月別アーカイブ / 2019年10月

星の光の恵みの下で

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 私がいちばん最初に沖縄にあこがれ始めた理由は、少年の時に追いかけていた蝶からの連想だが、その思いが深まったきっかけは、一つの歌である。

 小学校高学年の頃に、NHKの『みんなのうた』で流れていた、『月ぬ美しゃ』。

 言うまでもなく、八重山地方の有名な民謡だが、『みんなのうた』では、その歌詞を標準語にアレンジして放送していた。

 本来の、八重山の言葉で聞いたのは、ずっと後になってのことである。 

 いずれにせよ、『月ぬ美しゃ』を聴いて、私の心の中に、沖縄の一つのイメージができた。

 美しい夜空に近い場所。星や月が輝くその夜空の下で、人々が心を通わせている土地。それが沖縄。

 大人になって、竹富島に旅して、夜道を歩いていた時にも、私は、『月ぬ美しゃ』がもたらしたそのような感覚を追い求めていたのかもしれない。

 地上から邪魔をする光がないその暗闇の中を、大きなコウモリが飛んでいって、その影を追いかけていくと、明るい月が輝いていた。

 どこからか、三線の音が聞こえる。

 ああ、幸せだなあと、包み込む柔らかい暗闇の中でしみじみと想うことができたのも、沖縄ならではのことだったと思う。

 ところで、月光だけで地上のありさまを撮影する写真家の石川賢治さんにお話しをうかがった時、夜空がもたらす地上の変化に思いを寄せたことがある。

 石川さんは言った。月光で照らし出された地上のさまざまは、宇宙と直接につながっている。

 なるほど、と私は思った。

 昼間は、青空が邪魔をして、地上と宇宙が結びつかない。青空とは、つまり、大気によって散乱された太陽の光によってもたらされる事象であって、「濁り」のようなものである。

 夜になり、月や星の光が直接地上に届くようになって初めて、私たちは自らの小さな存在が大宇宙とつながっていることを実感することができる。

 私たちは、広大な宇宙の存在を前にして、むしろ、自らの生命を大切にしたいという魂の震えを感じるのではないか。

 大宇宙と、私たちの命と。

 娘の愛らしさを、月の光と比較して歌い上げる『月ぬ美しゃ』には、自然と向き合って暮らしてきた沖縄の人々の心根が表れている。

 だから、テレビから流れるその旋律を耳にした時、私の心の中にまだ見ぬ沖縄に対する強いあこがれの気持ちがこみ上げてきたのだろう。

 沖縄では、人は、星の光の恵みの下に暮らしている。

 素敵な島が、ずっとそのような姿でいて欲しいと心から願う。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

https://www.momoto.online/

 釣り糸の先の恍惚。

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 何十回も訪問しているのに、沖縄で釣りをしたことは、一度しかない。

 本当の泊港から船に乗り、座間味島に行った時に、港で釣り糸を垂らしたのである。

 釣りと言ってもいい加減なもので、民宿かどこかの店かで釣り餌と釣り針、糸をレンタルして、海辺で投げ込んだ。座間味の海はきれいで、透明度が高いから、泳いでいる魚が見える。

 こちらから見えるということは、向こうからも見えるのかなあ、と思いながら、「ぽーん」と餌を投げた。

 まるで空気のように澄んだ水の中に、餌が沈んでいく。その周りを魚が落ちつきのないように泳いで、何かの拍子で食いつきはしないかと心配になった。釣りをしていて魚が餌にひっかからないか気に病むのはへんな話だが、実際にそうだった。

 釣りは、引っかかってしまう魚が見えない状態が、心理的には良いように感じる。 

 透明な座間味の海だが、餌がすーっと沈んでいくとその先はさすがに見えなくなって、やがて、濃い青の中に糸が消えていくような具合になった。

 それで、ようやく安心した。

 浮きもつけない投げ釣りだったし、おそらく、最初から真剣に釣るつもりはなかったのだろうと思う。ただ、沖縄の海と、触れ合ってみたかったのだろうと思う。その形式が、釣りだったのである。

