月別アーカイブ / 2015年10月

先ほど羽田空港に着きました!
 

無事に帰国です。
 

カトマンズについてから帰国まで現地の海外メディアからの取材や山岳関係者からの声がすごく、下りて来てからの疲れが全く取れないままの帰国でした。
 

ネパール山岳協会や沢山のメディアのから、「ありがとう」と本当にたくさん声をかけられました。
 

なぜかというとネパールは震災後、多くの外国人登山者がエベレストやヒマラヤは危なくて登れないというイメージがついてしまい、遠征隊が激減してしまい、その中でのエベレスト挑戦でした。
 

その意味では、ネパールに貢献できて良かったと思います。


「次は北側(中国側)です」と伝えたら、北側でも栗城を応援すると言ってくれました。
 

カトマンズについた日、お世話になっている花谷さん(ヒマラヤキャンプ)と谷口けいさん、これからヒマラヤ登山が始まる日本チームと合同で激励慰労会をやりました。
 

これから登り始める皆さんのご無事と、いい登山を祈ります。


それにしても僕、、

真っ黒です。。


皆さん、ありがとうございます!

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みなさん、更新が遅れてごめんなさい。2日前にネパールの首都カトマンズに下りてきました。

ベースキャンプに下山後、帰国する日が迫っており軽度の凍傷を抱えたまま歩いてルクラに向かいましたが、時間が経つにつれて足の指先が痛く、どのスタッフよりも遅くゆっくりと下りてきました。

悔しさとやりきった充実感と複雑な感情が残る今、いよいよ秋季エベレスト・ネパール側の挑戦をお話しをしたいと思います。

皆さん、応援ありがとうございます。



「世界へ」

10月2日、2度のアタック出発を迎える。

ベースキャンプから巨大なセラックとクレバスを超えて、標高6400mのキャンプ2へ向かった。

雪は思っていたよりも少ないが、1度目のアタックでは7900m近くまで向かい、下山後3日間の休養で再び全力でアタックしなければいけない。

疲労は完全に抜けているわけではないが、わずかな好天を求めて再び上へ向かっていく。

食料は軽量化のため1日インスタントラーメン1食分と、わずかなお汁粉があるだけ。

一回目のアタックで消耗した体に、食べるだけ食べて6400mに向かっていく。

1回目のアタックの時は、9月21日から23日にかけて雪が降り積もるホワイトアウトの中でキャンプ2に入った。

今年はネパール大地震の影響で登山隊は1隊もおらず、まるで目ない潜水艦のように濃いガスの中、ネプチェ側から落ちてくる雪崩に耳を傾けながら氷河の雪原を進んで行った。

新雪のない、快適なC2(6400m)に着く。

「やはり長いな」と改めてネパール側の距離の長さを感じていた。

中国側は6400mのアドバンスベースキャンプから登山開始だが、ネパール側は標高5300mからのスタート。

既に1100mの差がでている。この差の負担は大きい。しかし自分で選んだ道を引き返す訳にはいかない。

このネパール側のエベレストを独り占めできることはめったに無い。

テントの残骸が残るキャンプ2で、氷河の雪解け水をくみながら登頂の夢を見ていた。

10月3日、キャンプ2から標高7000mのキャンプ3へ向かう。ここからは、通常のルートから外れていく。

通常ルートではローツェフェースと呼ばれる、ローツェ(8516m)に向かっていくが、僕はサウスコル(7900m)と呼ばれるエベレストとローツェの間の場所に真っ直ぐダイレクトに入るルートを選んでいた。

以前ノーマルルートから登ったときに、イエローバンドと呼ばれる岩を超えてトラバースするところで、深い雪にハマりその雪に亀裂が入り、雪崩の危険性を感じてやめたことがある。

しかし、僕のとったルートは雪崩の危険性が少なく、しかもダイレクトに登れるという事はダイレクトに下がる事もできる。

エベレストは他の8000m峰と違い、登頂できても生きて帰れるか帰れないかの世界である。

無酸素でエベレストへチャレンジして、亡くなった人の割合はかなり高い。

どうやって生きて帰るのか、それを登りながら確保していかなければいけない。

7000m近くの大きな岩のテラスに再びテントを貼る。

夕暮れになると一気に気温が下がり、テント内がバリバリバリと凍っていく。

5300mのベースキャンプとは全く違う世界。

プモリ中継キャンプの仲間や、ドキュメンタリーの撮影班は一体何を食べているのだろうか。

まだベースへの未練を引きずっていた。

10月4日、テントからエベレストの上部を眺めると、ゴーっと凄まじい音が聞こえ雪煙が上がっているのが見えた。

「ついに始まった。」
ジェットストリームと言われる、秋のヒマラヤ特有の強烈な風が吹き始めた。

予報では5日がもっとも強く、8日には低気圧が近づいてくる。
お世話になっている山岳気象予報士さんから、今回の予報的には一言で言うと「あくまでもチャンスがあれば…。」

