腰近くある深い雪に四つん這いになり雪まれにながら、手足を繰り出していく。 両手を深く雪に刺し、膝を高く上げる。雪を削り、ようやく一歩を踏み出すと脈が一気に高くなる。今度は呼吸がその脈を抑え、収まるころに再び両手を雪に刺す。星々が見えるが星を見ている暇はない。ただ、寒く、そして深く。両手、両足の指を動かし続けた。
「手伝ってやろうか」
「手伝えるわけないだろ」
「見ているだけだからね」
「いつまで続ける気だ?」
静寂に包まれると心の中のもう一人の自分が話しけてる。
様々な心の声をかき消すかのように僕は四つん這いになったまま。雪の大海原を突き進む。
9月4日、中継を支えてくれるスタッフより早めに標高5560mのアドバンス・ベースキャンプ(ABC)に入る。できるだけ早くエベレスト北壁に近づき、雪の状態を確認したかった。前日に標高5150mのチベットベースキャンプについた時にスパッツ一枚でベースキャンプをランニングしているヨーロッパ隊に出会った。
「雪が多くて、ABC(ノーマルルートの6400mのベースキャンプ)までヤクが上がれなかった。その後、向かったけど、雪が腰まであって7600mで一度止めたよ」
僕よりも身長が2倍近くありそうなヨーロッパ隊の腰を見た時に、雪が僕の胸近くまであることを想像した。
北壁側のABCについた僕はエベレストの北壁を双眼鏡で眺め続ける。
本来なら山全体にもう少し岩が出て黒々としているはずだが、7000m以上ではどっしりと雪のが張り付いていた。ここが標高が低ければ最高の山スキーができるかもしれない。しかし、重力に逆らう行為をするにはこのもっこりとした雪は味方にならない。
「雪が無くなるのに時間がかかるな。。」
アドバンス・ベースキャンプについて、雪を利用できそうなルートを模索した。
元々は北壁左側のグレート・クロワールを計画していたが、雪崩が多く、降っては止み降っては止みを繰り返す今の周期では危険と判断。雪崩が無いホーンバイン・クロワール(別名ジャパニーズ・クロワール)を目指すことにした。
クロワール(岩の溝)は傾斜が60度ほどあり、真っ直ぐに山頂に向かっている。
壁の取り付きから山頂まで距離が短い、もちろん滑落したら真下まで落ちるが、今の深い雪だからこそ氷や岩が張り出している時より登りやすくなる。
これはある意味チャンスかもしれないと双眼鏡から眺め続けた。しかし、問題は中腹部だった。7000mから8000m近くの少し傾斜が弱くなる雪田の雪が深そうだった。
ヨーロッパ隊が7600mで一度止めたあの雪が白く厚化粧して僕を待っていた。
降っては止み、降っては止む。この雪はヒマラヤの夏に特有の気候モンスーン(雨季)がまだ続いていた。
ヒマラヤはよく冬が一番雪が多いと思われているが、一番多いのは夏の雨季となり6000m以上では雨ではなく、雪が降り続ける。9月に入ればモンスーンが無くなるが今年はまだモンスーンが居座っていた。
僕が尊敬する山の先輩たちで本当に経験を積み、直感力の優れている人で、「今回は山と合わない」と言いベースキャンプで下山を判断する人がいる。それはヒマラヤにおける経験と自分がよく見えているからこそできる判断。
「そうは言っても、行ってみなければ分からないじゃないか」と言いたくなるが、頭の中では、この雪が今後何をもたらすか、ある程度分かっていた。
どんな条件でも前向きに一本繰り出したい。
9月15日、雪と晴れの合間を取り、一度ホーンバイン・クロワールに取り付つくが、体調不良で下りる。少し身体を休ませてから降り積もった下部の雪を避けるためにグレート・クロワールより一本左のクロワールを登るが、雪の下にあるブルーアイスが顔を出し、雪ごと僕を落とそうとする。ピッケルを何度も刺す。
雪はまだ安定してなかった。。
僕は温かい食事があるアドバンス・ベースキャンプに戻らず、キャンプ1にとどまり北壁を眺め続けた。アドバンス・ベースキャンプからでは見えない部分を眺め、この北壁全体の中で、ソロで登れる場所を探し好天のチャンスを待っていた。しかし、どこを見ても深い雪は変わらない。ある時にローラフェイスの北斜面と東側のクロワールが同時に巨大な雪崩となり落ちた。
