月別アーカイブ / 2007年04月

先日ZEPPET STOREのクアトロのためのリハをした。
10年以上ぶりに集まるメンツなので音を出す前はどうなることやら(もちろん自分も含め)とハラハラだったのだが…久々に競演するヤナはとてもやりやすく、心配のタネだった遠矢もブランクをまったく感じさせなかった。竿を持った立ち振る舞いまで昔のままで「遠矢型形状記憶合金かよ」と(笑)。また現在のキーよりかなり低くなるであろう世治の声も轟音の中でもしっかり鳴っていた。

人間の「記憶」って凄いな。
俺にとって音楽は勝ち負けなので(笑)きっちり予習をして挑んだのだが。
全員が曲によって鮮明に記憶している曲とそうでもない曲がはっきりわかれていて(もちろん当時演奏した回数によるのだろうが)無難にこなせる曲、戸惑う曲などもありおもしろかった。
当時からCDとはアレンジを変えて演奏していた部分を思い出したり、その曲が持っているノリをやっていくうちに思い出したり…。
自分で認識している部分ではなく、体に染みついた「記憶」を体感できて興味深かった。
イチローが言うところの筋肉や細胞レベルでの「記憶」であったり…。
音楽家もある意味、音を操るアスリート的な部分が存在するのだなと。そりゃそうか。練習とは反復であり体に記憶させることだからね。
NFLの中継で河口正史氏がよくレイ・ルイスやブライアン・アーラッカーなどの超がつくぐらい反応の早いラインバッカーには「カウンター」や「カットバック」が有効なタクティクスである旨を云っていたが、こういうことなのかも知れない。

昔から「ライブ嫌い」の理由として、「体に染みついた時点でつまらなくなる」というのが俺の中にある。
染みついた時点で楽しめなくなってしまう。「体に染みつく」前の「体に入っていっている」状態が一番演奏していて気持ちが良い。
染みついてしまうと、その曲だけの「体の記憶」になって自由が奪われる感じがしてしまう。
「体に入っている」までの状態ならその曲だけの「体の記憶」にたよることなく「今までのすべての記憶」を駆使してその曲に新たな表情がつけられる。
まるで棺桶の中に入っていることに気が付かない自分と、棺桶の中であることを自覚しもがいている自分との差だ。
どの道、演奏する側は曲を完成させた時点で同時に「新鮮さ」という蜜を奪われる。
あとはマンネリという檻に入ってあきらめるか、檻の中でも自由を求めるか…なのかも知れない。

当時「体に染みついてしまったモノ」がこの空白の間に新鮮さを取り戻して俺の前にある。

sphere official website

きよしから聞いたんだけど「木村さんが言ってました」って。先日のhurdy gurdyの打ち上げ?…もしくはリハで?…世治が言ってたらしい…んだけど本人からの直接聞いた言葉じゃないので、細部も変わっちゃうだろうからあくまでもニュアンスとして書くけど「あの頃はみんなレベルが高くやすやす曲を持っていっても納得してくれないから何曲も作っては抜粋して曲を持っていってた」的なことを言ってたと。

