月別アーカイブ / 2018年01月

 中心を外さずに。第89回。


 ヘンデルのメサイアの歌詞に、He was despised, despised and rejectedとある。
 イエス・キリストのことを指しているわけだけれども、新しい価値が登場する時には常にそのようなことがある。
 「印象派」という言葉だって、当時の批評家が批判する時につかったわけだし。

 それは社会の側の安定化装置のようなもので、それだけ可能性があり、勢いがあるから、批判して丸め込もうとするのである。

 もっともそれは必要条件かもしれないけど十分条件ではなくて、単に破壊的、ないしは露悪的なものもある。

 個物とその社会への受容はとても有機的なダイナミクスに基いていて、一つひとつ、一回ずつ違う。だから面白い。


中心を外さずにcloseup.png

昨日、浅葉克己さんが、自分の着ている服はザビエルだ、とおっしゃっていた。

自分から「ザビエル」と名乗るのを聞いたのは人生で二度目だ。

一度目は、畏友、郡司ペギオ幸夫で、出会ってしばらく経ったころ、メールを送ってきて、郡司が東北大学の学生だった頃、あたまをテンペンだけ残して剃って、「逆ザビエル」になったのだそうだ。

鏡を見て、これじゃあ大学に行けないと思って、マジックで塗ってごまかしのだそうだ。
これでだいじょうぶ、とバスに乗ってたら、女子高校生たちがくすくす笑っているので、何か面白いことあるのかなと聞き耳を立てたら、自分のことを笑っているとわかって、顔が真っ赤になって次の停留所で降りたそうだ。

(クオリア日記)


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第482回


coccomarieさん


茂木先生こんばんは。

20代後半の女性です。


私はゲームに熱中している大人を毛嫌いしてしまいます。


同居の弟が家族のいるリビングで何時間も無言でゲーム機に触れている姿や、電車の中で携帯のゲームの世界に入り込んでいる方を見ると必要以上に目を逸らしたくなってしまいます。


どうしてなのか検討してみたところ、ゲームをしている人が小さな画面に集中している間は、周りの環境にほとんど配慮できなくなっているように感じてしまっているから、ということに思い至りました。

ゲームに集中する人が目の前に立っているお年寄りに気付かないという光景も目にしたことがありますし、弟もゲームをしている間はコミュニケーションを破棄しているように感じます。


かくいう私も10歳頃までは小型ゲームが大好きで熱中していたこともあります。

ゲーム自体が嫌いというわけではないのですが、どうしても肯定できず、大人のそういった姿を見るたびについつい考えてなんだか疲れてしまいます。


どうすれば気にならなくなるでしょうか。


ご回答。


人間というものは、暇だと何か暇つぶしをしたくなるもので、ゲームは、ドーパミンを中心とする報酬系が適度に活性化する暇つぶしなので、ついやりたくなるのは人の性質として仕方がないものと思います。


ゲームで神経回路網の学習が進むという事実もあります。


一方で、ゲーム自体に、世の中に直接便益をもたらす効用があるわけではありません。


だから、coccomarieさんの、「周りの環境にほとんど配慮できなくなっているように感じてしまっているから」という直観はその限りでは正しいです。


「遊び」というのは、時間や空間が区切られて初めて成立するわけです。


ぼく自身は、かつてはゲームをやることもありましたが、最近はほとんどやりません。


端的に言って暇がない、というか、やらなくてはならないto do list(それはとても楽しいto do listです)が何年分もスタックしているので、ゲームをしている暇がない、というのが正直なところです。

ゲームをやるのも、やらないのも人の自由だと思います。

ただ、人生のto do listをいつも振り返るのは、誰にとっても素敵な作業だと思います。

nounandemo
 
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