「セックス」
その単語が飛び出す会話と言えば、大抵が下ネタか隠したい悩み事が主である。SNSでは、武勇伝かのように自分のセックスを語る人もいるが、現実においては極稀だ。
皆さんの知っている通り、人間は食欲・性欲・睡眠欲という三大欲求を持っている。こんな話、有名すぎて聞き飽きている人も多いかもしれない。けれど、食欲と睡眠欲については、老若男女様々な人たちが世代を超えて話し合うことが多い。
「あれが食べたい」「お腹が減った」「眠い」「寝すぎた」など、何も特別な意味を含まずに"欲"についての表現は飛び交う。欲が根本にあるとはいえ、それを意識している人はどのぐらいいるのだろう。
しかし、これが同じ欲である性欲になると、途端に扱いが変わる。「セックスしたい」に「その顔で何を言う」、「セックスが好き」に「はしたない」、「マスターベーションをしている」に「そんなことをしているのか」というような返しは珍しい事ではない。むしろ、その返しが当たり前である価値観のほうが根強い、
食欲と睡眠欲は市民権を得ている反面、2018年現在、平成の終わりが見えている時代にも関わらず、性欲については皆表立って語ろうとはしない。私からすれば、この状況を非常に不健全だと思わずにはいられないのだ。
そもそも、性欲への謎の嫌悪感や秘匿性は一体どのタイミングで芽生えるのだろうか。
何を隠そう、私はセックスが好きだ。パートナーもいるが、マスターベーションも行う。「何だか最近調子が悪いな」と思う時は、セックス不足が原因な場合もあるぐらいだ。それを悪い事だとは微塵たりとも思わなければ、必要なデイリーケアという認識で行っている。
そういった性ついての前向きな価値観が形成されたのはいつだったか。思い返してみれば、小学校2年生当時にそのヒントがあった。
私が通っていた小学校では、低学年まで図書の時間という授業が存在した。授業と言っても、図書室で一人最低一冊の本を選んで読むというもの。勿論、図書室にあるものであれば漫画でも構わなかった。
はだしのゲンやかいけつゾロリを読む同級生たちの中、私はどこか恥ずかしそうにしながらも黙々と熱心にとある本を読んでいた。
性教育本だ。
小学校低学年でも、その本に何が書かれているかは分かっている。だが、それへの印象は「えっちなもの」「読んじゃいけない本」に止まっていた。同級生たちの冷ややかな視線を認めながらも、どうして性教育本を読んでいたか。単純に「将来必要な知識だから」のそれ以上でもそれ以下でも無かった。
幼い頃の私は、今以上の知識欲があり、何よりも「他の子よりも物知りな自分」が大好きだった。それもあり、図書の時間ではひたすら性教育本を読み漁っていた。絵本ベースのものから、小学校高学年向きの情報が細かく載っているものまで。
そのせいか、成長するにつれ、性についていやらしいものと捉える同級生たちに「人間として当たり前のことを何で否定するのか」と疑問を、性教育の授業でも「全然学べない」と不満を抱いていた。これは今の活動における原体験の一つとも言える。
もう一つは、親だ。
様々な媒体で自分の親の話をしているが、話す度に自分の親は特殊なタイプなんだと考える。父子家庭だったこともあり、世間的に見ても父親とのコミュニケーション量は多かった。中学生になった私が父親とドライブをしていたある日。父親はこう言った。
「セックスして万が一のことが起きた時、傷つくことになるのは女の子だからきちんと避妊しなきゃ駄目だからな」
思春期の娘に言っていいのか悪いのかは置いておいて、人よりも性知識があった手前、すんなりとその言葉を受け容れた。彼は弟が中学生になった時も、同様の内容を話したらしい。
そう考えれば、私が性欲に対して前向きなのは人よりもそれに対して自分自身の事として考え、向き合う機会が多かったからなのかもしれない。
話を戻して、何故大多数の人間が性欲に嫌悪感や秘匿性が芽生え、育ってしまうのか。大前提として、自分自身の事だという認識が薄い。そうなると、性欲について考えない。考えないから向き合わない。まさに悪循環の極みだ。
人は無いものをねだり、中傷する傾向がある。お金が無い人はお金持ちを中傷し、恋愛弱者は恋愛強者を中傷する。性欲も同じ。本当は性欲を満たしたい人が、満たせている人を中傷するのだ。
中傷する人たちは、その相手がどんなプロセスでそれを手に入れ、持続させているかを知ろうとしない。お金持ちだって、恋愛強者だって、性欲を満たせている人だって、何もなしにそれを手に入れたわけじゃない。そして、手に入れている人は皆共通して、その事で何か問題があれば人のせいにせず、自分自身の問題として考え、向き合う。どれだけつらくとも。
こう語れば、「じゃあ食欲と睡眠欲についてはそこまでのことをしているのか?」という批判が来ると想定しているが、その二つは無意識的に考え、向き合っているのだ。「今日はこういう食事を摂りたい」「最近栄養が偏っているから、これを食べよう」「朝が早いから、早く寝なきゃいけない」「寝不足だから、明日は寝だめしよう」…これら全て、欲について考え、向き合い実行している例とは言えないか?ぐうの音も出ないだろう。
私たちは普段から食欲と睡眠欲を考え、向き合っている。ならば、性欲も例外ではない筈だ。例えば、「今日はマスターベーションをしよう」「性器に違和感があるから、検査に行ったほうがいいな」「ムラムラするからセックスしたい」ぐらいフランクでいい。何も特別なことではない。日常生活で自然発生する立派な欲だ。だからこそ、世間から後ろ指を指されるように思われている性感染症の検査だって、言ってしまえば自己メンテナンスとも捉えることが出来るのではないのか。
ただ、無理に欲を生み出す必要は一切ない。とにかく自分の中にある欲を否定しない。これが大切。人は、抑圧され続けると、何かの形で暴発する。それは極めて不自然であってはならないからこそ、自分の欲を認める。認めてしまえば、自然と行動に移せるだろう。言わずもがな、犯罪等は絶対にしてはいけない。
最後に。性欲は恥ずかしいことなんかじゃない。人が皆平等に持っている愉しみで、それ以上に生命の営みだ。こんなにも素晴らしい事で、私も貴方も遡ることさえも困難な時を経て、今存在している。食欲と睡眠欲が生命を紡いでいるように、性欲も同じだ。それを忘れなければ、もっと人生は豊かになる。
私はそう信じ、今日も今日とて性欲を満たす。
そして、考え、向き合い、また満たす。
生きるって、幸せだ。
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