月別アーカイブ / 2019年08月

 撮影初日。リハーサルを終えた中井貴一さんが僕に歩み寄ってこう言った。「監督、絶対に妥協はしないで下さい。僕らは監督がOKするまで、何回でもやります。監督が納得するまで、時間かけてやりましょう」

「妥協」。英語で言うところのcompromise。ここだけの話、学生時代、授業で教わった英単語の中で一番好きな言葉だった。意味は関係ない。音の響きがやたら格好いいのだ。ネガティブな内容のくせに、発音した感じはとても前向き。しかも口に出してみると、英語がとても上手くなった気になる。まさに声に出してみたくなる英語。ぜひ皆さん、お試し下さい。

 Let’sCompromise

 中井さんの言う通り、監督が安易に妥協してしまうと、決していい作品は作れない。でも実際の撮影現場では現実問題としてそうも言ってられない時がある。ロケだと天候の問題。自分の望んでいた雲の形になるまで待っていたら、日が暮れて撮影出来なくなる。とことん粘る監督さんもいると思うし、本当はそれが正しいのかもしれないが、僕にはそれが出来ない。

その日のうちに撮りきれなければ、予定が押す。その分お金も掛かる。スケジュール通り、予算通りに作り上げるのも、監督の大事な仕事だと思うのだ。

 そしてなにより、役者の問題。監督のイメージに合った雲が現れるまで、彼らはずっと待機していなければならない。リハーサルを重ねることで高まっていったモチベーションはどんどん下がっていく。撮影には勢いが必要だと思う。何度も稽古して、「よし、今だ」という瞬間にカメラを回す、それが理想。だから僕は多少納得いかない雲でも気にしない。役者の芝居を優先することにしている。

 これは妥協である。間違いなくcompromiseである。とはいえ中井さんに言われたことも当然大事にしたい。ではどうするか。ひとつだけ方法がある。

 妥協して100が80になるのは絶対に避けたい。となれば、妥協して100になるように、そもそもの目標を120に設定しておけばいいのです。

 言うのは簡単。

 

 ここだけの話、僕は映画も作るけど、舞台も作る。むしろ舞台の脚本家、演出家としてのキャリアの方が長い。

 映画と舞台の演出には大きな違いがある。舞台の場合は、間近に迫った公演を観てくれる観客のために、稽古場で知恵を絞り、汗を流す。幕が開いてからも、観客の反応を見ながら台詞を直したり、芝居の間を詰めたりと、微調整を繰り返す。

 映画はそうはいかない。僕がそのシーンを撮影する時、それを観客が観るのは、半年後、1年後。つまり僕らは遠い未来にこの映画を観る観客のために作品を作る。

 これが難しい。目の前のお客さんを笑わせる術は、長年経験を積んできたこともあり、なんとなくノーハウは分かっているつもりだ。しかし一年後にスクリーンの前に集まって来た人たちを確実に笑わせる自信は、僕にはない。

 さらに言えば、映画は何十年先でも観る事が出来るし、字幕を付ければ世界中の人に観て貰うことだって出来る。実際僕は何十年も前に作られたハリウッドコメディを観て笑っている。僕の作品を百年後のネヴァダ州の人が観て笑っている姿を、僕はとても想像できない。

 撮影現場でいつも思い出すのが、ビリー・ワイルダー監督のこのエピソード。「お熱いのがお好き」で、売れないミュージシャンのジャック・レモンはとある理由から女性に変装して生活するはめになる。ところが彼を女性と信じ込んだ大富豪のジョー・E・ブラウンが、なんとレモンに愛の告白。男性からプロポーズされたと、レモンが親友のトニー・カーチスに告白するシーンで、レモンはやたら嬉しそうにマラカスを振る。撮影中、彼はワイルダー監督に質問した。なぜここで自分はマラカスを振らなければいけないのか。プロポーズされたという台詞だけで十分面白いではないか、と。それに対して監督が言った言葉が凄い。「面白い台詞で観客は笑うだろ。その笑い声で次の台詞が聞こえなくなると困るから、君は合間にマラカスを振るんだよ」

 流石です、ワイルダー先生。

 

 去年の今頃は、「記憶にございません!」の撮影の真っ最中だった。どういうわけか、僕の映画は夏の撮影が多い。「ザ・マジックアワー」も「ステキな金縛り」も暑い盛りだった。唯一夏の話である「清須会議」だけは、撮影が真冬というアンビリバブルな巡り合わせ。

 「記憶にございません!」は僕の作品にしては珍しくロケが多い。なんとゴルフ場のシーンまである。でもどんなに暑くても、僕はネクタイにジャケットというスタイルを崩さなかった。これには訳がある。

 第一作「ラヂオの時間」を撮る時、僕は決めた。子供の頃から映画に親しんできた自分にとって撮影現場は、どうやって映画が作られていくかを教えてくれる「学校」であり、スタッフはカメラマンから助監督に至るまで、映画学校の「先生」だ。ならば僕も映画の世界に敬意を表し、きちんとした身なりで臨みたい、と。そしてその思いは現在も少しも変わっていない。僕はノーネクタイで撮影現場に行ったことは一度もない。 

 こんな格好の監督は珍しいらしく、取材でも聞かれることが多い。その度に今の話をするのだが、実はここだけの話、理由はそれだけではない。何事も形から入るタイプなので、日本でいえば川島雄三監督、ハリウッドでいえばヒッチコックと僕の好きな監督さんが、ネクタイ・スーツ姿で映画を撮っているスチール写真を見て真似したのでした。

 それにしても今回はさすがに辛かった。猛暑が続き、ゴルフロケはさすがにネクタイはやめたほうがいいと、スタッフに説得された。妙なこだわりのせいで熱中症になってしまったら意味がない。

 ロケ前日、撮影終わりにセットの控え室で小池栄子さんに呼び止められた。「三谷監督はどんなに暑くてもネクタイをするんですね。ステキです」と彼女は言った。僕は「ポリシーだからね」と答えるしかなかった。「監督、格好いいッス」と言い残して帰って行く小池栄子。

 結局、ゴルフ場の撮影もすべてネクタイで通すことにした。そして僕は撮影終了後、軽い熱中症になった。

 

 

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