あまりにも凄まじい音にテントを出る。僕のテントも撮影キャンプの方も無事だった。
この雪の中で最終的に出した考えは、ホーンバイン・クロワールをまっすぐに登ることだった。正面切ってこの深い雪と対峙する。ただでさえ、巨大なホーンバイン・クロワールの威圧感は常に消えることはなかった。
そこに立ち向かうのではなく、呼吸を整えながら溶け込んでいきたい。
「大きな雪崩は無さそうだ」
10月5日、8時21分に取り付きをスタート。
ホーンバイン・クロワールをまっすぐに登っていく。寝袋なし、テントなし(ツェルトのみ)食料はラ王1個分と、江崎グリコさんに作ってもらったアミノ酸たっぷりの特製ナンバーバナナとサプリメント、凍傷を予防する薬、衣類と少量のガスと鍋のみ。30リッターのザックにすっぽりと収まり、それ以上のものは置いていくことにした。本当はSPOTというGPSも持って行きたかったが、使用限界高度が7500mまでで、昨年ネパール側で使用した時に突然位置が大幅にずれ、栗城が滑落したのではという問い合わせが来ていた。またその重さの分持っていくなら少しでも食料を増やしたかった。
この深い雪のホーンバイン・クロワールを登りきるには、できるだけ軽量化するしかない。もちろん寝袋やテントがあったほうが暖かいのは重々承知だが、傾斜60度ある壁を登りきるためには、他に方法はなかった。
ホーンバイン・クロワールを無事に登りきり、少しトラバースして6800mのリッジの上を体一つ分、平らにしストックでツェルトをはる。中腹部7000mを見上げる。
ホーンバイン・クロワールの下部は特に難しいところはなく、問題はここから先の傾斜の強い雪田を、どう乗り越えるかだった。
ツェルトの中で一夜を過ごす。今回、寝袋はなしの代わりに、シルクの布とゴミ袋を高所ダウンの上からかぶり、横になる。寝袋はなしでも高所ダウンは、僕の体を守ってくれる。そこに気休めのゴミ袋で冷たい空気が入るのをなるべく防いでみるが、寝心地は「寒すぎる!」
さらに夜は一晩中、強風がツェルトを叩き続け、いつ飛ばされてもおかしくない。今の僕は、まさに『ドラえもん』の、しずかちゃんの入浴シーンだった。ツェルトが吹き飛ばされたら、「キャー」と叫ぶしかできない。無事に一夜を過ごし、翌日、体内酸素飽和度を計る。数値は81以上と高く、頭痛もなければ吐き気もなく、呼吸も安定してるため、十分無酸素で山頂に向かうことができる体はできていた。
この一年間、「リズム」と呼ぶ、高所に順応しやすい体作りを続けてきて、その効果が実感できたことがうれしかった。
10月6日、21時半、6800mのビバーク地を出発する。持っているものは水と行動食のみ。ガスも全てここに置いていくことにした。本来であれば7500m以上のところに、もう一度ビバークをする予定だったが、悪天候が近づいていること、そして何よりも深い雪を乗り越えていくためには、なるべく荷物をなくして、軽くして向かっていかなればならない。
途中、7500m以上のところで雪を掘り、そこで1時間以上の休憩をし、あとはぶっ続けで山頂に向かっていく計画だ。時おり、撮影キャンプからヘッドランプの明かりが見えていた。
僕の登山はただ登ることだけが、僕の冒険ではない。冒険の共有という、何かに向かっている人や、壁に当たり苦しんでいる人たちの支えになり、この世の中に漂う否定という壁を少しでも無くすために失敗も挫折も全て共有するネット配信の準備をしてきた。
撮影キャンプでは、山頂に着く3時間前から中継が始まる。日本とも何度もやり取りをしながらテストを繰り返し、準備を整えてきた。
ただし、今年は体調不良のスタッフが続出し、1人は帰国、1人は最初から最後まで不調だった。それでも中継班は今寝ないで待っている。
両手を雪に深く突っ込み、雪をかき分け、膝を高く上げて雪を取り崩す。そしてようやく、一歩を踏み出し、また両手を雪を深く突っ込み、雪をかき分け、心の声が何度もこだまする。
