月別アーカイブ / 2016年05月
オデュッセイア(3)
濃紺のセーターの男が持つ風船を見ているうちに、ジャックの心は、変容し始めた。
風船の、赤いプラスティックの表面が、なめらかな鏡のようになって、そこに周囲の様子が映り始めたのだ。
鏡の風船は、ふわふわと風に揺れながら、ぐるりと囲んだ昼下がりのニューヨーク公立図書館のありさまを映しだした。
小さな球体に、ジャックを含む、世界のすべてがぎゅっと凝縮されて集合していている。
そこには、ジャックがいた。
濃紺のセーターの男に風船を渡してから、母親に向かってかけていった女の子が息づいていた。
階段に座り、白いイヤホンを耳にして、足をカタカタ震わせているアフリカ系の男がいた。
ほれぼれするほど美しい毛並みのゴールデンリトリーバーをつれて散歩をしている、スパッツをはいた女性がいた。待ちゆく人にパンフレットを渡しながら何かを訴えかけている、髭面の男がいた。
そして、公立図書館の階段の上には、聖歌隊の姿をした一群の人たちがいた。賛美歌の調べが、かすかに聞えてくる。
中央にいるのは、ジャックの亡くなった母親だ。その横には、別れた妻、アイリーンがいる。学生の頃に付き合っていた、サユリがいる。子どもの時、一緒に遊んだ記憶が微かにある祖母の、しわくちゃの顔が、口をおおきく開けて歌い、笑っている。
歯が一本もない口をおおきく開けて、昼下がりの空気を呼吸している。
世界のすべてを、吸い込んでしまうかのような勢いで。
ジャックがはっとして、目を見開くと、幻覚は消え、風船の鏡面は、急速に濁り始めた。
あとには、元通りの赤い風船を持った、濃紺のセーターの男が立っているだけである。
公立図書館の前の階段は、ふだん通りの昼下がりの光景だ。
そして、風船を渡した女の子も、いつの間にかどこかに消えてしまった。
つづく。