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「わあ、綺麗なおうちですね」 

お邪魔します、の次に来客はそう声を漏らした。




玄関で脱いだ靴を丁寧に並べると、彼は借りてきた猫のように恐る恐るリビングダイニングへと足を踏み入れた。笑顔だけど、戸惑っていることは容易に想像できる。何せお盆休みど真ん中の真夜中に呼び出され来てみたら、実家住みの若い女が出迎えたわけだ。いくら金銭のやり取りがあっての逢瀬とはいえ、恐怖に似た不安を抱えてるに違いない。


リビングダイニングには四人掛けのダイニングテーブルとテレビ、テレビの前にローテーブル、それを挟んでこれまた四人掛けのソファがある。普段はソファ上に投げ置かれている二つのクッションが、今日は両端にきちんと整列していた。ソファに座ろうとする彼の背中をポンっと叩き、薄い茶封筒を差し出す。私と彼はこの儀式によって、これからの時間を共にするのだ。 


「え、少し多いですよ」 


茶封筒の中身を確認した彼は目を丸くした。多いといえども、料金に最寄り駅から自宅近辺までの微々たるタクシー代が加算されてるだけの額だ。少し口角を上げながら、「受け取ってください」というと、彼は躊躇することなく鞄にしまい込む。後から振り返れば、この躊躇の無さが"人を買う"を実感した最初の瞬間だった。


メールのやり取りの通り、一人一本ずつの缶チューハイを買ってきた彼。少し申し訳なさそうにお酒を入れるグラスを求めてきた。顔立ちや平均よりも小さな身長なのもあり、その様子は何だか子犬のようだった。食器棚から適当な大きさのグラスを選ぶ。背中越しに感じる自分じゃない存在は、二つのグラスを選ぶという単純な動作を困難にさせるには十分すぎた。クーラーで冷やされてるはずの部屋で気のせいか汗を感じる。選んだグラスをローテーブルに置くと、彼はにっこりと微笑んだ。


底から上にかけて広くなっているデザインのグラスに白濁がかった液体が注がれる。慎重に液体を注ぐ彼の隣に座り、その様子と彼の横顔を眺めた。額から顎にかけての曲線が美しく、思わず見惚れてしまう。「あんまり見られると恥ずかしいですよ」彼の声で現実に戻された。まだ緊張と不安が拭えない私と違い、柔らかくにこにことした表情で液体に満ちたグラスを渡してくれた。


乾杯をし、おずおずとグラスに口づける。レモン味のそれをレモン味と感じることができない。私は初めてキャバクラに連れて行かれた男性のような距離感で会話を始めた。高めな声で穏やかなトーン、テンポもゆったりとしている彼と声は低く、早口でせっかちな私。最初は不協和音のようだった会話も、アルコールと時間が進むにつれ、呼吸が合うようになってきた。彼が敬語で受け身なのもあり、あれやこれやと必死に話題を持ち出す。きっと、女の子を口説く男性はこんな気持ちなんだろう。


彼の仕事の話も聞いた。なんで出張ホストをやっているのか、日中はサラリーマンをしていること、メインユーザーは40~50代だとか、ホテルに呼ばれるも「いるだけでいい」と時間内ずっと放置されたとか、映画の上映時間のみに呼ばれて上映後すぐに解散されたとか。女性の欲は複雑だと聞いていたけれど、話を聞いてさらに分からなくなった。性行為で満たされずに隣にいるだけで満たされる欲望、得られる快楽。女性の欲望と快楽、それらはある意味の芸術に似てるのかもしれない。


アルコールが回ってきたのもあり、表情が緩み、自然とボディタッチをするようになっていた。私の話に対する相槌や笑顔に愛おしさを感じ、逆に「やめてよ」と伝えた後も混ざる敬語、そして何よりも、会話以上のやり取りが許される相手と状況なのにも関わらず、自分で自分に許可を下せていないことがもどかしくて堪らなかった。「触って」その一言が言えない。言っても拒絶されない相手、それ目的のためにお金で買った相手なのに言えない。驚け。たとえ金銭が介在しようと、自分の好みの相手に恥ずかしさは身を隠してはくれないのだ。


(はやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたい)


時計の針はとっくに一時間後を指している。いつかの私は一時間の長さに憂いでいたが、今はそのあまりの速さを呪った。会話が所々切れ、また始まり、また切れる。下手くそなバトンリレーのような会話の中、身体に宿るぐつぐつとした熱は無視できないほど大きくなりつつあった。彼が白濁がかった水面へ9%と表記された缶をグラスに傾け、僅かに残っていた数滴を落とす。


(はやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたい)


「実際、」


(はやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたいはやく触りたい)


「どこまでするんですか」 


空になった缶がテーブルに置かれるのと同時、熱に促された私はそう呟いてしまった。一瞬だけ冷静な目になった彼と視線が合う。「あまりしないですけど、キスまでなら」すぐに柔らかい目に戻った彼はにこにこと答える。自分の問いに戸惑う私の表情はきっと酷いものに違いない。二人の間に沈黙が生まれる。複雑な感情にもがき、どうにか話題を探す私に彼は口を開いた。



「マドカさんの部屋、行きません?」



冷静を装っていたとしても、私の中の熱は自分はおろか、きっと彼も無視できないほどになっていたのだろう。喉を刺すほどに冷えた水を飲んだところでこの熱を逃せないし、逃したくなんてなかった。彼もごくりとこの冷たさを喉に通した。「ありがとうございます」空のグラスを渡されたときに指が触れただけで気がおかしくなりそうだなんて、きっと彼は思いもしないんだと言い聞かせる。指先から全身にゆったりと広がる波を感じながら、自室へと繋がる階段を昇った。後ろには彼が続く。数メートルの距離がいやらしく、馬鹿みたいにもどかしい。こんなことは初めてだった。


扉を開けば、掃除をしたことでより殺風景になった光景が広がる。殺風景でいい、何もなくていい。今の私に必要なのは意味のない装飾じゃなくて、この熱を共有してくれる"モノ"、ただそれだけ。ベッドに腰掛けた彼が私を見つめる。隣に座ろうとすると、彼は私の腕を引き、自分の上に跨がせた。それまでのふんわりとした雰囲気は纏っていない。どこか鋭利さを感じさせるその眼差しに私の熱が増す。だめ、やめて、これ以上、熱せさせないで。顔が近づけば近づくほど、喜びと羞恥心と戸惑いに押し潰されそうだった。


「どうされたいの?」 


いたずらっ子のように口角を上げた彼は、ワンピース越しの下着を着けていない二つの膨らみを優しく持ち上げるように手で包み込む。「(どうされたい)」ここ最近ずっと待ち望んでいた、欲しくて堪らなかった言葉なのに願望を上手く言語に変換できない。それに一つの疑問が浮かぶ。「今日のコース、こういうことしちゃいけないんじゃなかったっけ」不安げに彼を見つめる。「せっかく長い時間にしてくれたから特別。内緒だよ?」そう、無邪気な笑顔で返された。私も笑うと、唇に柔らかく暖かいものが触れる。彼の体温が熱い、そしてその熱さが気持ちいい。 ローテーブルに置いてあるリモコンのボタンを押した。私と彼しかいない世界は暗闇と化す。



「あのね」

「触ってほしい」

「もっと、たくさん」



視界が見えない天井に変わる。

口から溢れた願望は、柔らかで形のいい唇にすべて奪い取られた。





後編に続く



マドカ・ジャスミン