 一時間くらい垂らしてみて、何度か引きはしたのだけれども、結局一匹も釣れずに終わった。その間、ずっと、海の水が次第に濃くなってやがて見えなくなる、その先のことを想っていた。

 学生時代、沖縄に行き始めた時、座間味島の隣の渡嘉敷島で、沖縄の魚との新鮮な出会いがあった。宿泊した民宿で、夕方ぼんやりしていたら、おばさんが海から大きな青い魚を抱えてきたのである。

 はっと息を飲むような、美しい青い魚だった。竜宮城から来たのかと思った。

 「ブダイですよ。」

 おばさんが、事も無げに言った。その美しい魚を、夕食に出すのだ、と聞かされた時、乙姫さまの魔法にかけられているようなそんな気がした。

 以来、沖縄の海は、計り知れないような気がしている。海は見えないところがほとんどだからこそ、生命の豊穣があるという予感も生まれる。

 人間もまた同じことで、見えるのはごく一部分だけ。無意識の中に潜んでいるさまざまなものたちを想像しながら、言葉を交わし続けることは、どこか、釣り糸を垂らして揺れる水面を見ている時間の恍惚に通じる。

 ほとんどが見えないからこそ、探る喜びもあるのである。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

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 沖縄そば賛歌。

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 沖縄に行くと、必ず一回は、沖縄そばを食べる。

 これはもう、ほとんど信仰のようなもので、一回どころか、二回も三回も食べる。

 呆れたことに、考えてみると、朝も昼も夜も沖縄そばを食べたことすらあった。もちろん、他のものも食べているのだが、それぞれ、一つの必然のように沖縄そばを口にしたのである。

 ここまで来ると、自分でもどうかしていると思う。

 沖縄そばの素晴らしい点の一つは、それだけ食べ続けても飽きがこないということだろう。

 あの麺も素晴らしいし、透明なスープも素晴らしい。そして、三枚肉や、ソーキなどの具も良い。紅しょうがの色味も良い。あれやこれやで、沖縄そばを愛する人生になってしまっている。

 沖縄そばには、押し付けがましいところがない。きちんと芯がありながら、周囲に溶け込んでいる。どんな日も、体調、心理状態の時も、すっと入り込んでくる。だから、何度食べても飽きないのだろう。

 このように沖縄そばのことを書いていると、実に、あるものに似ているなあ、と思う。

 それは、一つの自然現象である。そして、常にそこにあっても、飽きることはない。

 つまりは「風」。沖縄そばが飽きないのは、風にいくら吹かれても飽きないことに、とても似ている。

 これが、雨だと、そのうち嫌になってしまう。晴天でさえ、たまには雲が出てくれればいいのに、と思う。ところが、適度の風は常に心地よい。ずっと吹いていても、全く構わない。

 自然の風には、押し付けがましいところがない。それは、常に、揺らぎつつ、吹いている。いつ吹き始めたのか、気づかないことすらある。いつの間にか始まって、いつしか終わる。

 沖縄そばにも、似たようなところがある。気づくと、目の前に置かれている。もちろん、お店の方が一生懸命につくってくださったに決まっているのだけれども、あたかも自然現象のような、そんな、気取らぬ風合いがある。

 だから、沖縄そばと風は、とても相性がいい。島の食堂で風に吹かれながら食べる沖縄そばは、最高である。

 風を見えるようにする芸術家として、オランダのテオ・ヤンセンがいる。その構造体は、まるで風の彫刻のようだ。

 考えてみると、沖縄そばは、沖縄の風をかたちに変えて食べ物にしたものなのかもしれない。

 沖縄そばを食べる度に、心の中に風が吹く。また食堂にでかけていって、沖縄そばを注文したいと思う。

 きっと、心地よい風が、命を更新してくれるだろう。

このエッセイは、雑誌「モモト」のために書かれ、掲載された文章です。

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