月別アーカイブ / 2020年07月

朝起きて歯磨きして、次に私は新聞を郵便受けに取りに行きます。9階に住む私ですが、階段で降ります。階段を降りるごとに寝ぼけた体がシャンとする感覚がして良いです。マンションにオートロックがある世の中になったことで私のような上階住まいの人は新聞を受け取るのがやや面倒になりましたが、配達の人は一ヶ所で郵便受けに突っ込むだけ、楽になりましたね。と思ったら新聞を読まない人が多い世の中になってしまい、配達員一人あたりが配るエリアは広くなり、そんなに楽にはなってないかもしれません。世の中は甘くありませんね。
新聞の支払いは毎月口座落としで、領収証は別途配達されますが、その際に新聞を入れて処分する用の袋とあと景品的にビニール袋(生ゴミ入れたりするのに重宝しています)、そして薄い冊子の情報誌が同封されてきます。この情報誌の中身は半分くらい広告で大したものではないのですが、記事の一つに難関中学の入試で実際に出題された問題が掲載され、某学習塾がその問題の意図やツボのようなところを解説するというものがあります。…このことについて書きたいがために新聞の話から始めました。
で、今回の中学入試問題については諺(ことわざ)の話だったんですが、塾からのアドバイスとしては、社会を生きていくには諺の意味を知るのが大切なのではなく、諺を適切に使えるようになることだとのことです。猿も木から落ちる、河童の川流れ、弘法にも筆の誤り、という意味するところは同じ三つの諺がありますよね。そしてたとえばあなたが小学生だったとします。ある日、先生が板書の際に漢字を誤って書いたとします。さて、小学生のあなたが先生に対してここで使うべき諺は何でしょうか?と塾は問いかけます。
…正解分かりましたか?それは弘法にも〜です。小学生のあなたが目上の先生に対して猿や河童にたとえるのは失礼だからだそうです。なるほどね、まあ一理あると私も思いました。その塾いわく、これこそが教養というもので、単なる暗記のような学習方法ではダメなんですよと、先生に対して猿とか河童とか言う子供は、弘法と言える子供よりダメです、勉強の仕方が間違ってますね、ということです。そう、うちの塾に子供を通わせたら完璧な人間に育つんですよ、とまでは言ってないかもしれませんが、つまりはこれはその学習塾の宣伝、広告です。
私は、子供が先生に猿や河童の諺を使ったとして、それが間違いでもそこから先生と子供がどういうやりとりをするかが教育だと思うんです。先生の頭が禿げていて子供と普段から良い関係を作れていたら、河童で良いですよね。そこで禿げ先生が子供たちに、世間常識的には弘法の方が望ましいんだよ、ということを教えれば良いのであって、子供は大人の顔色や常識をうかがいながら生きなくていいと私は思います(子供に河童と呼ばれて怒る大人は先生にはならない方が良い)。おそらく難関中学に進学する子供はその後東京大学に入ったり、官僚や政治家になったりもするでしょう。彼らのような目上の人に使う諺は弘法、という理屈を理解する賢い子供にこそ教育するべきは、そこで猿や河童を選ぶちょっとお馬鹿な子供を見下したり軽んじたりしてはいけないということですよね。案外その教育がこの日本では出来ていないのかもしれないなと、賢いはずの政治家や官僚の方々が国民を前にして迷走している様を新聞で読むにつけ、思います。

