月別アーカイブ / 2018年12月



大晦日、ということで、突然、思い立って、フルマラソンの距離を走ってみた。

42.3キロ、走ってみた。(笑)。

寒かった。。。。。。


途中、あまりにも寒かったので、たまたま見つけた松屋に寄って、牛丼をたべてしまった。

店員さんも、この寒い日に、半ズボン、裸足のスニーカーで入ってきた客を見て、変わった人だなあと思ったろう(笑)。

さすがに上は長袖を着ていたけど。

しかし、まさか、フルマラソンの途中だったとは思うまい(笑)。

松屋に寄ったのは、24キロ地点あたりだった。

途中で風が強くなって、もう嫌だなあ、と思ったけれども、夕方になったら風が止まって、まだまだ行けるじゃん、と思ったけれども、実は足がひくひくしていた(笑)。

最大の問題点は、昨年の東京マラソンの朝の計量よりも、今日の体重は7キロもオーバーしていたということである(爆)。

自分の不摂生が悪いのだが、1キロ減ると10分縮む? とかいうマラソンの世界で、7キロオーバーは痛い(笑)。

とにかく、大晦日の走り納めということで、なんとか42.195を上回る42.3キロ走った。

途中松屋に寄ったり、ふらふらぶらぶらしたりしたので、6時間ちょっとかかったけれども(松屋に行っている間も計時止めず)、7キロオーバーの突然マラソンにしては、まあ、いいかなあと思う。

それで、走り終えた自分にご褒美、というような言い訳で、今、午後7時の時点ですでに缶ビールを3缶飲んでしまっているわけで、もう少ししたらグロッキーで紅白も見られずに眠ってしまう気がする。

みなさま、今年もお世話になりました。

よいお年を!

茂木健一郎(または、大晦日体重7キロオーバー突然フルマラソン人間)


(クオリア日記)

マラソン松屋.png






落合陽一さんがWeekly Ochiaiで話していることが意味不明だ、という記事があって、池上高志さんのツイートでそれを知って読んでみた。

【サバの話だったの?】WEEKLY OCHIAIというコント、あるいは地獄について。


この記事を書いた堀本見さんはとても文才のある人だと思う。これから注目していきたいと思います。

それで、件の落合さんの話だけれども、おそらく理数系の素養がある人にとっては、それほど難解ではないというか、その内容が認識できる、あるいは推定できる程度のことだと思う。

堀本さんは敢えておもしろく書いていらっしゃるけれども、もし、例えば理系の大学院の院生がその場にいたら、あー、チューリング・パターンの話ねとか、それなりに補って聞いていくのだと思う。

おそらく、これは何人かが指摘していることだけれども、普段接している日本のメディアのレベル設定が低すぎるというか、過剰に親切なので(あるいは猫なで声)、落合さんの語り方(そして宇野常寛さんの応じ方)のレベルが見たことないと感じられるだけで、実際には理系の研究者や院生は普段さらにわけのわからない話をしている。

たとえば量子統計の話だとか、超弦理論の話とかになれば、ほとんど意味不明の言葉が続くわけで、比較的わかりやすいと思われている脳科学や認知科学だって、専門家同士の会話は一般の方にはわからないだろう。

落合陽一さんが特別、というよりは、普段着でいるだけだと思う。
ただ、落合さんはちょっとばかり不親切すぎる(笑)というところがあるのだろうけど。

劇場効果(ここでは、動物行動学におけるeavesdroppingに近い意味で使います)
というのがあって、AとBが話していることを横から聞いて最初はわからなかったけれどだんだんわかってくるし、何よりもレベル設定がわかるということがある。

その意味で、Weekly Ochiaiは最高の劇場効果を持っているとは言えると思う。

逆に言えば、NHKを含めて日本のテレビを始めとするメディアのレベル設定は低すぎて(BBCのradio 4などでは、専門家どうしが普段どおりの対話をしている番組をよく流しているが、NHKではあれを1000倍くらいに薄めないとだめだろう)、きわめて残念な結果になっている。

