月別アーカイブ / 2018年12月


人生って、ぼんやりしててつい見逃すことあるよね。

東京ステーションギャラリーでやっている吉村芳生さんの展覧会は、何がなんでも行くべき。

新聞に自画像を重ねたデートペインティングで知られる吉村さんだけど、花の絵がとにかくすごい。

現代美術の文脈で、世界に突き抜けてる。

というか、世界を突き抜けている。

実物にしかないアウラがある。

行って経験しないと、後悔すると思う。

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乙武洋匡さんがnoteで興味深いエントリーをしている。

「私の本が、売れません。」


取材もたくさん受けたのに、なかなか動かないというのである。

私にも経験があるが、本は売れるときは売れる、売れないときは売れない。

普通の意味でのパブリシティや、SNSなどの拡散は、実はあまり関係がないという気がする。

もちろん、知るきっかけにはなる。しかし、それだけでは人間の脳は動かない。

グラフ理論的に、どれくらいのノード(潜在的購入者)と接続しているかというような解析ではどうも本質が見えてこないと思う。

私が感じているのは、人々は「実質」や「イベント」に興味があって、それをいろいろなアンテナで探ろうとしているということである。

その際、タッチポイントは確かに重要だが、ほんとうに大事なのはものごとやイベント自体の実質であり、熱である。

乙武さんの小説には実質も熱もあるが、それが、普通のパブリシティのようなやり方では伝わらないこともあるのだと思う。

単なるグラフ理論的な解析ではもはや時代はとらえられないというのは、たとえば、地上波テレビでレギュラーを持っているような人が必ずしももはや(特に若者の間では)メジャーではないということでもわかる。

そういうことじゃなくて、実際にとてつもないことが起こっていたら、必ずひとびとはそれを探り当てる。どんな手をつかっても。

米津玄師さんがいたら、みんなそれをさぐりあてる。

楽曲をヒットさせるということだって、テレビでがんがん流せばそれでいいという時代ではない。

古典的なパブリシティが効かず、実質や熱だけしか意味がない時代が来ているとしたら良いことだと思う。

今回のnoteのエントリーが、「つながる」一つのきっかけになるでしょう。

実質も熱もある乙武さんの小説がたくさんの方に届くことを祈っています!

(クオリア時評)



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イギリス人の絵画の趣味について

 

 ここまで読んできた読者には、もう、イギリス人に真の意味での芸術作品を創り出すことを期待するのは、かなり難しいということが理解できているに違いない。したがって、私がここでイギリス人の「絵画の趣味」というのは、創作者としてのそれではなくて、あくまでも美術品の収集者、管理者としてのそれである。

 イギリス人の絵画の収集の趣味はどうだろうか? イギリスの絵画収集の本家本元は、ロンドンはトラファルガー・スクエアー(Trafalgar Square)のナショナル・ギャラリー(National Gallery)である。そして、ここに集められた絵の趣味はどうかと言えば、個人的な感想を言えば「遺憾」としか言い様のないものである。

 すばらしいテクニックで、素晴らしく描かれているのだが、今日では「ジャンルとして死んでいる」類の絵がある。遺憾ながら、ナショナル・ギャラリーに集められた絵は、「ジャンルとして死んでいる」セクションが余りにも多い。(このような点から、趣味が「素晴らしい」のは、例えばスペイン、マドリッドのプラド美術館である)このような意見が決して個人的なものではないことは、バスの中で明らかに大陸ヨーロッパから来たと思われる若者が、ナショナル・ギャラリーについて「何て退屈なんだろう(It's so boring)」と言い合っているのを目撃したのが一度ではないことからもわかるであろう。


 しかし、ここでも、イギリス人の名誉のために一言付け加えておけば、ナショナル・ギャラリーはイギリスの博物館、美術館に共通して言える二つの素晴らしい美点を備えている。すなわち、入場料が無料なことと、馬鹿らしい荷物検査が最小限にとどめられていることである。これで、もし、収蔵された美術品がすばらしかったら、沢山の人々が押しかけて大変なことになってしまうだろう。従って、ナショナル・ギャラリーの中の絵がそれほど魅力的なものでないのは、実によく計算されたイギリス人のバランス感覚の表れと言ってもよいのである。

 

 そんな、イギリス人に一番理解しやすい絵のジャンルは、印象派の絵である。

 印象派の絵の特質を一言で言えば、「風景をぼんやりと見てその印象を描いた」ということである。印象派の描くような絵は、古典的で写実的な絵に比べて、風景に関して少ない情報量しか含んでいない。このような少ない情報量から、風がそよぎ、太陽がきらめき、波がうねる生き生きとした風景を思い浮かべることができるというのは、人間が持つ優れた能力の一つである。印象派は、絵画に托される人間のイマジネーションを写実から解放し、近代絵画への道筋を開いたのである。

 しかし、印象派が近代絵画の先駆けであったという事実は、同時に、それが、近代絵画の持つ欠点をも合わせ持っているということを意味している。印象派の特質を繰り返せば、「風景をぼんやりと見てその印象を描いた」ということだ。別の言い方をすれば、ぼんやりとしか見ていないということになる。周りのものをぼんやりとしか見ないということは、実に、視力という感覚が衰退した現代人の特質である。このことは、印象派の絵の隣に、例えば古代ギリシャ・ローマの「写実的な」彫刻を並べてみればわかる。馬の腹部の血管まで解剖学的な正確さで描写しなければ納得しなかった古代ギリシャの無名の芸術家たちに比べて、印象派の画家のものの見方は甘いとも言えるのである。もちろん、イマジネーションによる現実のデフォルメという付加価値があるにせよ、印象派の画家は、馬の腹部の血管の走りを捉えるほど、「現実」を突き詰めて見てはいないのである。そのような現実の細部まで見ることなしに、何となく「見た気に」なってしまうのが、現代という時代の精神的な弱さの一つなのである。

 さて、イギリス人の印象派好きについてである。

 イギリスには、ターナーという偉大な風景画家がいる。確かに、その絵における空の雰囲気には、独特のものがある。場合によっては、独創的だとさえ言っても良いかもしれない。彼も、風景の印象を描いた画家であり、「風景をぼんやりとしか見ていない」という点では、印象派と共通するものがある。しかし、ターナーの場合、印象派と異なり、絵に対する独自のアプローチに基づき「風景をぼんやりとしか見ていない」のではない。彼の場合は、イギリスの天候が曇りがちで、霞や霧もかかりやすいので、良く見ようと思っても、見えなかったのである!

 印象派の絵に対するイギリス人の嗜好は、イギリスの自然環境に由来するというのが私の説である。印象派の絵は、全てのものがマイルドなぼかしをかけたように見えるイギリスの気象条件を通して、多くのイギリス人にとって生まれた時からすでにお馴染のものになっているのである。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)

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