その一言で、どれだけ厳しいアタックなのか今まで経験して分かっていた。

ただ予報だけに頼るのではなく、風や雲の動きを見て判断したい。

この日、上部の風はますます強くなる傾向を感じ休養を決めた。

10月5日、強い風は標高8000mあたりだけではなく、僕のいる7000mのテントに吹き下ろしの形でやってきた。

ザーザーと津波のようにスノーシャワーが降り落ちてくる。

テントの中には風は入ってこない。

ただ、ザーと僕のテントのポールを「く」の字に曲げてくる。

嵐の大海原に、小舟で入っているかのようだった。

当然この風でフェイスを登れば、風で煽られスリップして滑落する。

この日の出発はやめたが、風がテントに当たり続けドンドンと小石や氷がテントに当たり、気がつけば僕のテントに小さな穴がいくつか空いていた。

僕の寝ているテントの右側は、岩の下で20mは落ちる。

そこに落ちれば6400mのキャンプ2付近まで滑落していくだろう。

テントを固定しているロープが気になり、外に出た瞬間。入り口側のロープが1本風で抜け、テントが浮かび上がった。

とっさにテントに体を半分入れて抑え込む。

目の前で信じられない事が起き、脈が一気に上がり、顔が青ざめる。

風が止む瞬間を待ち、再びロープを固定し直した。

このとき被っていたニット帽が風で飛ばされてしまった。

あのままテントが飛ばされていたら、高所靴も無線も飛ばされ、僕は降りられないまま不思議な形で氷の中から発見されていただろう。

10月6日、夜から風の気配に耳を傾け続け、あまり深く眠る事ができなかった。

だが徐々に風が弱くなるのを感じた。

朝一はまだ強かったが、日が当たる午前9時頃ようやく安定したので出発を決めた。

7600mに向かっていく長い道。雪は少ないが、所々ブルーアイス(硬く凍って青く光る氷)が見えた。

7500m以上からはペースが下がる。

ここからが本当の低酸素の世界に入っていくのが分かる。

ペースは下がるが、あえてペースを落とし脈を一定に保つ。

ここからは常時、脈が110以上になり、体を地上にいるときのように自由に動せない。

どんな時も静かな足取りで、静寂を保たなくてはいけない。

心の動きも同様。不安もストレスも高い感情も、ここでは全てを「空」にする。

そして体内にある潜在的なエネルギーを引き出し、カロリーでは絶対的に足りない不足分のエネルギーを内側から引き出す。

標高7600mのキャンプ4に着いたとき、デポ(荷物を埋める)しておいたリグと呼ぶ中継機材の一部を掘り出す。

僕の冒険には「冒険の共有」という、もう一つの大きな山があった。

今回は8750mの南峰からプモリ中継キャンプが見え始め、栗城の姿が見え始めた段階から中継機材のスイッチを入れ中継を行う予定だが、極寒の中、電池の消耗が激しい。

僕は常に中継機材を寝袋の中で温め続けていた。

通常ハイキャンプを作るなら、7900mのサウスコルに作るだろう。

それは春のエベレストであり、秋にこのサウスコルにどれだけの風が吹き付けるのか見ていた事がある。

2012年、西稜に挑戦しリッジに向かう時、一回目に見えていた雪が2回目上がった時雪煙とともに消えていたのを見たことがある。

その前後にローツェを登ろうとしていた登山隊のシェルパ二人が、サウスコルで風で吹かれ滑落したのを知っていた。

秋に僕の小さなテントをサウスコルに張るのは、ヒマラヤの風に乗っていくようなものだ。