午前2時過ぎ、すでに標高は7400mを超えていた。星々が見えるが、辺り一面は真っ暗で、この暗闇の中の雪田がまるで砂漠のように、どこまでも広がっているように見えた。あのヨーロッパ隊のように、屈強な隊員同士がラッセル(雪をかき分けて進む)を交代し合えば、この深い雪も超えられたかもしれない。だが、この僕にラッセルを交代し合う仲間はいなく、心の声が時には励まし、時には挑発をし、僕に問いかけをしてくる。
僕は腰を下ろし、深く息をした。この深い雪の中、力の限り登っていったとしても、山頂にたどり着くことはできない。ここでビバークすることも考えたが、8日にはまた雪が降り出してくる。登り切るなら今しない。しかしこの雪はすでに、一つの厚い壁となっていた。
午前3時、無線で撮影キャンプに下山を伝える。撮影キャンプのカメラマンは冷静な声だった。その後、僕は深い雪に腰を沈め、陽が昇るのを待ちつづけた。体を考えれば、自分の登ってきた足跡をたどれば、すぐに下山はできる。
ただ僕は、陽に当たる北壁全体を見渡すために、陽を待ち続けた。光が北壁に当たれば、どこが一番雪が深く、どこが浅いのか点と点を結びたかった。つまり、もう一度上がるために僕はそこに3時間以上、そこにとどまった。
下山後、思っていた以上に体力を使い、僕はアドバンス・ベースキャンプには戻らず、キャンプ1で温かいスープを飲み、翌日にアドバンス・ベースキャンプに戻った。
ベースキャンプに戻ってから休養をし、次のアタックに備える。これからこの雪は秋の強風で少しでも飛ばされれば、チャンスはまだある。すでにホーンバイン・クロワール中腹部までは問題なく登ることができる。あともう少し、10センチ、いや5センチでも雪が少なくなれば、登頂の可能性がまだある。
10月10日の夕方、僕はキッチンテントの隅で、うなだれながら泣いていた。2つも同時にこの遠征をすでに中止しなければならない連絡が日本から来ていた。一つ目はチベット登山協会からの登山許可の延長を求めていたが、延ばしてくれたのは3日のみで、18日まではどの登山隊もラサをでなければならないという連絡。
もう一つはヤマテンの週間予報が8日からの悪天候は全てジェットストリームに変わり、8000m以上の風速は27mと強風で、行動は難しいという予報だった。つまり17日までの間、全て強風で上部での行動は不可能ということだった。6000m、7000mまでは問題なく行動できる。
しかし、肝心な8000m以上での山頂アタックができるチャンスがどこも見当たらなかった。あまりにも早すぎるジェットストリームの訪れだった。昔はモンスーンの後はポスト・モンスーンと呼ばれ、ジェットストリームが来る前に好天が続き、登頂する登山隊もいた。
しかしここ数年、気候変動の影響で、モンスーンが明けた瞬間に、すぐにジェットストリームが来るという、とても人間が太刀打ちできない悪天候の条件が重なり合っていた。僕はその予報を見て、この風の中、突っ込んでいくしかないのかと、キッチンテントの隅で泣いていた。その様子をカメラマンの魚住さんが、ちゃっかりと隅から撮影をしている。ベースキャンプに長くいると、お互いの気持ちが通じ合いやすく、すでに知っていたのかもしれない。
風速27m以上の風を一度エベレストで体感したことがある。それは2012年のエベレスト西稜、上部8000m近くホーンバイン・クロワール入り口付近のことだった。風は横だけではなく、上下左右と複雑な動きを見せ、一つの塊のようになって襲ってきた。身動きが取れなく、時間をかけながら風の合間を縫って下山をするが、すでに両手両足と鼻が重度の凍傷になり、結果、9本の指を失うことになった。
このままいけば次こそは指じゃない、もっと大切なものを失う。キッチンにいるスタッフにここで止めることを伝えた。
しかし今、長くモンスーンが居座っていたせいか、予報と実際の天気にズレがあることがあり、13日は多少弱くなるかもしれないという、予報もあった。そこを最後のチャンスと捉え、たった2日の休養のみで、翌日僕は再びC1に向かっていった。
11日、風は弱くなる気配は見えなかった。そして最後のチャンスとなる12日の朝、衛星電話で予報を聞くと、すでに風速は27mに達していた。テントから北壁を眺める。山頂直下では、強風が雪をはけのけ、帯を引いた雲のように雪が舞っていた。7000m以上でも巨大な雪煙が右へ左へと揺れながら、大きく舞い上がり消えていく。この風の中、向かっていくことは明らかにできない。
