月別アーカイブ / 2017年12月

 
 日本の地上波テレビは、どんどん劣化しているけれども、最近の「海外の日本食などの文化がダメだ」という押し付けがましい番組は、ほんとうにひどいと思う。

 下品、愚劣、そして傲慢である。

 外のものを取り入れて和風にするのは日本の得意なところで、カツカレーやナポリタンなどの名作があるが、これを「本家」から「そんなのダメだ」と言われたら、日本人はどうするのだろう。

 もう25年くらい前になるけれども、ブラジルのブラジリアに行って寿司屋に入ったら、気持ちの良い地元の方が握り寿司を出してくださった。

 そのサイズが、通常の「一貫」の半分になっていた。
 一貫を最初から包丁で切って小さくしていたのである。

 つまり、カナッペのサイズだ。

 そういうのは初めてでびっくりしたけれども、考えてみたら一口サイズで食べられるから、合理的だとも言える。

 それぞれの土地で、それぞれの文化を反映して独自の発展を遂げるのは当たり前で、昔は、日本のテレビだって、好奇心にきらきら満ちた目で、そのような外国の文化を取材していたものだ。

 メディアとしてのテレビは中立的だ。
 最近は、それを使う人たち、制作者たちの感性が腐っている。

 かつて、開高健がイトウを釣りに行く番組や、川の流れにバイオリンの音が響いたり、都会の子どもが北海道の原野に行って一から生活をする骨太のドラマを制作していた放送局たちが日本にもあったが、その同じ放送局たちが、今、タレントたちが内輪受けして手を叩いて笑う、堕落しきった馴れ合い番組を垂れ流ししている。

 外部性が全く欠けているのだ。

 電波の公共性を、どのように考えているのだろう。


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中心を外さずに。第62回。

歌劇『ローエングリーン』で、白鳥の騎士が見事にテルラムントを倒して勝利しても、その素性をエルザが信じられなくなるというのは、とてもよくできている。

美しく、強く、気高いという、人間の認知の中で強者、権威として認められる要素がすべて満たされていたとしても、その力をもたらしたのが白魔術なのか黒魔術なのかわからないという設定から、すべてのドラマは始まる。

白鳥の騎士は、エルザを見て、その素性を知らなくても信じ、愛する気持ちになったと説得するが、エルザの中に芽生えた疑念は大きく育ってついに破局を迎える。(素性を知らなくても信じ、愛するというのはシェークスピアの『テンペスト』でフェルディナンドがミランダを愛するのと同じ形式だ)

ワグナーの作品においては常にそうであるように、ドラマは寝室の破局で終わっていて、そのあとのグラール語りは心理的展開というよりは、一つの儀式的、しかしだからこそ近代を超えた感銘を与える。


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5歳の時、水田の中に、今まで見たことがないような生きものが泳いでいた。

ぼくたちは大いに昂奮して、「新種発見!」だと思い込み、さっそく命名することにした。

発見者の、もぎけんいちろう、ぬのめひとし、おおのしげゆきの名前から、文字を抜き出して、「のもひげ」と名付けた。

ひげみたいなのがたくさん、ゆらゆら揺れていたからだ。

これで、ぼくたちは有名になる、と思って走り回っていたが、あとで、大人に、それは「ホウネンエビ」と言うのだと教えてもらった。

新種「のもひげ」は、幻と消えた。

でも、あの時の、めくるめく新世界が見えたような感動が、ホウネンエビ=のもひげの異様な姿と響き合って、心の中に一つのクオリアの記憶としてある。

(クオリア日記)


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