月別アーカイブ / 2017年05月



「地上波テレビは1秒も見ない」とふだん公言している私だけれども、もちろんそれは一つのレトリックであって、面白い番組は時々見ることもあるし(例えば半沢直樹)、スポーツ中継は好きだし、朝の時間帯は、テレビでNHKのニュースをつけていて、音声はBBCのRadio 4を聞きながら仕事をしている。

時には、音声もNHKニュースにして内容を確認することもある。

そのような状況なので、NHKの(特に朝の)ニュース報道の項目や、その項目をどれくらい長く流しているかはかなり把握しているつもりだけれども、北朝鮮に関する報道の浅さ、画一性にはいささかうんざりしている。

北朝鮮のミサイルは脅威だし、その政権には大いに問題があると思うけれども、ミサイルが発射される度に、NHKがまるで一つの「型」のように同じ映像で同じ構成の「ニュース」を流し続けるのは、報道機関の姿勢としてどうかと思う。まるである「キャンペーン」のようで、およそ批評性がない。



NHKニュースが、北朝鮮というと、キムジョンウン氏が拍手したり、視察したり、軍事パレードの「映像」ばかり流す印象操作も、バランスを欠いていると思う。人口2500万人の国の多様性に対する想像力がない。このようなレッテル張りは、認知的な怠惰である。非常に残念に思う。

北朝鮮の内情を描いたドキュメンタリーは外国ではよくあるが、A state of mind (2004)はマスゲームに参加するために練習する少女を追った英国の作品。どんな体制でも、人々はたくましく生きている。当たり前の話だが。


 他にも、北朝鮮の内情を描いた作品はいろいろある。north korea documentaryで検索すればいい。英語が苦手でも、画面から雰囲気はわかるだろう。

 「独裁国家」などというレッテルを超えて、他国の生活の多様性を想像するのは、人間として当然のことだと思うし、平和にもつながるし、ある種の抑止力にもなると思うけれども、そのようなある種の理想論から離れて、マキャベリ的な戦略知性、という視点から見ても、NHKのニュース的な北朝鮮観には大いに不足がある。

「仮に」北朝鮮が危険な仮想敵国だとしても、最高指導者の映像や軍事パレードだけで印象形成する「公共放送」の国と、BBCのように多角的に報じようとする国では対応の強靭さが違ってくる。日本は愚かなモノカルチャー押しで、生命のしなやかさを失っている。過去の歴史でも似たことがあったことは、記憶に残っているところだろう。
 アメリカや英国と戦っていた時、「鬼畜米英」などというキャンペーンを行い、「敵性語」という言葉の下に、英語を排斥しようという愚かな行動に出た。
 戦争はあってはいけないが、かりに戦争をしていたとして、「敵」のことを知ろうとするのはインテリジェンスとして当然のことであり、自分たちの戦っている国が、戦争中であるにもかかわらず『風とともに去りぬ』(1939年12月15日、つまり真珠湾攻撃の1週間後に公開)や『カサブランカ』(1942年公開)といった映画をつくっていて、それを人々が観ている、ということを含めた文化的背景がある、と知っていたら、戦い方が変わっていたかもしれないし、そもそも戦わなかったかもしれない。

 NHKのニュースの北朝鮮関連の項目の編成のモノカルチャーを見ていると、物事を単純かつ稚拙に考えることであたかも団結しているかのような幻想を抱くという、この国の時に致命的な脆弱性は本質的に変わっていないと思う。
 きわめて遺憾である。

 ニュースにおける批評性とは何か?
 たとえば、キム・ジョンナム氏がディズニーランドに行くために日本に来たとき、なぜ日本の政府は「泳がせて」黙認しなかったのか。それ以前にも頻繁に日本に来ていたとされている。すべてを認知し、情報を収集しながら、教育程度も高くリベラルだと伝えられるキム・ジョンナム氏を、北朝鮮の後継者と体制変革の「カード」として温存しなかったのか? 
 わざわざニュースで騒ぎ立て、顔まで晒して、北朝鮮の後継者レースから脱落するような愚かなことをしたのか(英国だったら、MI5やMI6の連携のもと、もっとうまくやっていたろう)。
 結局、この時の日本政府の稚拙な対応が、今年キムジョンナム氏が暗殺されるに至る歴史の伏流になっているわけで、毎日のニュースで、そこまで精しく分析せよ、とは言わないけれども、すくなくとも歴史を一つの流れとして俯瞰する意識をニュースの報じ手が持っているかどうかくらいは、伝わってくる。
 そのような意味で、NHKのニュースの北朝鮮報道は、あまりにも刹那的で、報道機関としての責任を果たしていないと思う。

