月別アーカイブ / 2017年12月

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小路紫峡師に特訓を受けていた初学時代、週末になると須磨浦公園に出かけては句を詠んだ。

あちこち吟行地をかえて移動するのは時間がもったいない気がしたので車で15分ほどで行けるここを道場だと決めて通い続けた。今から三十数年前のことである。

冬の時期はじっと立っていると体が冷えて心も鈍くなり頭も回転しなくなる。そんなときは須磨観光ハウスにエスケープして温かいコーヒーをいただきながら推敲する。レストランの大きな玻璃窓からは須磨の海が覧けていて、たいていは穏やかな表情で縮緬波をたたんでいる。

ある日、偶然に紫峡先生の姿をお見かけした。身じろぐこともなくレストランの庭で蠟梅をじっと眺めておられるご様子で近寄りがたい感じだった。近くに智壽子夫人もいらっしゃる気配だったので、邪魔してはいけないと思って声をかけずに帰ってきた。

いまもときどき公園を訪ねて海を眺めながら、在りし日の紫峡先生を偲びつつ懐かしい思いでに浸っている。

玻璃内は冬日天国海展け    みのる

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月並みな話題になるが人の生涯においてターニングポイントになるシーンは何度かある。

今がまさにその時と感じるときもあるけれども、たいていは来し方を振り返って、

"あのときがそうだったかもしれない…"

と思うことのほうが多い。

負いきれないかと思うような試練にも耐えて何とか乗り越えたられたこと、あるいは不本意な方向へ舵を切らざるをえなかったこと、そのときどきは、必死に自力で頑張って走っていたつもりだった。

けれどもたいていの場合、家族の応援や友人の助けが陰で支えてくれていたことにあとで気づかされる。物質的な支援もありがたいが、背後でずっと祈ってくれている人がいるということがどれだけ感謝なことかと思う。

どれだけ名誉を築きあげても、またどれだけ財を貯えても、所詮人は一人で生きてはいけないと思う。そんなものよりも、家族や仲間という人間関係が何にもまさる宝物だということを言いたいのである。

生涯の一転機とし日記果つ   みのる

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散歩道にある公園の大公孫樹もすっかり葉を落として天辺に青空が透けている。

名所の燃えるような紅葉もわるくはないけれど、目立たない場所で人知れず散りつぎながら大地を覆っていく大公孫樹の黄落のほうが私の好みです。

散っても散っても尽きることがないかと思われるころが一番美しい。やがて次第に疎になっていく梢をうち仰いでいるとゆったりとした季節の移ろいを感じる。

ぎんなんは、老化防止によいそうで漢方薬では、肺の働きを高め、喘息を鎮める効果があると言われているそうだ。

神社などにある古木はたくさん実を落とすので、近隣の主婦たちが拾いにこられる。これもまた里の風物詩としてゆかしい。

近年植栽される園芸用の銀杏の苗木は、実が落ちるのを嫌われてみな雄木ばかりだという。

なんだか寂しい。

ミサの鐘ひびき黄落急ぎけり   みのる

  

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