ある日のこと、登山道を歩いている時に、小さな脇道に、目がとまりました。

「こんなところに脇道あったっけ。この道は、どこにつながっているのだろう?」
と、とくに期待せずに入っていきました。
(こういうこと、よくやります)

草で道が消えかかっています。しばらく誰も通ってないのでしょう。

かきわけながら、
「なにやってるんだろうなぁ」と、なかばヤケになって進むと、ため池に出ました。

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ため池の上を、高速道路が横切っていました。

薄い板が、ドミノのように、均等にならんでいます。

風景に合っていて、感じが良いなと思いました。

はじめこれを、橋とは認識していませんでした。

ただ、高速道路がこんなところを通ってるんだ、と思っただけでした。


ちょうど、座りごこちのいい場所があったので、登山道はやめにして、ここにることにしました。


川と違って、流れがありませんから、こんな薄っぺらでも、大丈夫なのでしょう。

それに、道路をまたいだり、谷の上で山と山をつないだりする場合と違って、両はしで、マッチョな橋脚が、ふんばっている必要がありません。

ため池は、誰も来ないところで、ただ水をためているたけです。

橋の下を、何かが通るわけでも、有効に活用するわけでもありません。

そんなに深くもありません。

かといって、土を盛って、ただの道路にしてしまうことは、出来ません。

そういった、めずらしい条件のもとで、一番安上がりな、効率的な工法を追究した結果が、この形なのでしょう。


ちょっと待てよ!?

これって、ため池ならではのこと、なのでは?

ため池と高速道路道路との、森の中での、不意の出逢い!

この奇跡によって、世界一、シンプルでエレガントな、この橋がうまれたのだ!!

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以上です・・・


ここは、神社の下にある広場です。
職場から自転車で5分くらいのところにあります。

静かで、落ち着きます。

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広場で本を読む前に、まず、おまいりをします。

鳥居から入って、石段をのぼって、手をきよめて、鈴をならして、お賽銭を入れて、一番奥にいらっしゃる神様に向かって手を合わせます。


それから、一人の時は、くるっと、神社の裏側にまわります。


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ある時、
「ここは本来、存在しないはずの空間だ」ということに気づきました。

それをさかいに、この空間に対する感じ方が、くるっと、舞台が回転するように変わりました。


人は、神様に会うために、長い参道を歩いて、鳥居をくぐって、石段をのぼって、手をきよめて、ようやく、一番奥にいらっしゃ神様の前に立つことができます。

神様のいらっしゃるところは、参拝する時の意識としては、宇宙の果てのようなものなのだと思うのです。

そして、宇宙の果ての先に、なにも無いのと同様に、神様のいらっしゃるところの先には、なにも存在しないはずなのです。

だとしたら、ここは、どこなのでしょう?

神社の裏側は、本来、存在しないはずの空間だと思うのです。


ここに来ると、頭の中の思考まで、きよめられる気がします。



小屋にあこがれるのは、なぜでしょう?

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神様から、小屋か、海辺の豪華な別荘か、どちらかあげると言われたら、


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もちろん、豪華な方を選びます。

でも、そう言うんじゃないんですよね・・・

「お金じゃ買えないものがある」というか・・・

小屋も、お金を出せば、土地つきで買えるんでしょうけど、そう言うんじゃないんですよね・・・

子供のころの秘密基地の記憶?

もっと前のお母さんの、お腹の中?

もっともっと前の、遺伝子の中の、狩猟採集時代の記憶?

そう言うんでも、ない気がします・・・


学生の時に、近くに由緒ある茶室があって、よく見学させてもらってました。

非公開なのですが、学生証を見せて、茶室の勉強をしていると言えば、好きなだけ居て良かったのです。

2畳とか3畳とかの小さな空間でした。

寝ころがって、天井をぼーと見ていたのを、さっき思いだしました。

少し美化されてると思いますが、ほの暗い中で、池に反射した光が、障子を通って天井に映っていて、面白かったんだと思います。

あの時の感覚を再現してくれる小屋があったら、海辺の豪華な別荘を、辞退するかもしれません。

丁重に。


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