 もっとも、NHKもいろいろ事情があって大変だろうし、現場の方々も、さまざまな「忖度」や、「様式に関わる慣性の法則」に従って、グローバルに見たベストではないが、ローカルに見た最適化として日々のニュースを流しているのだろうから、そう簡単には変化できないだろうし、変化した時には我々にとってはもう遅い、ということになりかねないから、受け取り側が工夫して自衛するしかない。

 NHKや民放がいかにモノカルチャーでも、今の時代、ネットにいくらでも多様な素材は転がっているんだから、自分で検索すればいい。地上波テレビは、ぼくの感覚では全情報量の1%以下に過ぎない。今の時代、自分の主な情報源が日本の地上波テレビであるというのは、単なるリスクに過ぎないと思う。
 
 だから、ぼくは、「地上波テレビは1秒も見ない」と公言している。これくらい強く言わないと、現代において情報ソースのバランスを取ることの大切さが、伝わらないと思うから。



alltogethernow

ありがとうさん

脳のグリーフケアについて 質問致します。
一人息子に先立たれ、悲しみの底辺をさ迷い続けてきました。
何度か御相談申しました。
ありがとうございます🌿
先生のアドバイスを胸に、日々チャレンジ、そして規則正しく過ごす努力をしてきました。
最近なのですが、
ふっと気がつくと、息子の事懐かしいく、思い出しては苦笑いしてる、
自分がいます。
充実した日々です。
脳には「トラウマ」と「グリーフケア」のような力が備わっているのでしょうか?
その強弱、自分自身の認識と努力なのでしょうか?
悲しみの毎日でしたので、新しく生まれ変わったような感覚です。
宜しくお願いします。
関東在住の50代の主婦です。「

ご回答。

まずは、息子さんのこと、思っていらしていること、お言葉から、深く、強く、受け止めます。

脳の回路は、ある体験を、長い時間をかけて自分の中で受け止めていきます。

そして、体験が、自分と一つになった、いわば「自分の一部」になるまで変化していくのです。

息子さんがこの世からいなくなってしまったこと、そしてその悲しみは、大変な衝撃として立ち現れました。

それが、次第に、自分の中に取り込まれて、ふしぎなことに、息子さんの素敵な思い出と、その不在の悲しみさえもが、自分の一部、身体とつながる部分になったときに、次の人生の扉が広がるのだと思います。

息子さんの思い出、不在の悲しみが消えるのではなく、どちらも自分の大切な部分になることで、こもれびのような安らぎが訪れるのだと思います。

nounandemo

 
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というわけで、囲碁においては、人工知能が人間をはるかに上回る、ということが確定した。

井山裕太さんもコメントされていたけれども、そのことによって、人間同士の囲碁の対局の意味がなくなるというわけではないと思う。

自動車を使えばはるかに速く走れるけれども、人間どうしの100メートル走の競技の意味がなくなったわけではないように。

むしろ、人工知能によって、「囲碁の宇宙」の新しい可能性が示されて、そのことによって人間どうしの対局においても、部分最適となっていた打ち手が幅が広がって進化する、というようなことが起こってくるのだろうと思う。

その時、人工知能は、人間が思考の幅を広げて、さらに実力を強化する際の「頭脳ジム」的な役割を果たすようになるだろう。

私たちが求めているのは、人間のドラマである。

人工知能と人間の優劣がほぼ決した将棋において、藤井聡太さんのデビュー後の連勝記録が、大きな反響を呼んでいるが、この点に、ボードゲームの未来を考える上でのヒントがあるように思う。


treecat


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