月別アーカイブ / 2018年05月



中学生時代。
その日私は、近所の学習塾で数学の授業を受けていた。

そして、とんでもなく苦悩していた。

その塾は、個人経営のほのぼのとした所だったが、一人だけ異色の男性講師がいた。
身長180cmオーバー。ダンディズムを感じさせる顔立ち。普段は大学で物理の研究を行なっていることもあり、理数のみを教えていた。それも、個別に要望があぅた生徒だけが対象。

ここまでだけだと、別に珍しさは特に感じられないだろう。けれど、決定的な珍しさがあった。

彼は、"答え"を教えてはくれない人だったのだ。


机に向かい、まだ私は苦悩し続けていた。
上から見下ろす講師の視線が怖かった。

「"平均"って何?」

その問いかけから始まった苦悩は、もう10分以上続いている。私からすれば、"平均"は"平均"でしかない。しかし、そんな陳腐な返答が求められてないことぐらい、時計の針が進むにつれ、冷たさを増していく視線から感じ取れていた。

「…平均は、真っ直ぐなことです」

「何が真っ直ぐなの?そもそも何で真っ直ぐなの?」

そんなこと、こっちが聞きたい。
超文系脳かつ、数学がまるで出来ない私は、何とか彼の視線が柔らぎそうな言葉を必死に探す。

「横に真っ直ぐです…」

「横に真っ直ぐは、どうしたらそうなるの?」

講師がザザッと描いた長さがバラバラな縦線グラフを眺めながら、また沈黙が続く。

「どうしたら、そのグラフは"平均"になるの?」


その後、私は彼が納得いく答えをなんとか絞り出すことが出来た。答えを聞けば、今までの威圧感が嘘だったかのように一転して笑顔で解説を始める。

この講師は、いつもそうだった。

「方程式の丸々暗記なんていう愚かなことはやめなさい」

「何故その方程式になるかを考えなさい」

学校の先生たちが勧めるやり方をことごとく否定し、とにかく方程式の成り立ちを理解させようとした。
皮肉にも、本質の理解よりも受験勉強を優先していた私は、数ヶ月後別の講師の元で授業を受けていた。

「"平均"なんて、そのままの意味じゃないか」
「無駄に難しく考えさせるなよ」



同じ塾での国語の授業。
担当の男性講師とは、とても仲が良かった。

読解力問題を解き終え、答え合わせを始める。

「やったー!また満点!」

「これぐらい当たり前だろ。あと、何でこの解答にしたのかを説明して」

「え、だって、書いてあるよ」

「それを説明して」

説明出来なかった。答えは間違いなく、その文章内から即座に見つけることが出来た。容易だった。
けれど、何故見つけられたかなんて聞かれても、そこにあったからとしか答えられない。

「別に知らなくてよくない?正解してるし」

「今は、正解してるね」

「何でダメなの」

全問正解。なのに、怒られているのか。理不尽さに苛立ちが沸き起こりつつあった。講師は、呆れたような心配しているかのような、とにかく複雑さが目立つ表情で私を見ている。

「確かに全問正解はすごいし、文章から答えをすぐ見つけ出すこともすごいよ」

「ほーら」

「だけどな、答えまでの道のりが分からないと、仮に不正解だった時は理由が分からないで困るだろ」



「正解を見つけることは勿論大切だけど、それ以上に何故そうなったかが大切なわけ」


眉を寄せ、唇を突き出し、机に突っ伏していた私の耳に彼の言葉はまるで届かなかった。
それどころか、一年後の高校受験シーズン。国語で脱出が見込めないスランプに陥るなんて、その時は想像すらしていなかった。



昔から、誰よりも真っ先に正解が知りたかった。
正解を知っていたら、偉いと思っていた。
すべて上手く行く、なんて考えていた。

勿論、正解があれば、スムーズに事を進められる。
これは紛れも無い事実だ。

しかし、どんな人でも、大なり小なり躓くことがある。
それが長期間に渡って、自分を苦しめるだって無いわけじゃない。

そこで起き上がり、もう一度足を進められる人。
それは、正解までの道のりを知っている人だ。

正解を最初から分かっているのに越したことはない。
だが万が一、不正解を生んでしまった時、軌道修正を行うに必要不可欠なのが正解までの道のりなのだ。

道のりが分かっているなら、不正解になってしまった理由も即座に判明するだろう。


私たちは、間違える。
それ以上に私たちは、思考できる。

頂上に辿りつく道は険しいけれど、だからこそ思考する価値がある。

であるならば、自分にとって大切なものは、思考の道中にひっそりと転がっているのかもしれない。


マドカ・ジャスミン






今年のGWはとても暇だった。世間でいう長期休暇は、フリーランスにとっては地獄そのものだ。

いつも作業しているカフェは人でごった返し、いつもの閑静な空間とは程遠い。とてもじゃないけど、作業どころじゃない。少し出掛けようとしても、街は人人人。そうなると、元々引き籠り体質の私はこうなる。「よし。家にいよう」。

