月別アーカイブ / 2016年05月

 濃紺のセーターの男が持つ風船を見ているうちに、ジャックの心は、変容し始めた。
 

 風船の、赤いプラスティックの表面が、なめらかな鏡のようになって、そこに周囲の様子が映り始めたのだ。


 鏡の風船は、ふわふわと風に揺れながら、ぐるりと囲んだ昼下がりのニューヨーク公立図書館のありさまを映しだした。


 小さな球体に、ジャックを含む、世界のすべてがぎゅっと凝縮されて集合していている。


 そこには、ジャックがいた。 


 濃紺のセーターの男に風船を渡してから、母親に向かってかけていった女の子が息づいていた。


 階段に座り、白いイヤホンを耳にして、足をカタカタ震わせているアフリカ系の男がいた。


 ほれぼれするほど美しい毛並みのゴールデンリトリーバーをつれて散歩をしている、スパッツをはいた女性がいた。待ちゆく人にパンフレットを渡しながら何かを訴えかけている、髭面の男がいた。


 そして、公立図書館の階段の上には、聖歌隊の姿をした一群の人たちがいた。賛美歌の調べが、かすかに聞えてくる。


 中央にいるのは、ジャックの亡くなった母親だ。その横には、別れた妻、アイリーンがいる。学生の頃に付き合っていた、サユリがいる。子どもの時、一緒に遊んだ記憶が微かにある祖母の、しわくちゃの顔が、口をおおきく開けて歌い、笑っている。


 歯が一本もない口をおおきく開けて、昼下がりの空気を呼吸している。


 世界のすべてを、吸い込んでしまうかのような勢いで。 


 ジャックがはっとして、目を見開くと、幻覚は消え、風船の鏡面は、急速に濁り始めた。


 あとには、元通りの赤い風船を持った、濃紺のセーターの男が立っているだけである。


 公立図書館の前の階段は、ふだん通りの昼下がりの光景だ。


 そして、風船を渡した女の子も、いつの間にかどこかに消えてしまった。

つづく。

「オデュッセイア」これまでの連載。



 

昨日、お昼にジャージャー麺を食べて、それから本の取材の場所に行った。そしたら、編集の方と、出版プロデューサーの方が待っていて、座るなり、「茂木さんはお昼はお済みですか・・・」とおっしゃった。その瞬間、私はすべてを悟った(笑)。

開始が、13時と、微妙な時間だったのである。しかも、その場所は、お昼においしいカレーを出すことで知られるホテルのラウンジ。編集者と出版プロデューサーが、私とそのカレーを食べるつもりでいらした、ということを、一瞬にして悟った

その間、2秒くらいだったろうか。脳裏を思考が走った。もし、私が食べる、と言わない限り、著者を差し置いて編集者と出版プロデューサーがごはんを食べようとはなさらないだろう。すると、お二人は、空きっ腹にコーヒーということになる。

空きっ腹にコーヒー! この世に、これほどつらいことがあるだろうか。しかも、二人の頭の中には、すでに、このホテルの名物であるおいしいカレーが匂いを立てて置かれているイメージがあるはずなのだ。ところが、私がカレーを食べないと、彼らも食べられない!

「いただきましょう!」と私は2秒後に言っていた。「カレー、食べましょう!」。編集者と出版プロデューサーの顔に、ちょっと安堵したような表情が浮かんだ。そして、私たちはみんなでカレーを食べたのである。私にとっては、二度目の昼食を。

思い返すと、小学校6年生の頃の私は家でカレーをつくると張り切って、なみなみとよそったやつを平気で3杯や4杯は食べて、祖父が目を白黒とさせていて、成長期の私はそれが自慢だった。祖父は、それから2年くらいで亡くなってしまった。

あの頃のことを思えば、ジャージャー麺を食べたあとに、カレーを食べるなど、どれほどのことでもない。このような時に、ダイエットがどうのとか、健康がどうのとか、そういうことは一時的に関係ないと思う。

この二度ランチの後遺症か、夕方、仕事の合間に街を歩いていたとき、私は、そうだ、品目断食をしよう、何も食べないというのは何だから、たとえば、体重を2キロ減らすまで、牛丼は食べないとか、そういう好物断ちをしたらどうかと思いついたのだった。

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