友達の家に来たらまわりになんにもないけどマンション前に専属の自販機が設置されていて羨ましいとか思っちゃってその後じわじわいやになる。私事のささやかな利便の為に自販機やコンビニの24時間稼働をキボンヌして、一億が同じようなことを無意識に思って当たり前に、一億っていう膨大な数の総体が世の中にかけるプレッシャー、負荷によって生まれた労力を日頃生活でじわじわ支払っていくの。社会生活などして組み立てた人間の生活が、つまらない利便の為に擦り切れてやせ細ってそういうのはもったいないって言わなくて言葉が歯がゆくて気持ち悪くてしっくりこなくてもどかしくて細かい感覚が漏れ出してくる隙間を埋めているゴム膜みたいでどこへ行っても整えた準備がすまし顔で待ち構えているのは不気味

波がプラスチックのひょうたんを探している
白い膜に被われた 肉が天井から落ちてくる
降り積もるばかりではなく それは天井からつきだして

どこかで反響していることを背中で確信している
落ちている乳歯 生えてくる土 白髪を探し終えた、ある瞬間の夕日のように

耳たぶを探しているのに見つからない
言いようもなく哀しい 貰ったほおずきを捨ててしまい
耳はとれるのです

それを知らないでいるために

それを知らないでいるがために

住んでるアパートから暫く歩くと貧民街のようになっているところがあって明らかに空気が変わる。別に貧民街っていうほどの街並みじゃないんだけど纏っている空気が確実になにか保証をされていないような感じがして、お腹とか胸のあたりがあったかくなって芯はひやっとする。昼間はそうでもないけど夜そういう貧民街っぽいところを歩いていると生きている感じがして心地よくなる。駅周辺等、金回りが良い地域の自販機はコカコーラだけどここはダイドードリンコで、歯医者のネーミングがセントラルクリニックじゃなくて杉田歯科で「包丁研ぎ2000円」とかの張り紙が脈絡なく貼り付けてあったりする。境界線がない。笑ってしまうようなテンポで空気を出し入れする。気配が生きてくる。私が育った地域も概ねムードにおいては同じような感じだったから詰まる所貧民街だったんだなあ、東京で言うところの。なぜ金回りの気配はこんなにも空気に滲むのか。土地も人間も。先日表参道ヒルズに行ったんだけどなにか入り口からして人間を選り分けているような圧があり、施設に適さない人間を徹底して跳ね除けていた。圧は施設全体から発せられていて、それだからB1の空間は区分けされた結果のクリーンな静寂と死が満ちていてなんだか貧民街とあんまり変わらないと思って安らいだ。生きてるとなにものかを名乗ってならなきゃいけないけど、貧民街も表参道ヒルズもそういうのないから死後の世界みたい。私は夜半のサービスエリアが好きで好きで、夜のサービスエリアに行きたいが為に夜行バスに乗ったりするのだけどサービスエリアもそんな感じがして、人気なく静まり返ったコールタールに自販機の明かりをチラチラ照り返す光はなんでもなくて切なくて、誰でもない私が誰でもないままそこにいる。夜のサービスエリアはいつだって人間にやさしい。

オウム真理教が世間をにぎわせていた頃、私は岐阜県の片田舎のかつてタイル産業で栄えた小さな町に住んでいて、小学校の規則で子供だけで町の外へ出ては行けませんと言われていた。

当時は全く知らなかったんだけど、その頃の東京にはオウム真理教の人達が作ったお弁当屋さんやパソコンのパーツショップ屋さんやラーメン屋さんが高円寺とか阿佐ヶ谷とかにあって、店内にコスモクリーナーが設置されていてラーメンを食べた後にはアストラルドリンクって言うのを飲んでいたらしい。

ああっ、




羨ましい。




私もコスモクリーナーの空気を浴びアストラルドリンクを飲みたかった。

オウムなんて選挙とか、地下鉄サリン事件のイメージしかなかった。それも正確にはワイドショーでセンセーショナルに取り上げられるネタとして。田舎に住んでいる人間にとっては全然身近な出来事ではなかったし「東京の人っていうのはとても狭い地域のことを日本ということにしているのだな」とか思った。
小学校の同じクラスにも、どうやら自分の家庭と違う宗教の人はいて、それは直接教えてもらうようなことはないんだけれど、給食の前にクラス全員でする「いただきます」で一人だけ手を合唱せずに組んでいたりだとか、運動会のソーラン節のハッピをみんなとは違う黒いハッピを着ているのでなんだか違うことをやっているらしいってことをうっすら思った。怖いだなんて思わなかった。ただただ好奇心が湧いた。
近所で行われた通夜に暇だったからというだけの理由で付いていったらお坊さんが唱える念仏が家庭のものと違った。密教系の流れを汲んだような秘密めいた真言。独特の緩やかで引きつけられるような秘密めいたリズムを一丸となって繰り返す。足のしびれも忘れ恍惚とした記憶が甦る。

