらない落ち着きのない仕草などからも、
ある種の不安定さが見受けられたし
以前から細かい部分などを注視しながら自分なりに考察していたのですが
ADHDに見られるじっとしていられないような多動性の片鱗も見え隠れしていたので
研究者などに多いアスペルガーの傾向と、
協調性の影響から
組織や団体に従属する事を良しとしない起業家や表舞台に立とうとする人に多い
ADHDの両方の特性があるように感じていて
後天的な学習から
一定の社会性やコミュニケーション能力を身につけたものの
本質的にはそこまで
コミュニケーション能力も高くはない方だと推察しています。
「公序良俗」とか
「公心」みたいな感覚を大事にしたり
相手がどう考えるか?
を優先する「相手主体」の主体性の文化圏であり
無軌道な自由による「個人主義」や「自由主義」を認める世界の流れの方を問題視すべきで
(例えば自由の名のもとによる
自分主体の中で「表現の自由」だからと相手の主義主張を軽視して、偶像崇拝を嫌うイスラム教徒に対して風刺画を発信する事で
彼らの尊厳や精神性を深く傷付ける行為をして
生まなくて済んだ憎しみかはテロにすら繋がったフランスの問題など、無軌道な自由や自分主体の主体性は他者を尊重しリスペクトする事を軽視させるのでとても危険な思考である)
茂木氏は物事の本質が見えておらず
社会を維持する為の社会性の重要さも分かってないように思う。
そもそも茂木氏が
高学歴で専門分野に特化しやすい傾向で
思考も自分主体になりがちな
自閉症スペクトラムが根底にある人だと以前から感じていたので
時として
感情論や個人の主観による
発言の内容がしばしば炎上するのだろうし
根本にある御自身の思考の偏りが起きやすい部分に目を向けられた方が良いように思う。
なのでしょうか?
ベン図って、面白い!はじめて知りました。
一部の人たちの感性とか、わかりにくいものを単純化、抽象化することで明確にしてくれること。
また、抽象化されたものたちを、さらにシンプルに図式化できる可能性もあるのでしょうか?
感性って、そういうことを含めて、どういったものなのでしょうか?
タトゥーを入れてる人、いれていない人 、意味のある人、ない人、温泉に行きたい人、行きたくない人。これは同時に、自らの中に、様々な思いが存在するってこと、矛盾する嗜好とか志向が存在するってことで、そう容易くは単純化できないってことでしょうか?
そもそもベン図が示すことは、世の中は単純化が難しい???
ああ、わかりません。
刺青を入れる動機が所謂反社会的勢力の象徴でもあっただろう以前と異なる文脈で、現在は刺青がなされ、国際的にはそれは生き方やファションとして受容され、その受容が広範囲に広がる、それを国内も受け入れてこそだ、これも文化だと云う。気持ちは分かるけれど、刺青を入れるまで突き動かす程の動機とは何かとは思う。と同時に、刺青入れたぐらいで、入場出来る状況が制限されている、待遇に対しての違和感を吐露したい気持ちも分かる。
分かるけれど、刺青に対しての印象や捉え方はまだ以前の反社会的勢力の象徴的な頃を引き摺ってもいる。アウトローの印象は拭えない。
と云うより、そのアウトローらしさ故に、世の中への抵抗を態度で示したいと云うミュージシャンやラッパー等が刺青し始めるのでしょう。ある面、拒絶される事を寧ろ内包しているからこその刺青でもあるようにも思います。
刺青している全員が反社会的勢力である訳ではないのだから、刺青しているからと銭湯や温泉に入れないと云うのはオカシイと云う理屈は、気持ちは分かるけれどもと云う事に留まる位でしか現段階では、受け止められない様にさえ思います。
こう云う事が話題になる度に思うのは、寛容とか多様性と云うのは誰や何を比重にして捉えられるのだろうかという事です。
多様性や寛容は、使い手に応じて如何様にも都合良く使われている様に思います。
日本全体で考えると、ヤクザやその周辺の人間が反社会的アピールというか周囲への威嚇を目的として入れることが大半ではないでしょうか?
