月別アーカイブ / 2019年10月

 生命の道

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 「沖縄」というと、本島のことを思い浮かべるかもしれないけれども、加えて周囲の島々がある。表情は、島によって少しずつ違う。石垣や西表に行くと、だいぶ雰囲気が変わる。波照間島まで渡ると、何かの気配が加わる。

 北に向かって、沖縄本島と縁が深い奄美を歩くと、似ているけれども、少し違った印象を受ける。通じているけれども、移ろいゆく気配もある。底に流れている水は同じだけれども、咲く花が微妙に色を変えている。

 私たち人間にとって、生命の道は、そんな風に、全部つながっているのだろうと思う。

 人間は、地域を区切ったり、名前をつけたり、境界に必要以上にこだわったりする。しかし、命は、本当はなめらかにゆるやかにつながっている。その伏線が見えてきた時に、心の底から、何か温かいものがこみ上げてくるような気がする。

 だから、沖縄と、それを囲むさまざまな土地は、パレットの上に並ぶ少しずつ彩りの違う絵の具のようだ。全体をぼんやり眺めていると、そこから次第に一つの素敵な絵が浮かび上がってくる。万物は、そんな感じでつながっているのだろうと思う。

 台湾に渡ると、また雰囲気が異なる。

 沖縄と台湾はつながっているようで、やはり、光や、熱の様相は違う。人々の佇まいも違う。夜の街を歩いていて、その空気に、異国にいるのだと感じる。

 台湾では、夜遅い時間まで、子どもたちが街を歩いている印象がある。時代や地域によっても違うのかもしれないが、夜の喧騒の中に、小さな瞳たちが輝いているその様子は心に染みる。

 台湾の街や自然の色やリズムに慣れたあとで、沖縄のことを思い出すと、なんだか心がほっこりする。ゆったりとした時間が流れ始める気がする。

 他者は自分を映す「鏡」である。その作用は、「同じ」と「違い」からなっている。同じものを発見することで、心のつながりを確かめる。違いがあることがわかることで、かえって、かけがえのなさに気づく。

 「同じ」と「違う」。その二つのモティーフが織りなす生命の道を行くことは、本当に心楽しいことだと思う。

 沖縄本島を中心に、台湾や、さらに向こうのフィリピンまで。あるいは与論や奄美、その向こうの屋久島や種子島まで。ゆったりと切れ目なく続く潮流がある。

 沖縄から続く生命の道は、少しずつ表情を変えながら、ゆったりと移ろいながら、どこまでも続いている。まるで、私たち一人ひとりの人生そのもののように。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

https://www.momoto.online/

 片隅で酒を飲む猫になる。

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 沖縄では、数限りなく、お酒を飲んできた。今までの人生を振り返っても、沖縄でのお酒は、特別な場所を占めている。

 大抵は、オリオンビールから始まる。なぜ、沖縄に来ると、オリオンビールを飲んでしまうのか、自分でも分からない。風土と味が、合っているのだろう。沖縄について、最初の一口のオリオンビールは、「ああ、帰ってきた」という実感につながる。

 そして、徐々に泡盛へと移行していく。好みの銘柄とか、こだわりとかは、特にない。ただ、飲んで、「ああ、美味しい」と思うだけである。美味い泡盛は、美味いとわかる。しかし、どうしてもその銘柄じゃないとダメだ、というような追求癖はないようだ。

 私の脳の個性なのか、ビールやワインなどのお酒を飲み過ぎると眠くなる。一方、蒸留酒である泡盛は、眠くなるというよりは、むしろ頭が冴え冴えとしてくる気がする。だから、談論風発する。泡盛を飲みながら、友とゆんたくする時間は、沖縄のゴールデン・タイムである。

 沖縄で飲むお酒で大切なのは、セッティングである。どのような場所で飲むかということで、だいぶ味が変わってくるような気がする。

 樹の下などいい。風が通り過ぎるところがいい。できれば、海が見えればなおのこと良い。どこからか、誰かが弾く三線が聞こえてきたら、最高である。猫が足元に歩いてきたり。

 沖縄で飲むお酒は、次第に、自分がさまざまな余計なものをそぎ落として、素の人間になっていく過程のような気がする。それが、自然と、やわらかく進むから、たまらない。

 自分が素であることにすら気づかないような、そんなやわらかな絹のような感触が、沖縄でのお酒にはある。仮面をかぶっている自分から、素の自分へ、劇的なジャンプがあるというよりは、いつの間にか油断して、緩み、そして開かれているのである。

 ゆるやかな移行のためには、ほんのささやかな、片隅があればいい。

 元々、私は、隅っこの方で飲むのが好きだ。静かに、ひそかに、片隅で時を刻む。

 そのような時、隅っこの暗がりの中で、オリオンや、泡盛を飲む。時々、行き交う会話にちょっかいをだしたり、黙りこんだりする。いつの間にか、自分が猫になってきたような気がしてくる。

 沖縄の人は、やさしいから、隅っこの猫がおとなしくしている時は、放っておいてくれることが多い。こっちの明るい方に出てこいよ、と言われることもない。

 片隅でお酒を飲む猫が住みやすい。沖縄は、そんな土地である。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

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 沖縄への修学旅行

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 先日、沖縄県ゆかりのある団体のお誘いで、お話をさせていただいた。沖縄への修学旅行を考えている学校の先生方が集まるイベントで、修学旅行一般の意味、とりわけ沖縄への修学旅行の魅力についてお話したのである。

 その際に知ったのだけれども、例えば都立高校で言えば、なんと40%以上の学校が沖縄への修学旅行を実施しているのだという。時代は確実に変わっている。結構なことだと思う。

 沖縄に修学旅行で行くなんて、私としては羨ましくて仕方がない。私は、中学も高校も、行き先は京都奈良だった。もちろん、古都の魅力も捨てがたいが、多感な年齢の時に、沖縄の自然、ひと、文化、そして歴史に触れることには、大きな意味があると思う。

 よく、学校の先生は、「家に無事に帰るまでが、修学旅行だぞ」と言われる。子どもたちの安全な帰宅を願っての発言だが、私は、さらに、次のようなことを子どもたちに言いたい。

 「修学旅行は、一生続くぞ」と。

 脳の中では、一度経験したことは、その後も育ち続ける。「過去は育てることができる」。中学生、高校生として体験した沖縄は、必ずや、脳に鮮明な記憶として刻み込まれ、年月とともに、少しずつ育って、その人生に豊かな影響を与え続けることだろう。その意味で、沖縄への修学旅行が増えることは、大いに結構なことだと思う。

 旅することのよろこびの一つは、ふだんの生活とは異なる環境に身を置くことで、自分自身を振り返るきっかけを得ることである。脳には、ミラーニューロンと呼ばれる、他人と自分を鏡のように映す神経細胞がある。他者という鏡に映った姿を通して、自分を見つめなおし、客観的に見るかけがえのない機会が生まれる。

 沖縄は、歴史的に見ても、文化的に見ても、とてもユニークで魅力的な土地である。たとえば東京から旅した子どもたちは、沖縄の人、自然、文化、そして歴史に触れることで、自分たちの普段を振り返る大切な気づきを得るだろう。平和の大切さについても、改めて噛みしめることができる。これ以上の学習はない。

 最近では、沖縄の各地での「民泊」や、エコツーリズムなどの新しい修学旅行のかたちも模索されているという。一度沖縄の魅力に目覚めた子どもたちは、ずっと沖縄のことを大切に思ってくれる。沖縄への修学旅行が、これからもますます盛んになり、深く広いものになることを願ってやまない。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

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