『モナ・リザ』の背景に描かれている風景が好きだ。レオナルド・ダ・ヴィンチは、モナ・リザの表情と同じくらいの心を注いでこの風景を描いたという気がする。モナ・リザも背景も同じようにフラットに見る態度があって、それを獲得した時、世界の見え方が変わる。すべては並列しているのだ。
村上三郎が、紙をつきやぶるパフォーマンスには、強く心を惹きつけられる。眼鏡をかけたアーティストの風貌や、その身体を含めて、この人がこれをやらないとダメだというものを感じさせる。「具体美術協会」の「具体」の神格化だとぼくは思っている。そしてその人が生きていた時代があった。
美術館を歩いていて、「花のブリューゲル」とも言われるヤン・ブリューゲルの作品に出会うと、心がふわっと動く。ただ花を集めて描いているだけだけれど、そこに「世界」がある。多様性の集め方。床に落ちている花や葉、昆虫。生きとし生けるものの、群れの気配。花が「世界」そのものになる。
岸田劉生の「切通」の絵は、今まで何回見たかわからないが、いつも魅了される。何が特別にしているのだろう。大きく迫ってくる土の質感と、塀と、木の生えた崖と、地面の影と、空の青と。ありふれたモティーフが合成を通して非現実の存在感さえ印象づける。絵画は配合の魔法だ。
ワグナーの『ローエングリン』一幕、エルザの呼びかけに対して何の呼応もない「神の沈黙」の場面は一つの効かせどころだ。無限だと思われるような時間の経過が音楽で表現される。やがて白鳥の騎士は姿をあらわすが、そこまでの憔悴こそが、奇跡の登場を心理的に準備する。
(毎朝、ツイッターでつぶやいていることを5日分まとめてお送りします)