「舐めてみないとわからない」 と、彼女は言った。「あなたは忘れてはいけないものを忘れてしまった」

 なにかが耳元で囁いていた。それは私を眠りから覚ませるほど大きな音を立てていて、まるで私に重要なことでも伝えるかのように、激しくうごめいていた。
 私はその正体がiPhoneのアラームであることを理解するのに時間を要した。それは命じられた指令を正確に実行する優れた傭兵のように、ちょうど六時きっちりに、振動しながら音を鳴らし始めた。
 眠っている間に長い夢を見ていたはずだったが、どんな夢を見ていたか思い出すことはできなかった。それを思い出そうとすればするほど、頭には空白しか思い浮かばなかった。私はしばらくの間、その空白の中でなにかを見つけ出そうとした。あるいは落としてしまったなにかを拾おうとした。しかし私には、自分が一体なにを探しているのか全くわからなかった。昨日の記憶は、白い霧のように霞んでいた。今日はなにか予定があったような気がしたし、なかったような気もした。いやおそらく、なにか予定があったはずだ。私は予定がない日にアラームなんか設定しない。
 私は体を起こし、両腕を上に伸ばしながら大きなあくびをした。体はまだ眠りを求めていた。まぶたが私の意志に抗って閉じようとした。私は立ち上がり、洗面台の前まで移動した。
 洗面台には大きな鏡がついていた。鏡には私の顔が写っていた。そこにあるのは紛れもない私であるはずだったが、どこか私ではない別の顔を写しているような気がした。私よりも、鏡の中にいる私の顔の方がまだ現実味があった。
 視界がぼんやりとしていた。昨日の記憶はまだうまく思い出せなかった。ただわかることは、私はこの家にずっと住んでいて、毎朝この洗面台で歯を磨いてきたということだけだった。その習慣が体に染みついていたおかげで、私はその後の行動を意識的に考える必要がなかった。蛇口を捻り、冷たい水が流れるのを指先で触れ、立てかけてある歯ブラシを右手に持ち、左手に持った歯磨き粉をつけて口に運ぶ。
 私は歯ブラシを口に含んだ。左の奥歯から前歯まで滑らせる動きを何度か往復した。歯磨き粉が泡になっていくのを舌先が感じ取った。
 泡?
 普段はこのような泡の存在を感じることはなかったはずだ。いや、泡自体はいつもそこにいたが、この日の泡はいつもとは違う種類の泡だった。
 まだ眠りと覚醒の間にいる私は、舌先についた泡の味を感知するまでに時間がかかった。その泡は歯磨き粉ではなかった。
 しばらくして私は、その泡がいつも歯磨き粉の横に並べられている洗顔フォームだということに気がついた。歯磨き粉と洗顔フォームの容器は似たような形をしているし、歯磨き粉の周りには、洗顔フォームの他にはなにも置いていなかった。
 私はその日、初めて洗顔フォームの味を知った。
 洗顔フォームの泡は、おそらく成分によるものだと思うが、舌先を少しばかり痺れさせた。やがてその痺れが収まっていくと、今度は洗顔フォームの味がじわじわと口の中で広がっていった。私はその味をなにかに例えようとしたが、それはまさしく洗顔フォームの味と言うほかなかった。顔に塗られた時に感じる洗顔フォームの匂いをそのまま味に移し替えたようなものだった。
 しかしその味は、私にひとつの光景を浮かべさせた。その光景とは、海だった。そこには港があり、船が何隻か泊まっていた。透き通った淡い青空から差す光が海に反射していて眩しかった。白い鳥たちが羽を大きく広げながら船の上を自由に行き来していた。風の匂いと潮の匂いが行き混じり、私が空気を思いっきり吸い込むと、爽やかな朝が体の中で溶けて行った。
 洗顔フォームは美味しくなかった!
 私は昨日、電車に乗って海を見に行ったのだ(海の力はほんとうにすごい✨)
 そして、今日の予定を思い出した。
 服を着替えて家の外に出ると、雨の予感を孕んだ灰色の雲が空を覆っていた。

 高田馬場駅の早稲田口を出て右に進むと、ロータリーがある。そこにはバス停があり、バスが一台止まっていた。ロータリーの横断歩道を渡ると広場があり、右手には「BIG BOX」と書かれた大きな建物が見える。私は週に2回ほど、その建物の中にある映画館で映画を観る。私は横断歩道の信号を待っている間、先日観た映画のタイトルを思い出そうとした。結局タイトルは出てこなくて、広告の見出しが「全米が泣いた」から始まる映画だったことしか思い出せなかった。(私は泣かなかった)。広場から、さらに横断歩道を歩いた先に私の好きなタピオカ屋がある。タピオカ屋を背にして信号を渡り、右に曲がって直進する。しばらくすると、パチンコ屋が見える。パチンコ屋の前に左に折れる坂道があるので、私はそこを下っていった。駅前と比べると、人の数はかなり減っていた。下り坂になった道を真っ直ぐ進むと右手にスーパーがあり、その手前に白い建物が建っている。白い建物の敷地内には時計台がそびえ立っていた。私は建物の門をくぐり抜け、地下へと続く階段を降りていった。
 階段を一番下まで降りると、目の前にガラスの扉があった。私はその扉を開けて、建物の中に入った。明かりはついておらず、外からの光が建物の内部を照らしていた。床はコンクリートのタイルが敷き詰められていて、壁は白く塗られていた。真ん中に円形の柱があった。私が入ってきたガラスの扉の向かい側の壁には石像が飾られてていた。仁王立ちをした女の子の石像だ。石で彫られているため、全身が灰色である。むしろそれは元々灰色の女の子だったのかもしれない。そう感じさせるほど、灰色が似合っていた。
 「灰色マン」と、私は石像の前で言った。
 石像はぴくりとも動かなかった。
 私は突然、その石像を舐めてみたくなった。洗顔フォームを舐めた時のように、どこかの光景が思い浮かぶような気がした。
 私は舌先を前に出して、石像の口元に触れた。正確に言えば、それは口元のあたりだった。石像には鼻と口がなかった。
 まず私が思い浮かんだのは、たくさんの人が会議室のようなところで集まっている光景だった。人々はそれぞれ列を作って並んでいる。列の先頭には女の子がいた。身長が160センチくらいで、髪を肩まで伸ばしていた。黒いTシャツに、赤いズボンを履いていた。気がつくと私もその列に並び、順番を待っていた。私の順番が回ってくるまでに、どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。それは長かったようにも思えたし、短かったようにも思えた。目の前に立っている女の子はどこかで見たような顔をしていた。
 どこかで見たような顔……?
 私は咄嗟に海のことを考えた。そして、太陽が海に反射している眩しい港の朝のことを思った。
 目の前にいた女の子は、私と同じ顔をしていた。いや、私の顔と言うよりは、朝に見た鏡の中の私に近かった。
 しばらくして、その場所が夢の中であることに気づいた。私が見ている長い夢。そしてアラームの音で目覚めて、洗顔フォームで歯を磨こうとする私を想像した。
 「洗顔フォームは美味しくない!」と、私は叫んだ。
 その忠告は、眠っている私には届なかった。
 私は外に出て階段を上った。時計台の時刻は五時五九分を指していた。もうすぐアラームが鳴る時間だった。
 あと一分で私は灰色マンになり、私の舌先を痺れさせるつもりだ。
 

にょにょにょん

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