あの頃は世紀末だった。世界が滅ぶという予言があった。2003年4月7日にアトムの誕生日がくる、とロボット開発に熱が入っていた。マハーポーシャがあった。経営が立ち行かなくなったタイル工場の廃墟が取り壊されずに、町中に無数の灰色の陰を落としていた。MOTHER2というゲームでは祈りによって世界が救われた。シブヤというところにヤマンバギャルが集まって集団で踊っていた。青少年は、手のひらサイズのタマゴの中で無数のイノチを育てることに躍起になった。社会現象が「終末」という地点に向けて収束していた。灰色の空は全てが瓦解する予兆を匂わせて震えていた。世界にブレがあった。もう一つの可能性をダブらせて、この現実がナニモノカの落とした陰でしかないかのように、静かに震えていた。


灰色のスーツを着たサラリーマンの群れがゆらゆらと肩を揺らしゆらめきながら駅から吐き出されて方々散っていく。工場の煙突から吐き出されていく煙みたいでおもしろいなあ。全部なくなってしまうのかなあ。


朝がくる。


山に登る。


学校へ行く。


通っていた小学校は山頂を切り崩した土地に建てられていた。
山周辺は墓地になっていた。
しっとりとした深い霧と墓地の間の細い朧げであやふやな坂道を駆け上がる。
ランドセルの重みに引きずられないよう、みな、無口で前傾姿勢である。

クラスの窓から向かいの山を見つめた。
夜露をしみ込ませた山の木々から水蒸気が立ち上って空に続いていく。
じっと見つめる。
世界の輪郭はどれだろう。滅亡の予言。ロボット達が出迎えてくれる街。
タマゴの中のイノチの重みが人間とかわらないくらいになった頃かなあ?
サリンで人が死んだのは。



「サっちゃんはね サちこっていうんだ ほんとはね」



って歌いながらサリンを撒いたらしい。
と教えてくれたのは父だけど、
多分その情報の出所はデタラメ週刊誌だからただ面白いだけで根拠のない話なんだろう。と、思ったけど信じた。

サっちゃん、サみしいよ。


今日は絵を描いている人が共同で借りる予定のアトリエの見学会に参加した。私は美術をやっている人間同士のコミュニティーに参加することがどうしてもできなかったから多少の新鮮味を感じ、同行する人の会話を逐一メモった。センスない作家のエログロにはとりえがない、とか。見学会の参加を呼びかけていたのがインターネットだったから参加ができたけどそうじゃなかったらとても混ぜてもらえないなと思った。そもそもの疑問としてまず絵を描いている人が何を考えているのか分からないと思った。いや、自分も描いてるんだけど。絵を描いて、バイトをして、たまに展示があって、少しずつお金を出してアトリエを借りて、そういうのはなんか生き方として希薄な感じがする。どこにも本番がないっていうか。命を薄めている印象すら受ける。制作意欲って、意欲がなきゃ製作の必要に迫られない作品なんか別に作らなくていいじゃないか。生きるのに必要ないものなんかいらないじゃないか。私は絵を描かないと死ぬ(いろんなものが)から描いてるんだけど。制作意欲って懐メロ聴きたくなる感覚と一緒かもしれないって不安になったりしないだろうか。

道すがら、背中に旗を括り付けて自転車に乗りながら「僕の名前は○○です。応援お願いします」と何度も発声する男性にぶつかりそうになった。そういえば選挙。男性の旗には何も印刷されていなくてフツー候補者の名前を印刷したのぼりを背負っていると思うけど発注が間に合わなかったのかなあ無地の黄色い旗を背負っていた。名前と応援してくださいだけ伝えても票が増える可能性は殆どゼロに近いのではないか。かなり本格的な徒労だ。アイドルだったら顔がかわいかったら応援してもらえるかもしれないけど。私だったらルールの範囲内でもう少し有効な、僅かでも効果が見える手段を考える。あんまり意味がなさそうで指向性が希薄な行動を繰り返してるのをみると人間なのにどうしても人間大のハエのようなやつに感じて、選挙前の街は自分と同じくらいのサイズ感のハエのようなものがいっぱいで考えちゃうと具合が悪くなる。なんの面白みもなくてなんの発展性もないことに過剰な労力やエネルギーが注ぎ込まれていることに具合が悪くなる。最悪だ。

アトリエの床には蜂の死骸が2つ落ちていた。あと絨毯と畳がなぜか信じられないくらいブヨブヨで、歩く度に猫の腹を踏みつけたようなアンバランスな快楽をもたらした。間取り図に記載されていた「グルニエ」っていう謎のスペースは屋根裏部屋のことであって4月とは思えないサウナ的空間だった。グルニエってあれだな。もしグリム童話とかででてきたら確実に魔女が煮込んでるグツグツした鉄製のなにか。魔女がニヤニヤしながら姫とか動物とかをグルニエに入れようとするんだよね。それを助けようとするのは王子じゃなくてでかいヘビって私が没頭している間に大体の人間がアトリエとして借りる予定のおおよそ三階建ての物件の内見を終えていた。借りることになる感じの気配がすごく漂っていた。

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