僕は風の影響は少なく、また登頂後に低酸素の影響を軽減できる場所を考えて7600mに張ることにした。

10月の7日、最後の「ラ王」を食べた。

食事の中で、この「ラ王」がもっとも豪華な食事となる。

ガスは節約のため水を沸かすのではなく氷や雪を溶かすだけにしていたが、この日は温かい飲み物を口にするだけ口にしていた。

ベースキャンプでぬるくても味噌汁がどんなに美味しかったか、このテントの中で改めて当たり前と思っていた自分を反省していた。

アタックは、日が沈みかける夜19時に出発。

登頂は恐らくお昼前後となり7600mまでの下山を考えれば24時間以上の行動になるだろう。

長丁場にはなるが、それなりに耐えられる自信はあった。

体力面では十分い行ける。

それはベースキャンプを出てからずっと感じている事だった。

少ない食料でどれだけ動けるか、そして酸素を取り込みやすい身体をいかに作るのか。

トレーニングと食事制限や瞑想も取り入れながら、心も身体も無駄なエネルギーを使わないように集中してきた。

しかし、それは自分の努力だけではなく、多くの仲間や支援者が環境を作ってくれたのであった。

冒険の世界は登るだけではない。

資金作りから中継の準備など、マネージメントの力も必要となる。

その負担を多くの支援者と仲間が支えてくれた。

今では中継班も少数精鋭で最も集中しやすい環境ができている。

「今回は体調が良い」無線でプモリ中継キャンプの仲間に伝えていた。

あとは、ここから先にある深くて硬い雪と強い風。

不安よりもついに向かい合うというワクワク感が勝っていた。

夜7時、強風に備えてテントを畳む事を考えていたがそのまま残し、真っ暗なサウスコルに向かっていく。

無線は電池の消耗を考えて定時更新なしと決め、余裕がある時だ現状を伝える事にした。

極寒の中のラッセル。

寒いのはわかっているので気にはならない。

呼吸を整え、一歩、また一歩と踏み出していく。

サウスコルは思っていたよりも距離があり、長く感じていた。
そして、ゴーという風の音が近づき始めているのが聞こえていた。

サウスコルには相当な風が吹いているのがわかっていた。

ラッセルを続け、徐々に平坦になっていく。

ゴロゴロとした岩や石が現れ始め、広い場所に出る。

ここがサウスコル(7900m)。

着いて余韻に浸っている暇はなく、風が当たらない岩陰にしゃがみ隠れた。

遠くにはマカルー(8463m)が見える。

5分間の浅い休憩だけを取り、いよいよここから先が8000mの世界。

他の山ならこの前後の標高がゴールになるが、ここから先にもう一つの山が続いていく。

とてつもない高さを改めて思い知った。

酸素ボンベがあれば、この標高はなんとも思わないのかもしれない。

無酸素はこの「高さ(低酸素)」をまともにくらう。

僕は一本の糸が切れないように呼吸に意識を持ち続けた。

ところどころにブルーアイスと呼ばれる、コンクリートのような硬い氷が覆っているのが見えた。

そのブルーアイスを避けながら、テングラルフェイスに向かっていく。

傾斜が強くなるとともに、それ以上に雪が僕の足にまとわりつき一歩一歩を塞いでいく。

雪といっても日本のように柔らかい雪ではない。

外は氷のように硬く、しかし体重をかけるとバリッと割れて2-3mの亀裂が入り、中はさらっと乾いた砂のような雪で身体ごと引きずり込まれ、まるで砂時計の中にいるようだった。