日本のメディアは劇場効果がゼロなのだ。

むしろ、Weekly Ochiaiの劇場効果を地上波テレビなどにも広げていくフェーズに来ていると思う。

そうでないと、日本の科学技術リテラシーがいつまで経っても上がらないし、人々のレベル設定も低いままで終わってしまう。

ネット上では、オタク同士が一般関係なく自分たちの普段着のレベル設定で話し合っていることはよく見られることで、興味ある人は日本のメディアは捨てて、そちらの方に接して劇場効果を得るとよいと思う。


堀本見さんの面白い記事をきっかけに、日本のメディア状況の見直しが進めばいいな、と思います。

(クオリア時評)


落合陽一.png

イギリス人の俗物根性について。

 イギリスは、重苦しいと思われるほどの文化的伝統を持つ国である。斜陽気味とはいえ、イギリスの文化的伝統のいくつかのものは依然として素晴らしい。オックスフォードやケンブリッジのような大学は、小数の者しかその特権を享受できないという致命的な欠陥はあるものの、その教育システムには、アメリカや日本のようなマスプロ教育の大学が学ぶべき点が多々ある。
 しかし、このような素晴らしい社会的伝統の存在は、同時にそれに付随して様々な「勘違い」を生み出すことにもなったのである。何故ならば、これらの素晴らしい文化的伝統のまわりでうろちょろしているに過ぎないおっちょこちょいの人々にも、あたかもこれらの素晴らしい文化的伝統を創り出したのは自分であり、あたかも自分がそれを所有しているような錯覚を覚えさせることになったからである。  文化的伝統を自分が所有しているという錯覚は、裏を返せば、そのような文化的伝統を持たない人に対する、鼻持ちならない高慢な態度につながる。しかし、イギリス人はそのような高慢な態度を表面には出さないから、このような高慢さは、なかなか気がつきにくい。つまり、「イギリス風控え目(English Understatement)」の精神である。この、表面は丁重で、実は高慢であるという「慇懃無礼」な態度こそ、イギリス人の俗物根性の得意とするカムフラージュなのである。
 例えば、イギリス人は、自分が英語を喋れるということについて、英語を喋れない人間に対して「俗物」になり得る。あるいは、自分がロンドンに住んでいるということについて、ロンドンに住んでいない人に対して「俗物」になり得る。あるいは、オックスフォードやケンブリッジの卒業生は、そうでない人に対して「俗物」になり得る。
 ある時、私はロンドンで行われた会議で、隣に座った学者と話していた。その人は、私が何を言っても丁重に答えるのであるが、同時に、「本当はそんなことはどうでもいいのだけれど」(I don't care really)という雰囲気を会話の端々に匂わせるのであった。そして、同時に、「もし、私がその気になれば、君の言うこととは比較にならないくらい素晴らしいことを言えるのだけれどもなあ。」という態度を取るのである。もちろん、そのような「素晴らしい」ことを実際に言うわけではないし、また言うこともできないのであるが! いずれにせよ、その「俗物」ぶりは、失礼にならない程度に抑制された、ほれぼれするほどの絶妙なバランスの上に成り立っていた。それは、実際、「芸術」と言ってもよいほどであった。
 やがて、その人物は、「もう行かなければならない。私はケンブリッジに戻らなければならないから」と言って立ち上がった。私は、内心、「ケンブリッジに戻らなければならないからどうしたというのだ!」と毒づいたが、もちろん、表面上はにっこりと笑って「会話できて楽しかった」と答えたのである。この時ほど、私は自分がイギリスの妙な習慣に毒されたと感じたことはなかった!
 結論。英国生活の達人は、イギリス人の俗物根性にいちいち腹を立ててはいけない。英国生活の達人は、むしろ、イギリス人の芸術的な俗物ぶりを、微笑んで享受しなければならないのである。


英国生活の達人.png


(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)

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