月別アーカイブ / 2018年08月

連続ツイート第2122回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「やる気」について。


「やる気」は必要ない。むしろ、継続するためには、「やる気」などなく、ただ淡々と毎日続ければいい。さっと集中に入って、そのままフローになればいい。そのプロセスのどこにも、「やる気」は必要ない。


「やる気」という言葉が口にのぼるのは、「やる気がないんです」と何かをしないことの言い訳に使われる、否定の文脈が多い。そのような人は、「やる気」が手に入れば自分はできるのだと思っている。ところが、「やる気」自体が、実は障壁になっていることに気づかない。


実際には「やる気」などは必要なく、ただただ始めればいいし、続ければいいだけのことなのである。それなのに、いつまでも始めない、続けないことのいいわけとして、「やる気」というまぼろしを引き出してきて、それを障壁にしているだけのことなのである。


毎日やることに、いちいち、「やる気」を出していたら疲れるだけである。毎日、「さあ、今日もやるぞ、がんばるぞ!」などと気合を入れていたら、その時間が無駄になる。また、そのような気合を入れることが自体が、エネルギーの発散になって、一つ余計なステップになる。


「やる気」などという無駄なものにとらえわれずに、ただ、すーっとやるべき事に入って、そのまま集中すればいいのである。「やる気」など必要ない、ただやればいいのだと思うだけで、どんなに気持ちが楽になって、また、毎日の継続がフローに近くなることだろう。「やる気」は必要ないのだ。


以上、連続ツイート第2122回「やる気は必要ない」をテーマに、5つのツイートをお届けしました。

連続ツイートまとめ.png


 ラーメンにはいろいろあるけれども、もし選択肢の中にあれば、つい、味噌ラーメンを選んでしまう。


 なぜなのだろう?


 東京風の醤油味ラーメンも、ああ、ほんとうにおいしいなあ、と思って食べることがあるし、まったりとこくがあって、こんなに美味しいものはない、と思うことがある。

 

 また、とんこつラーメンもほんとうに美味しくて、九州にいようがいなかろうが、いつも食べたい。

 

 以前、ラーメン通には、究極のおいしいラーメンは塩味なんだ、と聞いたことがある。


 あれこれあっても、なぜか、味噌ラーメンが食べたいなあ、と思ってしまう。


 そして、コーンやバターもできれば入れてしまう。ネギも。


 このまま味噌ラーメン原理主義でぼくは良いのだろうかと、時々考える。


(クオリア日記)

みそらーめん原理主義.png
 


683回


カスミ さん


40手前の独身女です。いつも茂木先生の温かさに癒されています。ありがとうございます。今日は思いきってふたたび質問させていただきます。

私はだいぶ変わり者なのか、異性から好意や興味をもたれて近づかれると、途端に気持ち悪さが湧きたって、拒絶のいのちでいっぱいになります。同僚関係、友人関係であればなんともないのですが、自分が惹かれていた人であってもそれ以上はやめてと思ってしまいます。なので学生時代から、お願いだからだれも近づかないでオーラを無意識に放っていたと思います。それでもそれを察しないのか、気付かずに、自分アピールしてくる男性には、ばっさり叩きのめしたくなるのを抑えて振る舞うのに精一杯でした。

当然、結婚なんてしない、無理と決めていましたが、体調を崩して子どもを授かれなくなる可能性もあると婦人科で言われたことで、はたと思い直し、一緒になりたいと思える人に出会えたら結婚してもいいかな、30過ぎからゆるめに婚カツを始めました。それでもご縁をいただいて会う人、会う人への抵抗感は変わらず強烈にありました。

そんな中でこの2年ほどずっと気になっている人がいて、この人ならいやじゃないという感覚があり、ようやく気持ちを伝え、相手の方も真剣に考えていてくれたことを知ったのですが、私の信仰を受け入れられない気持ちとの狭間で、堂々巡りだったと正直に伝えてくれました。

私も自分の生き方になっていることを捨てることはできないし、心に大事にしてきたことをまったく受け入れられないのは辛いのですが、あーやっぱりこの人と生きていけたらと感じている気持ちが同時にあってとても苦しいです。

もし会って話せる機会をもてれば、相手の方が、私の信仰にどんな抵抗を感じているのか、疑問などありのままに聞けたらうれしいなと思っていますが、それを知ってその先のことを考えるとどうしたらいいのか、ずるずる悩むような気もします。お互いの幸せのために、いまの私に必要なこと、心がまえ、できることなど、なにかアドバイスいただけたらありがたいです。


ご回答。


ご信仰のことに焦点をしぼらせていただきます。


信仰というと、特定の考え方のように思いますが、ある体系、というよりもコミュニティという側面も大きく、結局、その信仰の方々にこんにちは、と挨拶する、そのあともおつきあいするということが本質なのだと思います。


信仰をもたれている方とそうでない方がいっしょになる場合、もたれている方が信仰をやめるというよりは、そうでない方がこんにちはをする、というケースが多いようです。


もし、そのお相手がカスミさんの信じられていることにこんにちはができるといいのですが。


内面は最後は自由です。内面以外のことは、究極的に言えば便宜上のことだと、私は考えます。

nounandemo
 
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