月別アーカイブ / 2019年02月



会田誠さんの講座に行かれた方が、精神的な苦痛を受けたと訴えていらっしゃるというニュースを読んだ。


会田誠さんの作品やそのお人柄を知っている方にとっては、会田さんがどのような表現や発言をされるかは、予想できるだろう。


一方で、何もご存知なくて、ただ、大学が提供する美術講座であるという「パッケージ」で理解されて行かれて、不意打ちになったのだとしたら、精神的苦痛を受けるということはあるのだと思う。


それをどう評価するか(特に法的に)というのは、難しい問題のように思う。


法的評価を離れて、美術というのは一般に感受性が多様なものである。


会田誠さんの作品に好意を持つ人(私を含めて)はいるだろうし、ぜんぜんわからないという人もいるだろう。


現代美術自体がそもそも社会規範に対してある種の批評性を持っているのが存在意義であるというようなところがある。


バンクシーのアートを落書きだという倫理的側面から批判する人もいるだろうし、だからこそそこを含めてバンクシーだと評価する人もいる。

「印象派」のような評価が定着している(ように見える)アートだと安心する人もいるだろうし、逆に号いくらだとか、「日曜美術館」的にしたり顔で語られるようなアートだと、落ち着かないとか、物足りないとか、さらに言えば感受性を傷つけられると感じる人もいるだろう。


つまりアートの感受性は人それぞれであって、どれも正解とは言えない、というのは現代において美術を考える上でどうしても譲れないところなんじゃないかと思う。


その上で、なんとはなしに、この人の感受性はエッジが立っているとか、先に行っているとか何人かの人が感じる人がいて、それがなんとはなしにあるコミュニティでの合意とか雰囲気になって、そういう人が現代美術の世界では評価されるというような流れはあるだろうけれども(ターナー賞とか)、それは決して唯一の解ではないということも事実なのだろうと思う。


そんな「相対」のかたまりのようなアートの世界に、法が切り込むのはそもそも相性が悪いような気がする。


会田誠さんのような一匹狼的なアーティストと、大学という、組織やコンプライアンスで動く(と世間が期待している)場所では、ニュアンスも違ってくるのだろう。


結局、今回のことは、それぞれ感じ方が違うのですね、ということを確認するしかないような気がする。


(クオリア時評)


クオリア時評.png

↑このページのトップへ