秋は数々の登山隊が、この雪と風に下山を余儀なくされた。今は、僕一人だけ。

こちらもそう簡単には引き下がらない。

斜面を叩き割り、氷の砂をかき分けて進んで行った。

リズムはまだ乱れてはいなかった。

ただ、どんなに進んだつもりでも、思っていたより進めていなかった。

この雪の状態が続き、そして夕方には風はさらに強くなる。
上を見上げると星々がまるで電球を着いたり消したりするかのように光っている。

そこに一本の白い道が上に続いていた。

午前3時、もうこれ以上、雪をかき分けて進んでも帰りの時間を考えれば二度と帰れなくなることはわかっていた。

どんなに最強と呼ばれる人間でも「帰れない」それを分かっていながら行く人がいるだろうか?僕は戦争に来たわけではない。僕は山を登りに来たのだ。

山は登ってダメなら引き返し、また登るもの。

おそらくこれ以上進む者は誰もいない。

「もう、もう十分です。」

最後に無線で、僕はそう伝えていたらしい。

ここが生と死の境界線ギリギリまでやってきた。

下山は悔しいが、悔やんでいる状況ではなかった。

風が強くなり始めていた。

サウスコルに再び近づき始めると、風はさらに強くなり、まるでマシンガンに打たれるように立っていられなかった。

対風姿勢をとるがとても通じるような風ではなく、あまりの強さに頭一つ分の石にしがみついた。

顔を上げればヘッドランプも頭にかぶっていた頭に被ったバフも吹き飛ばされる。

顔をできるだけ地面につけて風が弱まるのを待った。

片目を開けると、近くに硬いあのブルーアイスが見える。

もしあの上でこの風に当たっていたら、今は東の彼方に消えていただろう。

テントがある7600mの南西の方向に足を向け、はいつくばるように下りていく。

ここにテントを張っていたら、完璧に僕もテントもいなくなっていただろう。

サウスコルから徐々に降りていき、標高を下げるたびに風が弱くなり始めた。

真っ暗な闇の山々に太陽が出始め、ようやく周りが白く明るくなり始めていた。

あの風の強さでは、7600mでもそれなりに強風であることは間違いない。

もうテントは吹き飛ばされているかもしれない。

だとすればガスもわずかな食料もなく、ベースキャンプまで夜通し歩き続けなければいけない。

傾斜が強くなると、オレンジ色のテントが見えた。

テントが見えた時、一気に身体の力が抜け、腰が落ちた。

下山開始から、水分補給はほとんどできていない。

ダウンの内ポケットに入れて温めていたジュースも、すでにシャーベット状になっていた。

テントの中にアイゼンを履いたまま潜り込む。

冷え切った身体をガスで温めたくても、しばらく動く気にならなかった。

そのまま眠りにつきたかった。

頭の中でふと2008年に見た短編山岳ドキュメンタリーを思い出した。

それはまるで僕と同じようにアメリカ人医師が秋季エベレストに5度目の挑戦したものだった。

エベレスト上部でアメリカ人ガイドが引き返そうと言う。

ベースキャンプで待つ奥さんが無線で「帰ってきて」と言い続けるが、山岳ガイドの制止を振り切り、その医師は頂上に向かっていった。

夕日を背に、頂に向かっていく姿があった。そして医師は帰ってこなかった。

それを観たとき、そこには感動ではなく、無機質な空気が広がっていた。

もしかしたら自分も同じような空気をつくっていたかもしれない。

なぜその短編ドキュメンタリー映画を思い出したのか?

もしかしたら、もう一人の自分が自分に「生きて帰ろう」というメッセージを送ろうとしたのかもしれない。

日が差し込み、テントの中が温まる。

そこで足が凍傷になっているのはわかっていた。

いつもと変わらぬ明るい太陽。

とても嵐のような風に当たっていたとは知らなかったような太陽であった。

時間をかけてテントを畳み、キャンプ2に向かって下山していく。
本当はキャンプ2で一泊し、翌日ベースキャンプに戻るのが通常だが、ベースキャンプまで僕は下りたかった。

陽が沈み、真っ暗なセラック地帯を降りていく。

体力的にすでに限界ギリギリなのか、めまいと吐き気が何度も襲ってくる。

しかし、なぜか巨大なセラック地帯の中は温かく、真っ暗なクレバスの怖さをまったく感じず、まるで暖かい雪原の中を歩いているようだった。

夜11時過ぎ、5300mのベースキャンプにたどり着いた。

出迎えてくれた日本人スタッフは、皆カメラを回しており誰も声をかけてくれない。

僕も何かを言葉に出せる余裕はまったくなかった。

暗闇の中、みんなの顔が見えたとき涙を堪えることができなかった。

最後の祈りを捧げるためプジャ塔に向かう時、コックのアムリットさんが抱きついてきた。

いつもひょうきんな彼が泣いている。

彼が泣いていたのは、栗城が登れなくて悔しかったのではなく、もう栗城は帰ってこれないだろうと思っていたらしい。

ネパール人スタッフ、皆そうであった。

僕は心配をかけて申し訳ない気持ちと、全てを出し切った開放感が絡みあっていた。

キッチンに入り温め続けてくれていたカレーライスを口にする。
登頂した時の喜びは格別かもしれない。

でも、何気ない温かいカレーを食べられる日常が、格別な登頂と同じくらいの幸せを感じていた。

ネパール首都、カトマンズ。

帰国の日が迫っており、ベースキャンプでのわずかな休養のみでルクラに向かって歩いて行ったが、足の凍傷が痛くて歩くのに時間がかかった。

カトマンズに着いたその日。

お世話になっている山の先輩が、若手を引き連れてヒマラヤ登山に向かうためカトマンズにいた。

当然、この冒険も先輩は見ていて心配してくれていた。

「いい登山だったね。」と、僕の背中に手を当ててくれた。

確かに登頂はできなかった。その悔しさは、そう簡単には消えない。

しかし、あれ以上進んでいれば帰ってくることはできなかったことが明らかで、その中で生と死の境、ギリギリのところを登り生きて帰ってきたこと、風を読み、少ない食料と燃料で動き続けられたこと、結果は厳しいかもしれないがあの風の中で「8150m」まで行けたこと、確かに「いい登山」だった。

