【その1】
新聞に夏の食欲が無い時期にも美味しく食べられる料理として、冷製パスタの作り方が料理研究家の女性により紹介されていました。具に使うものとして、鯖缶のサバが挙げられており、鯖缶でなくツナ缶や鮭缶でも良いでしょうとありました。
【その2】
九州大学の研究室が、遺伝子操作により共食いしないサバの稚魚を開発中だとの話をテレビで見ました。サバが養殖できないのは稚魚が共食いしてしまうかららしいのですが、それはサバにとって強い個体を残すという意味があるはずで、人間が妙なことしない方が良いと思います。
…さて、このサバに関する二つの話ですが、いまなぜか日本ではサバの缶詰を食べることがブームです。スーパーにはさまざまな鯖缶が並べられています。食生活にすら流行という概念を持ち込む、そしてサバばかり食べるという二点において人間は愚かなものだと思うわけですが、まず、その1のパスタの話、新聞にレシピを紹介するくらいの力がある人、料理研究家であるなら、食材についての問題意識があってほしい、つまりわざわざサバ食ブームを助長するのではなく、鯖缶以外の缶詰をメインで使うように勧めて良いんじゃないかなと私は思います。人間はサバが売れるとなったらサバが明らかに減るまで獲る、サバが身体に良いとか頭が良くなるとか聞いたらサバばかり毎日食べる、そんな愚かな生き物です。
そしてその2、サバの遺伝子操作をしてまで養殖するというのは、まさにサバをどんどん売りたいという人間の欲求に応えんがためのものですが、あなたたちは九州で1番賢い九州大学の人間なんだから、人間がこれまでしてきた乱獲漁業のあり方をそろそろ見直すように啓発すべき立場では?サバという生命のあり方をねじ曲げてまで、鯖缶が人間にとって必要なものなのか、今一度立ち止まってみてはどうでしょうかね。鯖缶ブームが去ったころにその技術が確立されたりしたら、その共食いしないサバはどうしますか?海に放したりすれば環境破壊の最たるものですよ。
そもそも私は大洋を泳ぎ回る青魚を狭い囲いで養殖するのは無理だと思います。養殖向きなのは海底や磯でじっとしてる性質の魚ですが、それらですら味は天然物にはかなわないですし。また、市場に出したところで大した値がつかないはずです。いや、どうせ鯖缶用だから品質は低くていいなんて言うのなら、九州大学としては志が低すぎやしませんか…。料理研究家や大学の研究者と名乗る頭の良い人たちは、流行に乗りやすい愚かな私たちに歯止めをかけ正しい方向に導くのが仕事ではないかと思いますよ。

少し前のこと、京都アニメーションという会社が放火され大変な事件となってしまいました。日本の出版業界はアニメやマンガで大きくなった一面もありますが、昭和47年生まれの私が現代のアニメやマンガについて思うことを書きます。
京都アニメーションが制作していたアニメ、有名で人気もあった作品が多くあったようですが私は一つとして観た、読んだことがありません。なぜなら私には面白いとは思えないジャンルだからです。作風がどれも似てますし言ってしまうとロリコン趣味、細く綺麗なキャラクターがツルツルな世界をカン高い声で動き回る感じ、好きな人には申し訳ないですけど、私とは合わない、好みが違う、そんなところです。アニメ・マンガの本質は子供の心に残るかどうかだと思いますが、どこか大人向けのそれらはあくまでも傍流、主流ではないと私は考えます。火災被害に遭ったことはいたましいことですが、彼らの作品が日本のアニメの代表であるとまでは私は思えません。
私たちの世代が子供のころ一生懸命読んだマンガは、主にコロコロコミックと少年ジャンプ、女子ならなかよしとかりぼんとかです。ドラえもん、キャンディキャンディ、キン肉マン、北斗の拳、アラレちゃん、キャプテン翼などが連載されていました。現代のマンガと違ってあくまでも子供が読む前提なので、作画やストーリーに荒っぽいところがありましたが、メインテーマは様々ありつつ基本的には子供が素直に読みやすい内容でした。現代のマンガについては、私は悪趣味という言葉でも表せると感じます。人が生まれ変わったり食べられたり、食糧として育てられたりって、なんですか、それ。私たちの世代のマンガを読んできた大人が読めばなるほどね、という感想も持つかもしれないですが、いまの子供たちがマンガを読める歳になったころにまず触れるのがそんな屈折した内容では、子供たちは可哀想だと思ってしまいます。子供は残酷な光景や人が死んだり殺される描写を好む面がありますが、そこの興味を刺激しているだけで、当の子供本人が本質的に内容を理解して読んでいない、それが現代のアニメ・マンガだと私は思います。
…ちなみにその悪趣味と私が断じるマンガですが、転生したらスライムだった件、進撃の巨人、約束のネバーランド、という作品です。いずれも私の甥、姪たちが一時一生懸命読んでいましたしかなり売れたはずですが、甥、姪はいまや飽きて読んでいません。作品が間延びして話の収拾がつかなくなってきたのではないかなと思います。それらがあと30年後に今の子供たちに感慨を持って思い出されるとは到底思えない、そこが作品としての欠点であり、悪趣味という評価を下す理由です。
と、あれやこれや書きましたが、私はこういった世代間の違いについて考えるとき、必ず江戸時代とかの昔の人のことも考えるようにしています。江戸時代の人たちから見れば昭和と令和のマンガの違いなど知ったことではない、すなわち人間の歴史にとってマンガの存在なんてほんの一瞬、私たちの世代のマンガは良かったというノスタルジーに私が浸っているだけの話なんですよね。ただ私は現代のアニメ・マンガは純粋に子供向けのものが少ないと思う、まあそもそも子供がマンガを読まなくなってるから仕方ないんですけどね。