最後の最後のギリギリまでこのC1にとどまり、エベレストの北壁と向き合ったが、最後のアタックのチャンスが訪れることはなかった。あと1週間ほど待つことができれば、この深い雪は風で無くなり、チャンスが訪れていたかもしれない。時の運も含めて「冒険」である。この結果、試練をしっかりと受け止めてたい。アドバンス・ベースキャンプに戻ってもまだ頭の中は登っていた。「あともう少しだから」と言いながら、あの白い大海原を進んでいた。
※今、僕は明日出国しなければいけないため、急いでラサに来ました。いつも標高の高いところから下りてくると、夜は寝れなくなり、ベッドよりもまだベースキャンプの寝袋の中の方が居心地がいいです。
今回、相手は「山」ではなく「モンスーン(雨季)」と「ジェットストリーム(偏西風)」でした。昔のポスト・モンスーンの周期とは違い、あまりにもモンスーンからのジェットストリームが早すぎる感じがしています。相手は天候とはいえ、今回の結果には自分自身、本当にショックで、また責任も感じています。冒険の共有ではスタッフの体調不良が続出し、思うような配信もできなかった歯がゆさも残っています。今後、栗城がどうするのか? 自分の中では再び向かうという答えが出ています。しかし、再び秋季エベレストが今年のような大雪で覆われれば、厳しい結果になるでしょう。それらを踏まえて、向かう時期の変更も考えています。もし向かうとするならば、一番雪の少ない「冬季」です。冬は最も寒く、気圧が低いため、実際の標高よりも酸素が薄くなります。ただ、秋からの強風で雪が吹き飛ばされ、最も雪が少ない時期になります。その冬季に行くか、再び秋季に向かい、安定した雪を待つか、2つの選択がありますが、今後、慎重に考えながら決めていきたいと思います。
また、今年は冒険の共有のクライマックスである山頂到着3時間前から栗城カメラと、撮影キャンプからの中継が行われ、AbemaTVや、様々なネット配信が企画されていました。登頂できないということは、その配信もなく、多くの人に応援していただいたことに本当に申し訳なく思っています。この悔しさを忘れず、また応援してくれた沢山の人たちの気持ちを大切にしながら、その応援を引き続き次回につなげていきます。つまり次回は新たなクラウドファンディングは行わず、自己資金(借り入れ)してでも冒険の共有を実現したいと思います。今回、3時間の中継通信費以外は全て諸々の費用に支払われますが、その分の資金を借り入れしてでもやります。
父はよく「宿題があった方が人生は楽しいぞ。宿題がなくなったら終わりだよ」と言います。そんな巨大な宿題を与えてくれた秋季エベレストと、多くの応援者に心から感謝です。本当にありがとうございます。ちなみに今夜、チベット登山協会の人たちと、冬季エベレストの許可について話し合いが行われます。一旦、日本に帰り休養してから、また戻ってきます。
まだ冒険は続いてます。もう一人の自分がまだ白い大海原を登っているなら僕もまだやれるということです。
※写真2:登った軌跡を見上げながらホーンバインの下部を下山する


※写真3:ホーバイン・クロワール下部を眺める

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必ず帰って来ましょう。
その時はまたご一緒させて下さい。
とりあえず生きて帰って来れたのは良い事です。ですが、荷物を軽量化させたいが為にツェルトや防寒具といったのを持たずに登るって、山を舐めてると思います。本当に死にますよ。もう少し考えましょう。既にエベレストに登頂した人等からアドバイス貰いましょう!もう、同じ事の繰り返しは辞めましょう。
すみません、ここからは余計なお節介になるかも知れませんが...。
借り入れは無担保というわけではない気がしますので、ここは講演会や書籍等で資金を集め、じっくり登頂のタイミングを狙ってもいいのではと思います。
今回の話、また講演会で聞きたいです。
これからも応援しています。
本当にお疲れ様でした!!