そのような人たちをプールや公衆浴場から排除することは合理的な理由になると思います。
そうじゃない人がいる、特に海外からの旅行者など、というところにどう対処していくかという点に関しては難しい問題で、僕としては答えは出てません。
国際的にどうたらという政治的問題じゃなくて、お店の人とお金払う人が決めることじゃないですかね。儲かってる温泉プールがわざわざ方針変える理由が無いので、この現状を変えたければ、例えば茂木さんがクラウドファンディングで金を集めてタトゥーokの温泉プール作って成功させるしかないんじゃないですか。それかお店の人とお金を払う人を説得させるか。でもお店の人とお金を払う人がどんな温泉プールを作るかは自由じゃないですか?実際、タトゥーの人が悪いことをするかもしれないという可能性は微妙ですがありそうですし。社会的批判や今の日本人を考えると説得させ変えるのは酷だと思う。やっぱ僕が思うのは、お店の人とお金を払う人が決めることであって、その人達で自由にすればいいと思う。茂木さんの立場は分かりませんが、僕みたいな外野の人が言うことじゃない。
後、タトゥーの意見は先崎さんの違和感の正体が面白いですね。これが先崎さんの意見か僕の意見か忘れたけどタトゥーって差別されるために彫るのに差別されてあれこれ言うのはどうなんでしょう。別にタトゥー以外の代替行動すればいいのに。
今後は寛容になっていくべきである、という主張があるのはおかしくありません。
けど一方、寛容でないからこそ、プールや温泉等の施設の運営者側が、利用者同士の思想の違いから来るトラブルを避けるために、一定の入場制限を掛けることについて、少なくとも今現在は認められてもいいのでは?という反論もできます。
現在の日本のタトゥー文化への寛容度を踏まえると、タトゥーに関しての入場制限を掛けることについて、即差別的だと断ずるのは、少し極端な論だと、一個人としては思います。
そうは言っても、ある程度タトゥーがファッション化してきているのも事実だと思われるので、これを機に議論が進んでいって、立場の違う人同士が歩み寄れるといいですね。
イスラムではタトゥーは禁忌ですし、アジア各国では罪人に刺青したり、ヤクザの象徴であったり、それも文化だと思います。
我々日本人だって海外に行けばその国の文化にふさわしい立ち振る舞いが要求されるわけです。それなりのレストランに行くにはそれなりの格好をしますし、中東では特に女性は露出を避けなければならないですし、逆にフランスでは公共の場ではブルカは禁止です。
なのでタトゥーが禁止のプールや温泉があってもそれは国際的な日本の恥だとは全く思いません。
それはその施設が決めればいいことで、ドレスコードと一緒です。タトゥーを入れた方がいっぱいおる温泉をよしとする人もいれば、雰囲気が悪いと感じる方もいるでしょう。
タトゥーオーケーのプールや温泉があってもいいとは思いますが、禁止のであっても差別では無いと思います。
暴力団…犯罪者のイメージが定着したのは何故なのか?歴史を紐解く必要がある様に思いますね。
何処かの誰かの諍いによる印象操作には、振り回されたくないものです。
共存できるシステムを提案してみたらどうですか?
私的に一番重要なんだと思うところは、文章最後の部分、「ひるがえって、日本における批判的思考の風土の欠如というより深刻な一般的問題の表れだと私は考えている。」
日本は、論理的な正当性などではなく、印象や偏見、妄想が先行する国であることは、この一件からでもやはり疑いようがないことと思います。
これは、つまり、温泉タトゥー問題のみならず、他の様々な問題にも多大な負の影響を与えてしまっているということです。
タトゥーや刺青があるから、それをもって即座に、入浴禁止とする、そんな考え方があっていいはすがない。
これは、人を見かけで判断する考え方であるのはもちろんのこと、何より、タトゥーや刺青をした人を差別しているところが、僕は許せない。
人が人を差別したり排斥したりするのは、いかなる理由があっても、許されることではない。
例えば、反社会的なお仕事に就いているからといって、その時点で、その人たちは全員が悪なのでしょうか。人間扱いされなくてよいのでしょうか。
反社会的なお仕事に就いてなく、極めて社会正義な真っ当なお仕事に就いている方だって、とんでもない犯罪を普通に犯している。
それどころか、そういうサラリーマンが、あるいはもっと高い地位にいる人が、反社会的な人達を、自己利益のために利用していたりもする。
そうなると、結局何が言いたいかというと、人を肩書きや見かけではなく、内容で判断すべしということ。
最近はもう少し違ってきてるようですが、日本の極道には、世界から賞賛される美学がありました。
災害救助、ボランティア、そして、カタギの人には手を出さないという掟など。
高倉健さんや、菅原文太さんのドラマが伝えたかったことも、そこら辺にあるのではないでしょうか。
どんな職業に就いていようが、それをもってただちに差別排斥されていいはすがない。
イタズラに、
人間を、人間の内実を見て判断する。
その単純で、しかし困難なアティトゥードが、もっと社会に浸透すれば、世界はもっとよくなっていくはずです。
深い人間理解のアティトゥードが、今、日本社会にはまだまだ欠けている。
くだらないレッテル貼りはもうやめて。
これらも全て踏まえた上で、温泉でのタトゥー問題を僕は今からもう一度考え直してみたいです(╹◡╹)
インバウンドのお客さんのことを含めてナンセンスなのはわかりますが今回の表現では言葉足らずだと思います。
固まってないというか。。。
説得力に欠けます。
一度タトゥーの方もOKにして、マナーの悪い方だけ対応してもイイのかなとも思いました。