私が住み働く北九州市の小倉では先週からセミが鳴き始めました。ワシャワシャとクマゼミの声が優勢です。セミは毎年梅雨が明けるころに生まれてきますが、その命は全てが新しい命で、私たち人間はまたセミが鳴き始めたなあと感じますが、彼らセミにとっては人間を見るのは初めてですね。つまりセミたちは毎年必ず命を終えて、翌年は新しいセミが生まれる、それを繰り返しています。ただ、人間が目にする数週間で死んでしまうセミはあくまでも成虫で、幼虫という形態で数年以上生きるので、セミたちにとっての生命のメインは土中での幼虫期間かもしれません。長いセミ生の最期は盛んに鳴いて交尾、なんとも清々しい生き方です。
さて小倉の町も夏にはセミだけではなくお祭りもありまして、7月はあちこちで祇園太鼓を練習する音が聞こえました。この祇園太鼓が無形文化財に指定されているらしく、太鼓を叩く人たちはどこか誇らしげで…今年初めて夏を小倉で過ごす私ですが、その太鼓の音をあまりにもあちこちで聞かされるので、正直なところちょっと聞き飽きました。また、その太鼓のリズムがドンドン、ドンドンという単調なものなので、余計にそう感じてしまいました。今年の梅雨は雨が少なく涼しかったので、部屋でクーラーはあまり使わず窓を開けることが多かったのですが、太鼓の音がウルサ……小倉の皆さんゴメンナサイ。でも、先日19日から21日の本番のお祭りはちゃんと見てはないですが盛り上がっている雰囲気は伝わってきましたよ。
…私は事務所に歩いて通勤していますが、朝、通りの彼方に日本製鉄の工場の煙突が見えていました。いました、というのは、いま取り壊し中でして、もうすっかり短くなってしまいました。この日本製鉄という会社は北九州市の発展に大きく貢献したというか、北九州市そのものと言ってもいい企業です。それが時代の移り変わりでどんどん規模の縮小を余儀なくされ、工場の命を終えようとしています。セミとは違って、終わりが本当に終わりです。この町で鉄が造られることは終わりつつあります。
製鉄が終わるということは大げさに言えば北九州市が終わりに近づくということかもしれません。実際、日本の2019年1月1日時点の人口統計が先日発表されましたが、日本で一番人口が減っている自治体は5年連続(!)で北九州市です。小倉の皆さんが一心不乱に太鼓を叩くさま、その太鼓の音やリズムが私には小倉が変わらずこれからも町として続きたいという訴え、叫び、鳴き声のようにも聞こえます。…しかしながらその長い太鼓の練習期間は、あたかもセミの幼虫期間と同じもの、小倉の人にとっての祭りは練習を含めて祭りなのかもしれません。
弊社のようなちっぽけな会社が東京から移転してきたからといって北九州市に大した影響は与えられませんが、少しでも北九州市の人たちと一緒に働き続けることができたらと思っています。小倉祇園太鼓を見ていると何はともあれまだまだ寂れていない、人間もセミに負けてはいられないと感じましたよ。

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