(TwitterのDMで寄せられた悩みについてよく返信をしているのですが、この悩みは普遍性がありそうなのでブログで回答することにしました)


『意味のない会話が難しい』

友達と会話がうまくできません。対話や情報交換ならできるのですが、会話ができません。具体的には女子話や恋話、お互いのキャラクターをいじり合うことや軽いボディータッチ(ハグなど)ができないのです。僭越ながらしずさんも、対話や自己表現は卓越したものを持っていながらそれゆえに会話は 苦手なのかと思っていました。会話は対話と違ってその場の空気を読む作業なため、空気を自ら壊していくしずさんとは肌に合わないのだろうと思っていたのです。

しかしこの前の「ぱいぱいでか美さんの誕生日祭の夜のトーク部」で非常にリラックスされて会話に参加されており、もっと言えば会話に参加しなくてもリラックスした表情で会話を聞いており、自分が話せる箇所のみ話し笑いを取っており、ちゃんと自分のキャラクターを出していたので私もああいう風に会話に参加したいと思いました。いじることやボディータッチや空気を読むことはできなくても、いじられることで、自己表現することで承認される存在(あの時のしずさんのように)なりたいと思ったのです。

私が会話下手なのは、ボケとツッコミが苦手でお笑いのセンスがないという技術面の問題と、自分をさらけ出すことに常に「人からどう思われるか?自己愛の強い人間だと思われないか?」と躊躇してしまう精神面の問題があると思います。
技術面の問題と精神面の問題をどうカバーしていけばいいのかを考えているのですが、しずさんから見て

1 こんな私はどうすれば、しずさんのような形で会話に参加できると思いますか?

2 またしずさんは自分が会話に参加するためにどんなことを考えていますか?


○水野しずの考え

あの場で会話できたのは「人に見せるという目的を共有している」という前提があったことが大きいのではないかと考えられます。トークショーとして見せるものと考えれば、自分がどう動くのが場の利益(見ている人の楽しさ)にとってプラスになるか非常に明快であるからです。私も平生はあまりそういったボディタッチのような会話には加わりません。そういった会話(いわゆる社会学者の言うところの毛づくろい的コミュニケーションということになるのでしょうか)のフリに対しては黙って考え込んだり、ある意味無粋なコミュニケートに対するゲームという捉え方で遊んでしまうことが多いです。

もももさんの悩みについて考えてみます。会話への参加を目的としてそのためにどのような修練を積めばよいかという考え方をしているようですが、それ以前の問題として会話のボケ、ツッコミって確認作業の反復みたいでつまらなくて根本的にそんなにやる気がわきませんよね。さほど興味も湧かないものを少々の義務感のような出自不明の感覚でなんとか頑張ろうと考えるのは無理があるのではないでしょうか。私は無理なのでやりません。それではどのように対応しているかというと「ボケ・ツッコミ」要するに「想定される受け答えからの一定の範疇に収まる範囲内でのブレの提示と訂正」という前提を別のものに置き換えてしまうことで会話というゲームを自分にとって楽しめるものにカスタマイズしているのです。

具体的に例を挙げてみると、例えばインド人っぽい顔というキャラクター認知をされている人が「お昼ご飯を食べに行ってきます」といった際に「カレーですか?」と返すボケがあるとします。これは会話として非常に成立したやり取りです。なぜなら周囲のキャラクター認知をしている人間にとって極めて想像しやすく正しくゾーニングされたポイントにブレを提示しているからです。このやり取りにより「インド人」というキャラクター認知がより強固なものになり、コミュニケーションは円滑なものとなるでしょう。しかしながら強固になると同時に「会話がキャラクター像の確認作業になってしまい予め想像のつくやり取りに終始する」というデメリットが発生します。このデメリットを避けるためには集団をつぶさに観察すれば良いのです。必ず「ブレの提示と訂正」へのバイアスが発生してきますので、バイアスの発生を見逃さないようにします。そしてバイアスが発生した瞬間(確認作業の共有)に「場の人間の共有するイメージを裏切る」という別のゲームへと転化をするのです。この際の裏切りはゾーニングの境界線上を危うく転がるようなものであれば比較的わかりやすい笑い(空気の崩壊)が発生しますし、ゾーニングから遠いところであれば次のゲームへのルールーを探るための豊かで興味深い感覚の共有(愉快な混乱)が発生します。これは会話やお笑いのテクニックというよりも、どちらかというとアートが社会的に担う役割に近い所業なのではないかと私は考えています。もちろん、どのような種類であれ混乱を嫌うような脳構造のホモサピエンスも存在するのでこのやり方は合わないという場も存在するでしょうが、「存在するなあ」というくらいで特段害はありません。誰かが怒っているとしてもそれは自身の許容の小ささをわざわざ露呈しているだけのことで構うことはありません。

もっと言えば最強の手段は黙っていることではないのかと思っています。私は最近もっぱら「存在する」ということについて考えているのですが、それは要するに影響を及ぼし合うということであり必ずしも言語を必要としないという現時点におけるひとまずの結論にたどり着いたので大人数の飲み会などでは口数を減らして存在することにトライしております。こちらもエキサイティングな試みで非常に楽しいのでオススメです。どちらにせよ要点は「会話の構造は他者と共有しつつそれらを成立させるルールはインディペンデントである」という心がけを持つことです。空気を読むことが重要視されるというこは要するに、多数派のルールや傾向、トレンドを察知して早乗りした順にその場のヒエラルキーが確定するということですが、トレンドの発生源はその場にいる人間の感性に端を発する心の動きだと思うので。(心は動きます)