月別アーカイブ / 2019年08月



セミがあちらこちらで鳴いているけれども、都会のほとんどの場所はコンクリートやアスファルトでかためられているわけだから、残りの「地面」で幼虫時代を過ごしてやがて出てくるしたたかさは凄いと思う。


その昔、大地がどこでもむき出しになっていた頃のセミの合唱はこんなものじゃなかったんだろう。


そういうことを考えると、人間はろくでもないなと思う。


ときどき、地面が工事でかためられてコンクリートになっているのを見るけれども、地下で幼虫をやっていたセミたちは出ようとしてあれれ、出られないと困るんじゃないか。


そんなことを考える人間もそんなにいないんだろう。


やっぱり、人間はそういうところはろくでもない。


でも、ほんとうはセミと同じように、人間もはかない存在のはずなのだけれども。


(クオリア日記)


連続ツイート2317回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


小津安二郎監督の『麦秋』で、原節子が演じる「紀子」が、家に帰ってきて、なんのためかわからないけれどもやかんを持って階段を上っていくところを横からとらえたシーンがある。おそらく紅茶かなにかを入れるのだろう。


紀子が、やかんを持って階段をのぼる。そのシーンは、『麦秋』の中で2回か3回くらい出てくるのだと思うが、何気ない、取り立てていうことのない日常を描いていて、そのことを紀子自身もおそらくは意識していない。


それが、映画史に残る、あの杉村春子演じる「お母さん」が息子のために紀子との結婚の交渉をして、それを紀子が突然受け入れてしまうという展開の中で、やかんを持って階段をのぼるという紀子の日常は、失われてしまう。家族のかたちもばらばらになって、二度と戻ってこない。


小津安二郎の映画は、常に、何気ない日常の底光りする味わいを描く。ずっと続くように思われるけれども、実はいつかは終わる。小津は、とりつかれたように、家族の日常が終わる様子を描き続けた。それはホームドラマであって、ホームドラマを超えたプラトン的イデアであった。


紀子がやかんを持って階段をのぼっていくあの数秒のシーンが、私たち人間にとってかけがえのない日常のありようを描いている。私たちはせいぜい100年この地上にいるだけであり、その間にも人生の様相はどんどん変わっていく。日常はある意味では修行であり、芸術的天上に至る道でもある。


以上、連続ツイート2317回「『麦秋』で、紀子がやかんを持って階段をのぼっていく時に立ち上がる日常の輝き」をテーマに5つのツイートをお届けしました。

連続ツイートまとめ.png

980回


い憂光軍さん


20歳。先天性感音性難聴(重度)。学生。沖縄県住まい。

僕の障害は先天性感音性難聴です。

感音性難聴の人の脳は、一般の人の脳に比べて、どこの部分が衰えているのか教えて欲しいです。


ご回答。


それは、ご苦労されていることと思います。。


感音性難聴は、聴覚の一連の過程のうち、末端(hair cellなど)はちゃんと動いているのですが、それが脳の聴覚野に伝わって処理される過程のどこかに問題があることで起こります。


どこに問題があるかは、詳しい検査をしないとわからないのですが、い憂光軍さんも診察を受けられていることと思います。


治療、改善の試みをしつつ、その状況の中で、できること(たとえば視覚情報で補うなど)をやっていくのがいいと思います。


脳は、苦手なことがあると、それを補う能力を発達させようとします。


い憂光軍さんにも、そのような能力が芽生えていくかもしれません。

nounandemo
 
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