いざ家にいるとなっても、暇だ。起きて、食事を済ませ、最低限の作業をしても、時間は膨大に余る。SNSさえも、この時期は心なしか反応が悪い。

ボーっとベッドに転がり、天井を見上げる。窓から見える空は晴天。今頃、海や川ではBBQなどをして楽しんでいる男女が何人いるのやら。自分と脳内ではしゃぐリア充達との対比に絶望すら感じ始めた。

こんな時、時間を潰す上で最適なのは、映画だった。とは言っても、GW中の映画館には絶対に行きたくなかった。私は座席位置に拘るタイプだ。突然行って座れるような席なんて、たかが知れている。

しかし、現代には素晴らしいツールがある。自宅にいても、大抵の映画作品であれば、PCやスマートフォンで鑑賞できてしまうのだ。改めて思うが、これほどの引き籠りの味方があるのだろうか。

こういう時に観る映画は、決まってこうだ。あんまり頭を使わない作品。 

ようは、シリアスでもなく、ホラーでもなく、分かりやすい感動作品でもなく、とにかくフラットに観れるもの。例を挙げるならば、グランド・イリュージョンやウルフオブウォールストリートなど。

そんな基準で画面に羅列されている作品を吟味していく。あーでもないこーでもないとスクロールを繰り返す。ふと目に留まった作品があった。

それは、『Sex and the City』。
通称SATCとして、話題になったあの作品だ。

_var_mobile_Media_DCIM_117APPLE_IMG_7002.JPG

意外かもしれないが、私はSATCを観たことがなかった。話題作ともあり、何となくどういった作品であることは知っていた。そうは言っても、女性4人の煌びやかなアレコレぐらいの印象。頭を使わずに観れそうだと、早速再生ボタンをクリックする。

ドラマ版の知識が無くとも、どういった人間関係なのか、今に至るまで何があったはすんなりと把握でき、物語はテンポよく進んでいった。その中で、とある違和感を抱き始めていることに気づく。

「なんだこのモヤモヤは…」

メインキャストの4人は、確かに煌びやかだ。舞台はNY。ハイファッションに身を包み、ヒールで颯爽と歩く。だがしかし、途中から婚約破棄や浮気など、煌びやかとは真逆の問題が続出し始める。ヴィヴィアンの純白なウエディングドレスを着て、大きな花束を婚約者へ振りかざすキャリーには同情以上に怒りが込み上げたぐらいだ。 

けれど、彼女たちは悲しい出来事があっても、悲しみに暮れ続けるわけじゃない。問題解決に着手するのが、ものすごく早かった。

ライター業を営むキャリーは婚約者と一緒に住むために手放した部屋を取り戻したり、弁護士であるミランダは夫の浮気発覚後すぐに別居するための部屋を借りたりを即座に行う。ドライとも取れるが、私は素直にこう思った。 

「自立している女性って、強い」

作中にも出てくるが、男性に生活基盤を100%頼ったばかりに家を失う女性だって、現実にもいないわけじゃない。たかがパートナーとのいざこざで寝る場所を失うなんて、なんとも悲惨極まりない。 

出てくる4人は、専業主婦のシャーロットを除き、皆手に職を持ち、経済的にも自立している。羨望の溜め息を漏らすようなアイテムで着飾っているだけではなく、自分の生活を自分で見事に守れている。張りぼての煌びやかさではなく、まさに芯からの煌びやかさではないか。 

もっとも強い女性、もっと厳密に言えば、自分の幸せを理解しそれを追い求められる女性の象徴がサマンサだ。

彼女はきっぱりと言う。「自分のことが好きなの」。
これを理由に恋人と別れた彼女は、とても眩しかった。恋人が贈ってくれた欲しかった指輪に関しても、「自分で手に入れたかった」と嘆く彼女こそ、私たちが手に入れるべき強さなのかもしれない。 

"女は与えられるこそが幸福"という宗教じみた幻想は、日本の女性を縛りに縛り付けている。そして、そのために自我さえも無視してしまう。別にそれが幸せだというなら、口を出す権利は全くない。でも、果たして今の自分の"幸せ"は本当に自分の幸せなのか。悲しみや不満、憤りに蓋をして、平穏という毒に身を蝕まれているだけではないのか。

私は、そう生きたくない。

他人から見ての"幸せ"でも、自分を攻撃してくる不都合ならば、人生において全く以て必要がない。これをドライだとか、効率化の求めすぎだとか、そう捉える人はいるかもしれない。だとしても、人生なんていう一瞬の時間において、幸せだと感じる割合を多くしたいで馬鹿みたいにシンプルだ。

