_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0893.PNG


去年は、一月の感冒以来、起床・運動すると、微熱が出るので、夏も安臥を続けていた。
今度の暑中は、もし身体の状態が許せば、箱根になりと避暑静養しようがそれもできなければ、ただ東京で静養しているばかりである。
洞山禅師の有名な問答に、ある僧の「寒暑到来の時、いかにすればその苦痛なきを得るか」という問いに対して、「寒のときは、寒になりきり、暑のときは暑になりきれ」という意味を答えた。
私の場合では、少しも避暑に行かれなくても、けっして残念でも怨めしくもない。
暑さといっても、少し我慢しているうちにただちに過ぎ去るのである。
人は各その現在の境遇に、あるがままに、ピッタリと服従すれば、心は絶対鏡になり、相対的な迷妄を離れるから、寒暑もそのまま無寒暑であるのである。

【森田正馬全集第7巻:森田正馬著】


_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0900.PNG


君は、「手紙を書くことが、億劫でいけない」という。手紙を書くことは、億劫なものである。
それは、用事をするのは、面倒であり、目上の人の前では、窮屈であり、冬は寒く夏は暑いというのと同様である。
なお億劫だということは、手紙を上手に、丁寧に、相手を喜ばせ感心させるようにと、思えば思うほど、ますます億劫になるものである。
間に合わせに、いい加減にすれば、少しも億劫なことはない。
たとえば人から、小包の贈物を貰ったとすれば、「ただいま何々ありがたく、お受け取り申しました。なおくわしきお礼は、あらためて後より申し上げます」と書いて、後は都合しだいで、そのままにするというふうであれば、少しも億劫なことはないはずです。
自分がまったく思う存分の心づくしをして、しかも億劫と思わないようにしようというのは、冬を暖かく思おうとするのと同様で、不可能のことであります。
また君は「普通の人の何とも思わないこと」というけれども、それは必ずしも、人と比較して、くわしく調べたことでは、なかろうから、まったく当てにならぬことである。
また「つまらぬことが気になる」というのも、それは自分が、功利的に、強いて欲ばって考えるために、ことさらに「つまらぬこと」と自称するだけのことで、気になる以上は、必ずその人の身にとっては、つまらぬことでないのである。
余計なところが痛い、手の届かぬところが痒いのは不都合だというのと同様である。
またたとえば、自分が、こんなに忙しいのに、奥歯に物のはさまるのは、つまらぬことであるというのと同様である。
そんなときには、それを別に気にしないようにと、自分の心を抑圧するのでなく、ただ気になるままに、仕事をしていさえすれば、間もなく忘れるのである。
なお人の顔つき・言動などが、気になるのは、煎じつめれば、対人関係において、われわれが他人から悪く劣等に思われたくない、好く偉く思われたいとう自己保護の欲望から起こるもので、けっしてつまらぬことではない。
だがこれを、自分の卑近な功利主義の考え方から、自分が勉強し、あるいは成功するために、こんなことを考えていては、邪魔になると思って、これをつまらぬことと、自分勝手に評価するまでのことで、実はその評価が、無理な考え方になっているのである。

【森田正馬全集第4巻:森田正馬著】


_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0821.JPG

われわれは、どうでもよくて気にも留めぬことは、すぐに忘れるが、早く忘れたい、考えないようにしたいと努力するものは、ますますその考えが浮かんできて、苦しくなるものです。
それは、われわれの心の自然現象であって、夏は暑く、暴風には波が荒れると同様で、どうすることもできない。
不眠のときに、早く眠ろうとすれば、ますます不眠になるのと同様であり、また暑いとき、汗を出さないようにと気をもめば、ますます汗が出るのと同様であります。
「勉強もせず、呑気に暮らしていこうとしても、淋しくなる」ということも、人情の自然であって、たとえば金持ちになるような素質の人が、金を使い果たして、安心していることができないのと同様です。
このような人は、百円の貯金ができれば、これだけでは、病気すれば、すぐなくなると淋しく思い、一万円できれば、まだ自分の気に入った家を建てることはできぬとか、けっしてその欲望は尽きぬものです。
その欲望の望みのまったくないのが、淋しさであります。
ルンペンは、その日暮らしで、明日暮らす金がなくとも、少しも淋しさを感じません。
これは人間往来の気質が違うからです。あなたもなんだか、このルンペンが羨ましくなりはしませんか。
しかし、人間は欲望が大きい人おど、古今の偉い人です。
その欲望の大きい人が、淋しい人です。
その自分の淋しさを静かに見つめ、これを心の底に持ちこたえて、自分の運命を切り開いていくような、絶えざる努力をしていかなければいけません。
「偉い人」とは、立派な人、人に優れた人、すべての人が羨みなりたがる人のことです。
「幸福」とは、うれしい・悦ばしい・人がそうありたがることです。
そういう事実です。「キレイ」とは好もしい・気持ちよいことです。
「キタナイ」とは、不快な・いやなことです。その事実に名づけた言葉です。
「偉い人・幸福・キレイになってどうするか」というのが、屁理屈の遊戯で、遊戯も度が過ぎると、混乱・疲労困憊に陥ります。
幾何の証明でも、公理と定理が、分からなくなるとますます混乱して、証明ができなると同様です。
「偉い人になってどうするか」とかいうのは問題にはなりません。
「キレイなものはキタナイか」という迷いと同様です。

【森田正馬全集第4巻:森田正馬著】


↑このページのトップへ