私は今年48歳になります。振り返れば生まれてから同じ家に10年続けて住んだことがありません。親の仕事の都合やマンションの購入、私自身の大学進学や転職や転勤、気分、独立後の会社移転によるのですが、住んだ町は広島市安芸町(現東区)に生まれ→西区→京都市右京区→下京区→東京都北区→文京区→いま北九州市小倉北区です。日本の異なる4つの生活文化に触れられたのは良い経験でした。出身は広島ということになりますが、もう方言は口から出ませんし、広島のことにもそんなに詳しくありません…京都や東京案内はそこそこできますよ。北九州のことは日々インプット中です。なかなか色々な味のある町だなと感じています。引越すのは面倒なことも多いですししんどいですが、大袈裟に言えば私の人生の財産は日本の各地に住んだことです。今後北九州に住み続けて人生を終えようとは思いませんが、かといって出身の広島に帰りたいとも思いません。まあ、なるようになるんでしょう。
さて、雨が降り続いた今年の梅雨、コロナの感染者がまた増えていたり、Gotoキャンペーンだとかで報道の量は被害の割に少な目ですが、気になった話としては熊本の人吉あたりでの水害について、かつてのダムを建設する計画を白紙にしたことが原因の一つだとする話、私はそれはあまりにも問題の矮小化、また人間中心で物事を考え過ぎだと思うんです。確かに、人間の力で自然を改変すれば自然災害は防げることもあるでしょう。ですが、もう地球は人間だけのものという発想はやめようというのが、私たち現代人の考え方ではなかったでしょうか。そろそろ人間は我慢をしないといけない、我慢をしてしかるべき時代に差し掛かっていると考えるのは私だけではないはずです。
人間が作るものは必ず劣化します。そして自然は必ず変化します。川であれば水の流れに伴って岸を削り土砂は堆積していきます。雨の降り方が昔と違うなんて言われますが、私はそれもあるかもしれないけれど、人間の作った家屋や堤防、橋などが年数を経てもろくなっているのではないか、川の深さや流れも年数を経て変化してきているのではないかと考えます。川にダムを造り川岸をコンクリートで護岸すれば永久にコントロールできると思うなら、人間としてちょっと考えが浅く傲慢ではないでしょうか。
そして自然を人間の力で改変すれば、必ず生物が犠牲になります。その犠牲になる生物が人間にとって有益かどうかにかかわらず、私はもう人間のために生物の生息環境を脅かすのはやめてよい時代が来ている、人間は最後には引越という手段により自らの生命を守れるんですし、数多くの生物が犠牲になるであろうダム建設を推進する世の中になってはいけないと考えます。災害に遭っても生まれ故郷を離れたくないという人もいるでしょうけど、人間ほど環境変化に耐えうる生物はいませんし、引越して日常の風景が変わるのも悪くないですよと、これまで9回引越している私は思います。行政はダム建設やGoto…にお金をかけるよりも災害想定地域に土地や家屋を持つ人々の引越費用を補助してはどうでしょうかね。

競馬の話ですが、先日カフェファラオという競走馬が、まあ勝つだろうというレースで7着と惨敗しました。普通1番人気の馬のオッズは2倍から3倍くらい、つまり賭けたお金が2倍、3倍になるということなんですが、この日のカフェファラオのオッズはなんと1.1倍というもので、彼(?)はこれから競馬界ではスターホースになりうる逸材と見られていた、それなのにここで負けたというのは競馬ファンにとってはちょっとした驚きだった訳です。怪我とかしてなきゃいいんですが。…いま競馬は無観客で開催されていて、馬券はインターネットのみで販売されています。それにもかかわらずこの日のそのレースの売上額はこれまたなんと23億円で史上最高、それだけ競馬ファンは注目していたということですが、コロナのせいで各スポーツ、イベントが中止されたりすることで妙に競馬人気が高まっているということもあります。
しかし、というかやはり、というか。世間一般的にはまるで報じられないその競馬の話、まあそれが普通のことなんですが、でも競馬ファンの人数は1万2万ではなく、そこにある大きな深い興味関心の熱量というか、うまく言えませんが、そこには知る人ぞ知る熱狂が静かに広がっています。つまり、私たち競馬好きな人間は、こんなにも沢山の競馬ファンが注目している事があるのに、世間はまるで知らない世界があることを知っています。私たち競馬ファンには一大事であっても、世間は興味を持たない、いわば私たち競馬ファンは一般的な世間と競馬界という特殊空間を行ったり来たりしているんですよね。
世間には、この競馬以外にも私が知らない静かな熱狂が広がっている場所があるでしょう。私はそうあってほしいし、人間の責務はそういった場所を作ることではないかとすら思っています。人々が皆、一般的世間とは異なる自分だけの好きな世界を持っていればたぶん、悩みごとやストレスは軽減され、世界は平和になるはずです。なぜなら世間というものが良い意味で浅く軽いものに見えるからです。世間は知らないといけませんが、世間は気にし過ぎても良くないと私は思います。最近の世間を賑わせているように見える、お騒がせな芸能人、有名人、政治家、犯罪者…私たち競馬ファンから見れば、たった一度の人生なのにつまらないことに一生懸命になっているねぇ、ってところです。私たちは木下優樹菜のことより、カフェファラオの方が心配…ただ、競馬の世界から帰ってこられなくなった人をギャンブル依存性と言います。つまりはバランスが大事、それは人生全てにおいてそうですね。世間と競馬を行ったり来たり、それが大事です。木下優樹菜って誰?っていうことでは、それはそれで世間をうまく渡れないでしょうしね。

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