男性からダイヤを贈られたい、誰もが羨む生活を送りたい。別にその願望は私だって持っていないわけじゃない。それでも、自分の武器を、強力な武器を得ていきたい。

SATCで描かれていたその武器とは、紛れも無く仕事だった。

彼女たちは若い頃から、武器を得てきた。磨いてきた。だからこそ、不都合から自分を遠ざけ、自分を守れることができた。


不都合から自分を守る。その為に仕事をする。武器を得る。 武器があれば、味方の皮を被った敵にだって太刀打ちできる。 

この世は戦場だ。
いつ誰に傷つけられるか分からない。
ダイヤだけじゃ、自分のことは守れない。

武器を持つしか、"自分の人生"を生きる道は無い。

私はそう、SATCで改めて学んだのだった。



マドカ・ジャスミン




昔から人の評価を気にしてばかりだった。

見た目やヒエラルキーはそうだけど、何よりも学校成績には過敏だった。

高校時代はさておき、小・中学校時代の成績は上位をキープしていた。ただし、出席日数は除く。

上位をキープしておけば、親や先生も多少緩くなるし、何よりも自分の価値が文章や数字化されることに快感を覚えていたのだ。

昔から、心理テストの類が好きだったのも、それに通ずる部分がある。他者によって、自分が分析され、一切の感情を含まない結果を出される。言語化出来ない、あのゾクゾク感が堪らなかった。

小学校は未だしも、中学校の途中からは成績が受験に直結するため、その過敏度は上がっていった。

数字への意識は勿論、評価欄に書かれてある文章の内容も隈無くチェックするほどだった。
誰々よりも長く書いてある。誰々よりも褒められている。友達と成績表を見せ合っては、内心そんなことばかりを考えていた。仲間内では、いつも私の数字が一番良かったし、書かれてある文章も一番長く、よく褒められていた。

中3のいつか。成績表ではないものの、総合学習の結果表が渡された。

私は、総合学習が嫌い。いや、大嫌いだ。
今の職業からしてみれば考えられないが、調べたり、作ったり、自主性を重んじるものが上手く出来なかった。

1を2にするのは得意なのに、0を1にするとなると、時間が倍掛かる。しかも、作業時間ではなく、作業をし始めるまでの時間だ。始めたらすぐ終わるのに、全く取り掛かれない。分かってるのに、まるで出来ない。まるで呪いのようだ。

これから分かるように、総合学習で作成したものの出来は最悪だった。結局、期限を先延ばしにし、〆切ギリギリで焦りながら形にする。良いものが作れるわけない。

けれど、謎の自信があった。成績上位の私が作ってるんだ。良い評価に決まってる。基準に満たすようには作った。そんな思いで結果表を受け取った。そこには、『よくできました』の一言。

心臓が少しザワッとした。

「どうだった〜?」なんて、友達の結果表を見る。成績表は平均ぐらいの子だった。「普通だよ」と、躊躇なく結果表を見せてくる。この子は、あまりそういうことに関心が無いタイプだった。

渡された結果表を見る。自分の結果表では『よくできました』と記されていた部分が、『たいへんよくできました』になっていた。

心臓がザワザワする。

心なしか、涙も込み上げる。

不思議そうな顔をする友達に無理矢理の笑顔を見せ、押し付けるように結果表を返した。

泣いちゃだめだ。ここで泣いたらだめだ。

今にも涙が溢れ出そうだったが、幸いにもその時間は帰りの会中だった。挨拶が終われば、皆教室の外へ我先にと出て行く。とにかくそれまで耐えるしか無かった。

ここで泣いたら、私は“負ける”。



思い返せば、きっと受験パンクだったに違いない。何せ総合学習の評価も受験に加味されていた筈だ。元々の“評価されたがり”はあったとは言え、たった一言で世界が終わってしまうような感覚になってたわけだから。

現在も、私は評価を好む。それは、ある意味自分を他人に求めているからだ。自己評価では生きれず、他者評価に自分の生を見出している。

けど、今その評価してくれる人たちは先生じゃない。そして、評価で学校に行ける・行けないもない。

そもそも、他人と比べて、「負けた」と思わなくていい。

何故なら、自分への『たいへんよくできました』と他人への『たいへんよくできました』は、同じ言葉でも全く違うものだから。

学校や受験は同じ枠内で順位を付けられていたけれど、そこから出たら全ての人は違う枠なのだ。そもそも競う必要なんて無いし、順位もない。勝ち負けもない。全ての人が、それぞれの『たいへんよくできました』が貰える。

みんな違って、みんないい。そう表現すると、何だかアバウトすぎるけど、みんな『たいへんよくできました』なら清々しいと思わないか。自分も誇れ、他人も誇れる。なんて素晴らしいのだろう。

評価されたい、すごくされたい。
だから、『たいへんよくできました』を人に与える。


そうして回る世界は、きっと沢山のお花や笑顔で満ち溢れるだろう。


世界中に『たいへんよくできました』を。





マドカ・ジャスミン

↑このページのトップへ