そんなに映画を見る習慣がない私でも大好きな、事細かにシーンを覚えてしまうくらい好きな映画には大抵「中村屋シーン」がある。中村屋とは、歌舞伎の最高に盛り上がる名シーンで観客が舞台に向かって歌舞伎役者の屋号を投げかける合いの手、いわゆる「大向こう」のことで、要するに「中村屋シーン」とはおもわず合いの手を入れたくなるような名シーンのことを勝手にそう呼んでいるのだ。

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例えば2001年宇宙の旅の『猿の棍棒がロケットにジャンプカットするシーン』で両手を握りしめて「中村屋」(本格的っぽい言い方で)って心の中で言う。っていうかその時は全体的に歌舞伎の世界観のなんらかが憑依した感じになる。それだけの事なのだが、待ってました感、ついに来た感、これが見たかった感、脳の求める刺激のモヤがかかった空想と与えられたものが大スケールで完全一致し砲煙弾雨降り注いでくる電気ショック、幽体離脱、地球は青かった、カンブリア爆発やっとかめ感がとっても楽しいのでしょっちゅうやる。家だと実際に声に出してやる。オススメ。無料。ガラスの仮面読んでて「恐ろしい子」きました、「中村屋」。格別。最高。楽しんでる自分と楽しんでる自分を楽しんでる自分で掛け算みたいなことになるのでシンプルに楽しむ場合の8倍くらい楽しめる。私はこういう現象を全般的に「エンジョイの乗算」と呼んでいる。これを自然にやってるのが例えばセンター街(現バスケットボールストリート)にたむろする女子高生だったりして彼女らは明らかに「女子高生を謳歌する自分自身の状況」そのものをエンジョイすることによって絶対に本来のエンジョイの8倍くらいのエンジョイを得ている。さらに女子高生っていうのは期間限定というタイムボーナスのようなものが加算されるので「期間限定で今しかエンジョイすることのできないエンジョイを今まさにエンジョイしている状況」として32倍くらいのエンジョイをご査収している。ズルい。よく思うのはもともと生まれ持った完全な美人よりも全身を整形して後天的に自分の理想とする完全な外見を具現化した人の方が絶対に瞬間的な「今生きるこの瞬間に心を踊らせるエンジョイ度」は高いはずで、それは「理想とする状況を今まさに手に入れている私」という「エンジョイ指数」が乗算されているからだ。ソシャゲの課金ガチャなども、出てくる景品が画像一枚でもプレイヤーにお金という装置を通して間接的、バーチャル的に「状況意識」を発生させ最大化することによって莫大なエンジョイ係数を弾き出す。何事もできるだけお金を払った方が楽しい。要するに人間は「現象」そのものよりもどちらかというと「状況」すなわち物事の因果関係や文脈に対して「エンジョイ」を得ているということで、つまり論理的には指数に着目し極めていくとこでノーリスクで無限大のリターンを得られるようになるはずだ。具体的には「ありがてえ、ありがてえ」など飢饉のときに少ない米を分けていただいた農民のような気持ちでご飯を食べることによってマインド的にはすごい美味しくなるといったような言うなれば貧困社会におけるライフハック手口である。

この「乗算」のスタイルには大きく分けて2種類のやり口が見えてくる。「静の乗算」と「動の乗算」である。「静の乗算」は仏のような気持ちで達観しこの世の生けとしし生けるありとあらゆる森羅万象をとことんまでありがたがってみるというやり口、一方「動の乗算」は状況を得たラッキー、僥倖、ハピネスを最大限に味わい尽くし天空高く歓喜の咆哮をあげるというやり口である。上記にあげた例で言うと「中村屋」は動のやり口、「飢饉の農民」は静のやり口ということになる。人間の脳みそは同じ刺激の連続にすぐに飽きるので1日のバイオリズムに合わせて静と動の乗算をうまいこと使い分けるのが効果的だと考えられる。さらに言えば乗算しすぎても疲労で精神がクラッシュするので静と動の乗算の合間に「諸行無常」「盛者必衰」「すべてがどうでもいい」などの「空」のタイム、要するに「あえてのゼロ」をいい感じに取り入れて(野比のび太のようなイメージ)精神世界のサーフィンを堪能することに成功したらもはや「状況マスター」と言っても過言ではない。
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