昔から人の評価を気にしてばかりだった。

見た目やヒエラルキーはそうだけど、何よりも学校成績には過敏だった。

高校時代はさておき、小・中学校時代の成績は上位をキープしていた。ただし、出席日数は除く。

上位をキープしておけば、親や先生も多少緩くなるし、何よりも自分の価値が文章や数字化されることに快感を覚えていたのだ。

昔から、心理テストの類が好きだったのも、それに通ずる部分がある。他者によって、自分が分析され、一切の感情を含まない結果を出される。言語化出来ない、あのゾクゾク感が堪らなかった。

小学校は未だしも、中学校の途中からは成績が受験に直結するため、その過敏度は上がっていった。

数字への意識は勿論、評価欄に書かれてある文章の内容も隈無くチェックするほどだった。
誰々よりも長く書いてある。誰々よりも褒められている。友達と成績表を見せ合っては、内心そんなことばかりを考えていた。仲間内では、いつも私の数字が一番良かったし、書かれてある文章も一番長く、よく褒められていた。

中3のいつか。成績表ではないものの、総合学習の結果表が渡された。

私は、総合学習が嫌い。いや、大嫌いだ。
今の職業からしてみれば考えられないが、調べたり、作ったり、自主性を重んじるものが上手く出来なかった。

1を2にするのは得意なのに、0を1にするとなると、時間が倍掛かる。しかも、作業時間ではなく、作業をし始めるまでの時間だ。始めたらすぐ終わるのに、全く取り掛かれない。分かってるのに、まるで出来ない。まるで呪いのようだ。

これから分かるように、総合学習で作成したものの出来は最悪だった。結局、期限を先延ばしにし、〆切ギリギリで焦りながら形にする。良いものが作れるわけない。

けれど、謎の自信があった。成績上位の私が作ってるんだ。良い評価に決まってる。基準に満たすようには作った。そんな思いで結果表を受け取った。そこには、『よくできました』の一言。

心臓が少しザワッとした。

「どうだった〜?」なんて、友達の結果表を見る。成績表は平均ぐらいの子だった。「普通だよ」と、躊躇なく結果表を見せてくる。この子は、あまりそういうことに関心が無いタイプだった。

渡された結果表を見る。自分の結果表では『よくできました』と記されていた部分が、『たいへんよくできました』になっていた。

心臓がザワザワする。

心なしか、涙も込み上げる。

不思議そうな顔をする友達に無理矢理の笑顔を見せ、押し付けるように結果表を返した。

泣いちゃだめだ。ここで泣いたらだめだ。

今にも涙が溢れ出そうだったが、幸いにもその時間は帰りの会中だった。挨拶が終われば、皆教室の外へ我先にと出て行く。とにかくそれまで耐えるしか無かった。

ここで泣いたら、私は“負ける”。



思い返せば、きっと受験パンクだったに違いない。何せ総合学習の評価も受験に加味されていた筈だ。元々の“評価されたがり”はあったとは言え、たった一言で世界が終わってしまうような感覚になってたわけだから。

現在も、私は評価を好む。それは、ある意味自分を他人に求めているからだ。自己評価では生きれず、他者評価に自分の生を見出している。

けど、今その評価してくれる人たちは先生じゃない。そして、評価で学校に行ける・行けないもない。

そもそも、他人と比べて、「負けた」と思わなくていい。

何故なら、自分への『たいへんよくできました』と他人への『たいへんよくできました』は、同じ言葉でも全く違うものだから。

学校や受験は同じ枠内で順位を付けられていたけれど、そこから出たら全ての人は違う枠なのだ。そもそも競う必要なんて無いし、順位もない。勝ち負けもない。全ての人が、それぞれの『たいへんよくできました』が貰える。

みんな違って、みんないい。そう表現すると、何だかアバウトすぎるけど、みんな『たいへんよくできました』なら清々しいと思わないか。自分も誇れ、他人も誇れる。なんて素晴らしいのだろう。

評価されたい、すごくされたい。
だから、『たいへんよくできました』を人に与える。


そうして回る世界は、きっと沢山のお花や笑顔で満ち溢れるだろう。


世界中に『たいへんよくできました』を。





マドカ・ジャスミン