あー、そうだったかも…と思った。レベルが高かったというより、逆に当時はスキル自体が当然今より低かったハズで、自分の中の脳内イメージを形にするのに時間も労力もかかっただけなのかも知れないけど、確実に今よりジタバタしていたなあ。
それと客観性も今ほどじゃなかっただろうから自分の中に「壁」がなかったというか。「あきらめ」とかいう種類の「壁」ではないんだけど「自分」は「こうだ」とかっていう事前に付けちゃってる「答え」をもっていなかったな。明確に「答え」を提示できないのに「キーワード」は話せちゃうから中途半端に困惑させながらみんなで「答え」に向かっていく…みたいな。
そんなわけで「たどり着けない」いわゆる「ボツ」も多かった。確実に言えるのは「答え」を逆算できない分時間はかかったけど「答え」はすぐ近くに感じ取れていた。その感じれるだけでなかなか手の中に掴みきれない「答え」を実現して目の当たりにしたい…という行為が俺にとっての「音楽」という「おもちゃ」だったんだ。
五反田・吉祥寺・都立大と場所は変われど、ライブが入っていようがいまいが火金の週二回必ず集まり、その「答え」が見たいために通っていた。
ヤナが言うように本気でUKを目指し「憧れ」でなく手に届く位置に来たと感じ取れたクアトロでのブー・ラドリーズのオープニング・アクト。絶対の自信で1stアルバムをリリースしたから「世の中ひっくり返る」と思い込んでいたのに、なんのリアクションもない世間に「あー、やっぱりおまえらごときにゃ理解できまい」とあきらめかけた矢先のhideさんとの出会いとか。アレがその後の「扉」を開いたのは確かだ。だけど最大の誇りは「扉」を作っていたのではなく純粋に「音楽」という「おもちゃ」を堪能しまくった結晶がアレに詰まっていたから人の心を動かしたという自負があること。今なら「きよしそこ何弾いてる?」とか「姫、今どこ行った?」とかすべてを確認しながら曲を作っていくけど、当時はそんな確認行為もしてなかった(俺だけかな?笑)。「感じる」という曖昧な感覚だけでアレを作っていた。時間が経過し改めて客観的に聴くアレの本当の凄まじさを理解できるのはもしかしたら渦中にいたメンバーだけなのかも知れない。でもこれから手に取る人たちにも「気持ち悪いぐらいひたむきでピュアな俺たち(笑)」を感じてほしい。口をとんがらせながらアレの凄さを語るときのhideさんの顔を思い出す。
昨今の再結成ブームとなぜかタイミングが重なってしまったけど(笑)今回の再発→ワンナイZSはひと回りした俺と世治とヤナと遠矢にとって、あの頃を思い出し今の自分を見つめ直せる有難い機会だよね。

…などということをきよしと世治の会話から膨らませてみました。

今週末からワンナイZS@クアトロのリハが始まるので、昨日から自宅にてSWING,SLIDE,SANDPITの自分のプレイを確認中。全体的に思っていたよりBPM早し。lacerate your brainやバボは幕張ぐらいまで演ってたからすぐに思い出した。クランキーも覚えてた。けどbrilliant leavesとかshame onとかの俺は曲自体は覚えてるけど指板上はほぼ覚えてなかった(笑)。

sphereのアルバムタイトルに関して姫からメールをもらった。

いくつか姫が考えた候補の中から目を引いたNARCISSUS(ナルシサス)という言葉。
姫の注釈をそのまま載せると「自己愛を花言葉とするスイセンの花。エコーとナルキソスのギリシャ神話が由来。」とあった。

エコーは心の優しいニンフ(ギリシャ神話の精霊、妖精の一種)で、ゼウスの浮気相手となった山のニンフを妻ヘラに悟られないように長話をし続けかばった。このためヘラの怒りを買い、自ら話しかけることができないようにされた。ヘラはエコーにただ話しかけた人の最後のせりふだけ繰り返すことを許した。
エコーは美男でうぬぼれ屋のナルキッソスに恋したが、ナルキッソスの言葉を繰り返す以外何もできないエコーをナルキッソスは「退屈だ」として見捨てた。エコーは屈辱と恋の悲しみから次第に痩せ衰え、ついには肉体をなくして声だけの存在になった。
一方ナルキッソスは復讐の女神ナメシスによって愛を侮辱した罪を与えられた。ある日ナルキッソスが水面を見ると、中に美しい美少年がいた。もちろんそれはナルキッソス本人だった。ナルキッソスはひと目で恋に落ちた。そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなる。決して手に入れられない自分を恋し衰弱していくナルキッソスをエコーは怒りも記憶も消えていなかったのに、それでも大そう悲しんだ。哀れな少年が「ああ!」と嘆くたびに、彼女は、こだま返しに「ああ!」とくり返した。彼が手でみずからの腕を打ちたたくと、彼女も、同じ嘆きの響きを返した。なつかしい泉をのぞきこんでいるナルキッソスの最後の言葉はこうだった。「ああ、むなしい恋の相手だった少年よ!」すると、同じだけの言葉が、そこから返って来た。「さようなら!」というと、「さようなら!」とエコーも答えた。彼は、青草のうえにぐったりと頭を垂れた。
ナルキッソスが死んだあとそこには水仙の花が咲いていた。

ナルキッソスの最期に自分の心の声を発することができたエコーと死してスイセンの花となるナルキッソスが切ない。
なにか、ゆるぎないお題目(コンセプト)をいただいた。
アルバム・タイトルが決まった。
『Echo and Narcissus』

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