高い壁の方が登ったとき気持ちいいもんだ。とミスチルも歌ってますし(笑)
焦る必要はないです。またその時がきたら挑戦して下さい。
本当にお疲れ様でした。
早くゆっくり休めますように
あまりの臨場感に草生えちゃいました。
生きてこそです。
来年頑張りましょう!
ホントに、ホントにお疲れ様でした〜
挑戦は続く、必ずその時は来ると信じてます。
勇気ある撤退と、心から隊長に拍手を送ります。
まずは身体を休めて、栄養のある美味しいものを食べて元気出して下さい。
まだ、登らせてもらえなかっだけだよ。
生きて帰れたんだからまだ大丈夫。天気は仕方が無い。
まぁ、文句を言う人はいるし、文句を言う方にも正義はあるよね。
いろんな事を抱えても潰れないあなたは素晴らしいよ。
その事が素晴らしいんだよ。大丈夫。あなたが無事でいるうちは応援するって人、結構いるはずだから。映画も無理すること無いよ。20年がかかりで作りあげればいいじゃないか。
何しろ、死なないで、勇気を持って決断して、生きて戻って来た判断は素晴らしいよ。
次は冬がいいかもね。冬に酸素ありで登ってみたら?充分偉業だと思うけど。成功したら、次は冬の酸素無し。また成功したら、秋の酸素無し。1度成功したら次々にやれそうだよね!楽しみにしてるよ!
やはり今後も応援を続けることを決めました。
次こそは頼むぞ!
否定の壁をよじ登ってでも越えてくれ‼️
こんな大きなことに挑戦できる栗城さんが羨ましいです。
命があれば何回でも挑戦できますね。
さぁ。私も愉しく生きよう。
これからも応援するからこそ言わせてもらいます
正直エベレストの頂点にこだわりすぎて
何と戦ってんですか?
みんなも挑戦しよって気持ちもすごく伝わっていつも力を貰ってます
だけど、クリアできなかったって報告は
寂しいです!
みんなに笑って伝えるのが本来の登山のあり方だと思います!
躍起になるより自分らしい登山をして欲しいとちょっと思います!
仕事だから仕方ないと思いますが自分を見失わないでください、、、
自分との戦い、、、
未知の世界の感動、、、
生きて帰れた事への感謝、、、
登頂したからこその高揚感、、、
本当の登山はもっと楽しくあるべきだと思います
栗城さんが楽しかった報告を待ってる人は自分だけじゃないと思います!(^O^)
無理しないで山を楽しみましょー
まずは、しっかりと体と心を休めて、次の一歩に向けて整えてください。
今回もとても楽しませて貰いました。
有難うございます。
次は「報告」をお願いします。
今回は軽量化のためSP◯Tを持たずに行動されたとのことで、
栗城さんがどのようなルートを通ったのかよく分かりません。
以前計画段階でC3、C4、そして登頂までの予定ルートを発表されていましたが、
それと同じような形で「実際のルート」を描いていただきたいと思います。
栗城さんが3時間待機して夜明けを待っていた場所は、特に興味があります。
よろしくお願いします。
天候のために、登頂をあきらめること、本当に悔しかったと思います。
でも、元気に生きていなければ、てっぺんに登ることはできないから、達成するためには、引き返すことも重要ですよね。
だから、無事で戻って来てくれて良かったです。チャンスはまだまだあります。身体を大切に、いつか必ずエベレスト無酸素登頂達成することを、応援し続けます。
ゆっくり休んでください。
冒険の共有の革新的部分ですので知りたいです。
ブログありがとうございました。読んでいてゾクゾクしました。今は心も身体も楽にしてまた次に備えてください。
応援しています!楽しみにしています!!