「でもネパール側と聞いた時、難しいなと思ったよ。」

先輩はネパール側の登山となった時、難しいというのは知っていた。

日本で準備進めている時に「許可はネパール側のみです」と聞いた時、かなり厳しいというのは自分でもわかっていた。

秋季エベレストを本当にソロで登ることを考えれば、ルートの長さ、効率を考えると確実に北側(中国側)になる。

中国側のアドバンスベースキャンプは、標高6400mからスタート。

ネパール側と比べるとすでに1100mの差があり、また危険なセラック地帯もない。

中国側はラインホルト・メスナー氏が1980年に北側の単独・無酸素の登頂を成功させた。

しかし、ネパール側の秋には誰もいなかった。

僕は今年、中国側の登山申請をしていた。

しかし、震災の影響で中国側の8000m峰の登山許可はすべて出ることはなかった。

ネパールのエージェントから、ネパール側のみと聞いた時、辞めることも検討していた。

しかし、僕は行くことを決めた。

このエベレストに来る前、震災支援でネパールに来ていた。

観光客が激減し、遠征の仕事がないシェルパが多くいることを知っていた。

彼らのために、何かできないかということを考えていた。

だが、冒険に私情は禁物。

僕はこのネパール側のエベレストがやはり好きだったのかもしれない。

ネパール側のエベレストは、北側にはない緑と何よりも自由な空気があった。

そして子供の頃から見続けたエベレストの形はこのネパール側のエベレストであった。

誰もいない美しいネパール側のエベレストと向き合えたのは本当に夢のような時間だった。

日本を出発する前、僕が師と仰ぐ先生に挨拶に行った。

その方は、学生の頃に年間100日以上、山を登り、また戦争も体験してきた方。

挨拶をしようとした時、僕に開口一番、こう言ってくれた。

「必ず登頂する、という欲望に打ち勝てよ。」

もうすでに知っていたのかもしれない。

挑戦には成功もあれば、失敗もある。

しかし、今まで挑戦をしてきて思ったことは、成功や失敗を超えた世界があるということ。

それは「学び」と「成長」、何よりも人との「繋がり」であった。

挑戦することで多くの人と繋がり、山を知り、そして自分を知ること。

この冒険を支えてくれた全ての人達に本当に感謝です。

そしてこれからも真っ黒く日焼けしボロボロになりながらも、成功と失敗の先にある世界に向かっていきます。

成功と失敗を超えた世界へ



~~~
収穫とお詫び~~~


今ままで8000mでのラッセルは一歩踏み出すのに5回~6回の深呼吸が必要でしたが、2回~3回の深呼吸で一歩踏み出せるようになり、一日一食分の食料で動き続けたこと、日本で高所順応のしやすい身体を作れたことなど、確実に成長を感じ次に繋がる登山でした。

ただ残念だったのは、「冒険の共有」生中継が今までの遠征の中で最もできませんでした。

元々、中継は栗城がエベレストの南峰(8700m)まで登り、プモリ中継キャンプからの見通しが確保できて初めて中継ができます。

しかし今回はそこまで登れず、中継を楽しみに思っていた方に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

そして今ままで繋がっていたベースキャンプからの衛星通信が、今年は全く繋がりませんでした。

このためにインタラクティブなやり取りができませんでした。

原因は、使用していた衛星の位置が微妙に変わったこと、通信機材が最新の物で、ある程度衛星との指向性が合わないと通信ができないことが分かりました。

それでも編集の林さんが、一人プモリ中継キャンプ(そこでは通信可能)に留まり、穴を空けないよう配信をしてくれました。

僕は全く情報が取れませんでしたが、福山雅治さんの結婚ニュースだけは知りました。

冒険にトラブルは付き物ですが、これを活かして次も頑張ります。

皆さん、ごめんなさい。そして、応援ありがとうございました。

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10月7日夜の、最後のアタックの映像です。

強風で余裕がなくてあまり映像が撮れませんでしたが、標高8150mまでの映像です。

進み続けたら生きて帰ることが難しいという状況の中、下山を判断してベースキャンプまで戻ってきた様子です。

映像を通じて、1%でも秋の気象条件の厳しいエベレストの中で「生きる」を共有できればと思います。

 

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