私には常々より感じていながら口にすることができなかった大きな疑問があります。なぜ口にすることができなかったのかというと、それが男女の性的な情事に纏わる疑問である為に憚りが大きかったからです。よく映画や漫画などで、男女が情事の前段階において

「先にシャワー浴びてきなよ」

といった類の発言をすることがあります。言わばその後の展開を想起させる枕のような台詞ですが、その後の流れは概ね省略されることが多いので具体的にどのような筋道を辿るのかは不明です。しかし、少なくとも「行為の前段階においてシャワーを浴びる」ということが違和感なく共有されているということです。私はこの「具体性をもって明らかにされている訳ではないが、一般的に共有されている情事の前段階におけるシャワー」がどの程度マジのシャワーなのか、つまりどの適度の時間的、行為的ボリューム感をもって体現されるシャワーなのか、という点に対して常々疑問を感じているのです。
男性はまだいいかも知れませんが、女性側は化粧をある程度本格的に施していることが想定されますし、頭髪においてもそれなりのセッティングであるとか施しが文脈から考えて当然なされているはずです。それを行為の前段階のシークエンスでなしにしてしまっていいのか

『新明解国語辞典』(第4版)の恋愛の項目には、

「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」

と記述されています。どう考えても山場、合体が盛り上がりの最高潮なのです。当然、男女共にヘアメイクに置いても最良の状態をキープした上で臨みたいと考えるのが自然なのではないか。フィクションの世界においては、シャワーを浴びる下りは省略されその後のベッドシーンで抜かりのないヘアメイクの状態で行為に及ぶ様が見受けられますが、私はこの違和を断固、看過できません。クレンジングオイルのCMでクレンジング後の女優の顔に隙のないヘアメイクが施されていることへの違和も同様です。イメージで編集された一連の時間軸の中ではシャワーを浴びて清潔になった身体とシャワーを浴びずに良好な状態を保ったヘアメイクを保持した身体が同時に獲得されているのです。こんなことってないよ。
一方で衛生面を考慮すると浴びない訳にもいかないので、妥協点としてヘアメイクに支障をきたさない程度の軽いシャワー、つまり頭髪や顔面にはシャワーを浴びずに身体のみ浴びるという着地が考えられます。しかしこの妥協案には二つ見過ごせない問題点があるのです。
一つ目の問題点は、双方の認識のすり合わせが出来ているのかどうか確認が取れない点です。
一方にとって5〜10分程度で済ます心づもりのシャワーが他方にとってはシャワー後のドライヤー、気分転換を含め小一時間ほどを要するという認識で捉えられる危険性をはらんでいるのです。どう考えても待ってる方はテンション下がること請け合いです。
二つ目の問題点は、軽くシャワーを浴びても意外と湿気で髪の毛ボサボサになるし化粧もなんかお湯でふやけていやな感じになるという点です。これは見過ごすことができない問題です。中途半端にシャワーを浴びるとやはり頭皮が汗ばんだりして気になりますし、いっそのこと気がすむまでお湯を全身に浴びたいという衝動に駆られること請け合いです。加えて個人的な感想ですが、思う様シャワーを浴びた後ドライヤーを使用すると気持ちがリラックスしすぎて情事どころではないと思います。

考察を展開すればする程解決の糸口が見つからず暗礁に乗り上げてしまいました。やはり、スマートな恋愛とかオシャレといった行為にはある程度のやせ我慢、精神的犠牲が必要なのでしょうか。だとすれば私は絶対に適応不可です。心の豊かさを得られるものでなければ意味がないと思うからです。一連の疑問に対するシンプルな回答をお持ちの方、いらっしゃいましたら是非コメント欄までご意見をお寄せください。
(追記:寄せなくて大丈夫です)

フライデー編集部の人がアイドルの写真集なんていうのはね、大体にして売れなかったら一年で裁断されてしまうから残るものじゃないんだとか言ってて、そっか裁断されたアイドルの破片が再生紙工場でトイレットペーパーにされたのが今使ってるトイレットペーパーだったらどうしよう悪気はないですごめんなさいとかそういう無駄な心配が世の中に増えたから責任取ってほしい。私は世の中のルールとか常識とかが全くわからない代わりに人の気持ちのことを考えるようにしててなるべく他の人がいやな気分になるようなことしたくないし世のあらゆるがハッピーであれば最高とイメージしながらヨーグルト食べたりするけど実際は人間って争ったり戦ったりがフツーであってそういう意欲が一切ない方がどっちかというとおかしいようだ。考えてみると私も殺意がわくことがあり、それは進歩がない毎日になんの疑問も持たずに受け入れている人とか状況とか環境とか。死ぬほど殺したくなる。殺意だ間違いなく。そういう殺意は推進力に変えていかないとまず自分が救われないね