ジェットストリームですべてが吹き飛ばされてしまえば
岩壁とブルーアイスが露出して登りやすくなりますものね
久々に栗城さんのクライミング技術の見せ所となりますよ
冬季挑戦、本当に楽しみですw
もしくは今冬の劔で訓練するとか。
アイスクライミングはプロでも最高の登山技術が求められます。
隊長の身が心配です。
それはもうポイミーですらあります
アルパインポイミングが主流ですね
①7,950mが最高到達高度で7600mではありません
あと、
②下山時の風速は25mですか?27m/秒ですか?単位は時間まで正確に書きましょう。あと27m/秒≒97km/時となり、当時の該当標高の数値よりちょっと大きいみたいです。
③ザックは25Lですか?30Lですか?
最後に、
キリアンの身長は171cmですので、栗城さんの162cm(グリコのHPより)からから見て倍の身長がありそうというのはちょっと大げさな気がします。
来年こそは否定の壁やら数値の壁やら乗り越えてぜひとも厳冬期登頂果たして下さい!
厳しい状況の中、栗城さんの戦ってる姿が欲しかっです。共有?って、
この程度の事だったんでしたね。
「登れなかったのは、自分の体力、技術、準備、それら全てが足りなかったからです」となぜ素直に言えないのか。
ホンネのところでは単純に「悔しい」という気持ちでしょうが
ガックリきたのは私たち栗城応援団も一緒です
かなり今回は行けるんじゃないかと思ってましたから。。
またきもち入れかえてガンバリマショ!
ナマステ!
まさに挑戦って感じでした。
得も言われぬ感動にうち震えました。
ハートの強い隊長ですから
アンチの言うことなんか
本当に聞くことありません。
感動をありがとう!
さすがプロの登山家。
自ら報道に出ない控えめなところもやっぱりカッコいいですね。
まぁ、隊長のエベレストと比べちゃいけないですけど、今度は隊長の番です!
やめろ、ばか。本当に死ぬぞ。
自分たけじゃなく、まわりのスタッフまで危険にさらすんだぞ。今回もカッコもつけれてないんだから、いちいちカッコつけるな。
やるなら、1人で旅立て。そのほうがはるかにカッコいいぜ!
栗城さんの言う通り、その判断を尊重します。。
その場にいなかった者の意見なんて気にすることない。真実は神のみぞ知るだ
今回は、その神が振り向いてくれなかったが、次回はきっと正しい審判を下してくれるだろう。
山の神は、正しいものだけに見方するから
正しくない者は、例え6回挑んだとしても登頂できない。
なるほど同感です。
生きて帰ってきてくれたことに感謝です。
まさに自然との向き合いですね。
どれほどのものなのか・・・
ほとんどの人には想像ができないほど過酷な自然と向き合っているのだと、栗城さんを通じて感じます。。。それと負けないくらい、地上でも大変なのだと思います。
山と向き合いつつ、周りのことにも注意しなければいけなくて。。。
栗城さんの姿に勇気をもらっています。
応援しています!
自分の体力や技術や準備登る意志には問題は無かったと思ってますか?
そういったメッmのきちんと書いて欲しいですね。これだけでは切り詰めた装備とか
そういったドタバタの説明になってないんじゃないかな?
前にコメントされていたとおり、次回は山の神を味方につけ是非とも成功してください
私もあなたの揚げ足ばかりとってますが、ほんとはすごいファンなんです。
正直羨ましいのです。
頑張ってください。賞賛は惜しみません
ないならば、さっさとやめるべき!
要は、情熱だよ。金恵んで貰って、
結果ダメだったけど、それでもイイんだよ。彼は、実践は新人のプロレスラーと同じなんだから。今はイイんだ。これから化けるよ。