16年前、24歳の頃
表千家の短期講習で出会った掛物
ほんらいむいちぶつ っと読む
知久家にあるのは、省略された無一物
どのような意味かは様々な解釈がある
「何も無いのがいいのよ!」
「もともと、人間は何も持たずに生まれてきたってことよ」
「ミニマリストのことよ!茶人はミニマリストだから、、、」
どれも間違いじゃないけど
どれも上部だけの浅い解釈にすぎない
23歳の私もそうだった
お茶をはじめて20年ほど
正しい答えはみつからないが
現代のお茶人はミニマリストではない
茶室には必要最低限の物しかないが
裏方は季節の数、それ以上の道具たち
モノからコトへって何ですか?状態
言葉の意味は成り立ちや
背景とエピソードから理解してみる
禅は達磨が創始者とされていて
この言葉を残した慧能(えのう)が大成者なんだ
お茶で言うところの、創始者が村田珠光で大成が利休だから利休的な存在かな
ある日、達磨から数えて五番目の禅師が
後継者→6番目の人(六祖)を決めますって事で
悟りの境地を言葉で表現しろと言った
六祖選抜で最有力候補の神秀(じんしゅう)が先に、下記文字をお寺の廊下に貼り出したらしく
身は菩提樹、心は鏡で、日々、塵や埃がつかぬよう綺麗にしておく事が大切だ
と表現した
これをみた多くの者が、六祖は神秀に違いないと思ったのだが、まぁまぁ新米の坊主の慧能(えのう)があとから下記、貼り出したそうな
悟りの境地を実体視はできない
心(執着)もないし、本来何も無い
無けりゃ塵も埃も払いようがない
※私のゆる〜い解釈
モノじゃなくココロ
特に執着に関する事を深く伝えている
モノではなくコトでもなくココロについて
人って一度手にした便利を
手放す事ができない生き物だから
戒める掛け軸にグサっとくる
最終的に、後からこれを表した慧能が六祖に選ばれて禅の大成者になったらしい
慧能は幼い頃に父を亡くし
母親に育てられた貧乏な少年だったらしい
執着するモノもコトも知らない中で
育ったので選ばれた悟りの境地なのかな
私はお点前してるときだけ
無一物に浸れるのよね
目の前にお客様が居るのに
お茶を出すまでは異空間にワープしてる感じ
来年度もたくさんお点前できますように🍵