たまに洗濯機に液体用洗剤を入れようとして洗剤を飲む苦しみを思い出すことがある。今まで生きてて洗剤を飲んだ記憶ないんだけど。私は脳の中を(部屋も)そんなに整理整頓しないから乱雑に記憶とか知覚とかイメージとかが混在しているのでどこかに飲み込まれてしまって覚えていないだけかもしれないけど

すごく好きなものに出会う前から影響を受けていることがあって、出会ってからああっ、これだったのかオリジナルはっていう感覚を帯びる経験もしばしばあって以前そういう感覚を説明したら「そういうスピリチュアルなアレは分かんない」って言われちゃったからもう口にしないようにしてたけど、洗剤も飲んだの私じゃないのに誰かが飲んだ洗剤の味を知らんうちに汲み取ってたりするんじゃないかとか思う。特に私は人間の感覚を極めて汲み取りやすい性質があるので街中とか電車とかヘッドホンを付けていないと出歩けないくらいでなにもなしだと皮膚感覚から清濁入り混じった人間の波長とか感覚が入り込んできてひどいと立ってられないくらいになる。空気で伝わってきちゃう人間の放ってる気配とか感覚。小学生の時は透明なものが人間の皮膚の周りにまとわりついてブヨブヨしているのが見えたので気になって凝視していたら恋してんじゃねーよ(してない)っていじめられたからブヨブヨは見るのやめたんだけどなんかそういうのがあった。

「世直し」という言葉の、
個人の内側の一方的正義感と世の理不尽がやむにやまれず正面衝突して爆砕したような語感が、
今、私の中で最高潮にブームだ。
 
 
 先程、電車に乗っていた。


中央線の下りが遅延した為に車内は比較的混雑し、
隣り合う人の肩がやむを得ず重なるくらいであった。

私がiPhoneを見ていると、向かいに立っていたややドレッシーな様相のおばさまが
 
「アンタ、邪魔臭いことしてんじゃないわよ。早よしまえ。」
 
と仰るので、Phoneをしまった。

次の駅で乗降あり、
私の隣にゴツいスキンヘッド、ピタピタシャツのおじさまがポジショニングし、
iPhoneをいじっていたが、おばさまは何も言わず中空を見ていた。


なぜか。


恐らく、件のおじさまは暴力性を連想する外見だが、
私はどう見ても歯向かうということが絶対におこらなさそうな感じ、だから
つまりおばさまは外見上で怖い、怖くないの判断をしたということだ


次の駅でおばさまは降車した。


これ幸いと思い、怖さにもバリエーションがあるということを実例として提示し、
ご理解頂こうと考え、おばさまをストーキングした。

ストーキングと言ってもおばさまの不自然でないくらいの背後に無表情で常にいるだけである。
 
 結果として、ピタピタおじさんとは別の観点からの怖さをご理解いただけた様子で、
おばさまは「ヒッ」っと息を漏らしながらお手洗いに駆け込んだ。



「世直し」成功である。

爆砕した不条理が私の周囲で炎上し、焼け野原となった。

私は身体の部分的な損傷や衣類の欠損に注意が向かないので、ケガをしてたり汚れたり破れた服を着ていることが多い。そして大抵身体のどこかにはアザがある。押井守のイノセンスっていう映画で草野素子がアンドロイドの義体に人格をインストールして封鎖されたハッチを力づくでこじ開ける場面で、リミットを超えて力を伝達した腕の皮膚が破れて内側が崩壊しながらハッチを開いていくシーンがあって、私はその身体の用い方に共感する。生きてるってことの価値を身体の保持(もっと広く言えば生殖とか)よりもハッチを開けようとする意思に強く感じて、まあそれは別に特殊なことじゃない気がするけどそのバランスが少し極端なんだと思う。もっと極端なことを言えば生きるとか死ぬとかもどうでもよくて、生きるには「生きる」と「死ぬ」が両方あって、死んだ後も同じように生と死が両方あるような感じがするから特にこだわりがない。本格的に死ぬのが怖いとかいやだとか思ったことも一度もない。周りの人間がいやっていってるのを見てファッション感覚で少しだけマネしてみたことはあるけど。だから死ぬとかよりも意思が果たされないことの方がずっといなくなる感じがしていやだと思う。赤木しげるっていう人が(人間じゃなくて漫画に出てくる人物だけど)アルツハイマーになったから自分で死んだ時に似たようなことを言ってて、ああやっぱアカギ好きって思った。アカギ好き。赤木しげるは存在する。

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