「すれっからし」とは慣れっこになったことである。 「すれっからし」になれば、ツルツルと滑って、 抵抗力が無くなってしまう。子供が度々叱られると、少々小言を言われても平気になる。

 ・・・・・ 小野君も近頃は、いくら悪口を言っても、叱っても、ビクともしない。顔の色も少しも変わらない。即ち恥ずかしくならないようにしようとする傾向が積んで、恥ずかしがりが鈍磨したのである。これをまた面の皮が厚くなったともいう。赤面恐怖が治るには、もっと細かく恥ずかしがるようにならなければならないのである。
(22回形外会、神経質、3巻356頁)

  いろいろな恐怖症が治るというのは、それらについて恐れ、注意することを全くしなくなるということではない。もっと大切な問題を持つようになったので、それには適宜の恐れと注意を払うだけで、それに拘泥してはいなくなっただけのことである。言いかえれば、心配の内容が前進、向上したのである。

【森田正馬先生の言葉~形外会記事より(上)~青木薫久】(生活の発見会発行)


 


 

 

 「あるがまま」は、森田療法の極意ともいえる言葉です。第一章で説明したように、森田が晩年に得た深い人生観と結びついています。

 まず、森田の言葉を見てみましょう。

 

要するに、人生は、苦は苦であり楽は楽である。「柳は緑、花は紅」である。その「あるがまま」にあり、「自然に服従し、境遇に柔順である」のが真の道である。

(「第十八回形外会」『森田正馬全集第五巻』白揚社、一九三二/一九七五年)

 

 ここに「あるがまま」という言葉が出てきますが、苦を苦として引き受け、むしろそれになり切ったときに、楽が見えてくると森田は言うのです。苦を避け、楽を求めること自体は、思想の矛盾であり、かえって私たちを追いつめ、苦悩から逃れられなくすることになります(思想の矛盾とは、先に述べたように、そのときどきの感情を、そうあってはならない、と抑えることで、森田が、不可能な努力、反自然的な心のあり方としたものです)。


 人生の困難、苦を引き受けてこそ、健康な生の欲望を実感し、素直にそれに乗っていけるのです。そのように、あるがままとは、受け身なだけではなく、ダイナミックな動きを伴う経験なのです。


 読者の皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか。森田は九歳のころ近所のお寺で地獄絵を見て以来、死の恐怖にとらわれ続けました。彼の半生は、死の恐怖からいかに逃れるか、それを恐れなくてすむのか、という闘い、試行錯誤でした。森田は五七歳のとき、このようにしみじみと述べています。

 

 私は少年時代から四十歳頃までは、死を恐れないように思う工夫を随分やってきたけれども、「死は恐れざるを得ず」という事を明らかに知って後は、そのようなむだ骨折りをやめてしまったのであります。(第十二回形外会)

 

 結局それは、「死は恐れざるを得ず」だったのです。死の恐怖を取り除くことを、あきらめ、受け入れるしかない、と深い自覚に至ったのです。


 ここでの「あきらめ」という言葉の意味について、ひとこと説明しておきます。『岩波古語辞典』によれば「あきらめ(明らめ)」とは、「①(心の)曇りを無くさせる、②明瞭にこまかい所までよく見る、③(理にしたがって)はっきり認識する、④事の筋、事情を明瞭に知らせる、⑤片をつける、処理する、⑥〔諦め〕断念する」とあります。


 つまりあきらめる、とは、物事をありのままに認識し、そして執着を切る、断念するということになるでしょうか。この点は、あきらめを語る場合に重要です。あきらめとは、単なる敗北ではないのです。


【はじめての森田療法 講談社現代新書 北西憲二 著】


 森田は次のように述べています。


 この本位という語について、思い違いの人が多いから、ちょっと説明しておきます。本位とは、物を測るのに、それを標準とする事で、人生でいえば、人生を観照して批判するところの、すなわち人生観の第一の条件とする観点を何におくかという事について、自分の気分を第一におこうとするものを気分本位というのである。毎日の価値を気分で判断する。今日は終日悲観しながらも、一人前働いたという時に、悲観したからだめだというのを気分本位といい、一人前働いたから、それでよいというのを事実本位というのであります。

(第十七回形外会)


 これはたとえば、「仕事で一日のノルマを果たしても、その時の自分は暗い気持ちに陥ってしまった、つらい、だからダメだ、という気分の良し悪しに注意を向け、そこで評価するのが気分本位。そうではなく、その日の気持ちが暗くても、ノルマ分きっちり働いたのだからOKと客観的に考えられるのが事実本位」ということです。


 気分本位とは、非常に簡単に言えば、自分の気分に左右された生活、行動を送ることです。自分の気分の良し悪しを常にはかり、自分の気分が悪いとガッカリし、それを何とかしようと悪戦苦闘し、結果としてますます自分を追い込んでいってしまうことです。


 悩み出すと(先に述べた「はからい」にはまり「とらわれ」の状態になると)、私たちは、気分本位となってしまいがちです。


一方、事実本位とは、そのときどきの事実(客観的な行動、あるいは成し遂げたこと)を重視するもので、気分本位と対照的に用いられる言葉です。


「気分と行動を分けて考え、行動しよう」と、私はよく悩んでいる人に勧めます。そして気分にとらわれたままでよい、気持ちが暗いならそのままでよいので、今ここでできることを考えてみようと助言します。


「外相整いて、内相自ずから熟す」


という言葉があります。この出典は、『徒然草』の「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」だと言われますが、私が治療でよく使う言葉の一つです。


いろいろな解釈がありますが、私は心は自分の思い通りにできないもの、それはそのままに受け入れ、棚に上げて、まず外相、生活面での行動を整えていけば、心も後から自然に整ってくるもの、と理解しています。


(略)。出来ないことを受け入れ、できることをするというのが、森田療法の基本的な考え方です。つまり「内相」を操作することはできませんが、「外相」(生活)を整えることは、できることなのです。そして、そのような認識の転換を援助していくのです。


【はじめての森田療法 講談社現代新書 北西憲二 著】


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