連続ツイート第2092回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「生産性」について。


「生産性」というのは、ある文脈の中で定義される。そして、世の中にはたくさんの文脈があり、それをあらかじめ尽くすことはできない。だから、ある人間に向き合うときに、特定の文脈の「生産性」でその人を評価するのは、ごく控えめに言っても部分的な切り取りに過ぎない。トリビアルな誤謬である。


人を、その存在自体が尊いとして、特定の「生産性」で切り取ったり評価したりしないというのは当たり前の話で、なぜならば人間存在をすべて尽くせる文脈などないからだ。つまりそれはイデオロギーではなく、冷静、客観的な科学的態度に過ぎない。それが理解できないのは非論理性の表れである。


アラン・チューリングは同性愛者で、子どもはいなかった。しかしチューリングには「コンピュータ」という思考の子どもがいた。子どもを何人つくるかという「生産性」においてはチューリングはゼロだった。しかし、人類の文明に対する貢献においては、チューリングの「生産性」は高かかった。しかし


チューリングでさえ、その業績が今日のコンピュータ文明の生みの親だとは言えない。多くの人がいろいろな貢献をすることで、文明はつくられる。みんな相互依存していて、パス回しをしている。だから、特定の人の「生産性」を云々すること自体が愚かな態度だ。みんな支え合って、貢献しあっている。


政治家が反知性主義に走るのは洋の東西を問わず、最悪の意味でのポピュリズムである。確かに、ベスト・アンド・ブライテストの叡智は、必ずしも票を集めるとは限らない。それでも、生産性についての稚拙な議論は、政治的に害があることはもちろん、その論理的脆弱性において、恥ずべきことだろう。


以上、連続ツイート第2092回「生産性について」をお届けしました。


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