みなさん、更新が遅れてごめんなさい。2日前にネパールの首都カトマンズに下りてきました。
ベースキャンプに下山後、帰国する日が迫っており軽度の凍傷を抱えたまま歩いてルクラに向かいましたが、時間が経つにつれて足の指先が痛く、どのスタッフよりも遅くゆっくりと下りてきました。
悔しさとやりきった充実感と複雑な感情が残る今、いよいよ秋季エベレスト・ネパール側の挑戦をお話しをしたいと思います。
皆さん、応援ありがとうございます。
「世界へ」
10月2日、2度のアタック出発を迎える。
ベースキャンプから巨大なセラックとクレバスを超えて、標高6400mのキャンプ2へ向かった。
雪は思っていたよりも少ないが、1度目のアタックでは7900m近くまで向かい、下山後3日間の休養で再び全力でアタックしなければいけない。
疲労は完全に抜けているわけではないが、わずかな好天を求めて再び上へ向かっていく。
食料は軽量化のため1日インスタントラーメン1食分と、わずかなお汁粉があるだけ。
一回目のアタックで消耗した体に、食べるだけ食べて6400mに向かっていく。
1回目のアタックの時は、9月21日から23日にかけて雪が降り積もるホワイトアウトの中でキャンプ2に入った。
今年はネパール大地震の影響で登山隊は1隊もおらず、まるで目ない潜水艦のように濃いガスの中、ネプチェ側から落ちてくる雪崩に耳を傾けながら氷河の雪原を進んで行った。
新雪のない、快適なC2(6400m)に着く。
「やはり長いな」と改めてネパール側の距離の長さを感じていた。
中国側は6400mのアドバンスベースキャンプから登山開始だが、ネパール側は標高5300mからのスタート。
既に1100mの差がでている。この差の負担は大きい。しかし自分で選んだ道を引き返す訳にはいかない。
このネパール側のエベレストを独り占めできることはめったに無い。
テントの残骸が残るキャンプ2で、氷河の雪解け水をくみながら登頂の夢を見ていた。
10月3日、キャンプ2から標高7000mのキャンプ3へ向かう。ここからは、通常のルートから外れていく。
通常ルートではローツェフェースと呼ばれる、ローツェ(8516m)に向かっていくが、僕はサウスコル(7900m)と呼ばれるエベレストとローツェの間の場所に真っ直ぐダイレクトに入るルートを選んでいた。
以前ノーマルルートから登ったときに、イエローバンドと呼ばれる岩を超えてトラバースするところで、深い雪にハマりその雪に亀裂が入り、雪崩の危険性を感じてやめたことがある。
しかし、僕のとったルートは雪崩の危険性が少なく、しかもダイレクトに登れるという事はダイレクトに下がる事もできる。
エベレストは他の8000m峰と違い、登頂できても生きて帰れるか帰れないかの世界である。
無酸素でエベレストへチャレンジして、亡くなった人の割合はかなり高い。
どうやって生きて帰るのか、それを登りながら確保していかなければいけない。
7000m近くの大きな岩のテラスに再びテントを貼る。
夕暮れになると一気に気温が下がり、テント内がバリバリバリと凍っていく。
5300mのベースキャンプとは全く違う世界。
プモリ中継キャンプの仲間や、ドキュメンタリーの撮影班は一体何を食べているのだろうか。
まだベースへの未練を引きずっていた。
10月4日、テントからエベレストの上部を眺めると、ゴーっと凄まじい音が聞こえ雪煙が上がっているのが見えた。
「ついに始まった。」
ジェットストリームと言われる、秋のヒマラヤ特有の強烈な風が吹き始めた。
予報では5日がもっとも強く、8日には低気圧が近づいてくる。
お世話になっている山岳気象予報士さんから、今回の予報的には一言で言うと「あくまでもチャンスがあれば…。」
その一言で、どれだけ厳しいアタックなのか今まで経験して分かっていた。
ただ予報だけに頼るのではなく、風や雲の動きを見て判断したい。
この日、上部の風はますます強くなる傾向を感じ休養を決めた。
10月5日、強い風は標高8000mあたりだけではなく、僕のいる7000mのテントに吹き下ろしの形でやってきた。
ザーザーと津波のようにスノーシャワーが降り落ちてくる。
テントの中には風は入ってこない。
ただ、ザーと僕のテントのポールを「く」の字に曲げてくる。
嵐の大海原に、小舟で入っているかのようだった。
当然この風でフェイスを登れば、風で煽られスリップして滑落する。
この日の出発はやめたが、風がテントに当たり続けドンドンと小石や氷がテントに当たり、気がつけば僕のテントに小さな穴がいくつか空いていた。
僕の寝ているテントの右側は、岩の下で20mは落ちる。
そこに落ちれば6400mのキャンプ2付近まで滑落していくだろう。
テントを固定しているロープが気になり、外に出た瞬間。入り口側のロープが1本風で抜け、テントが浮かび上がった。
とっさにテントに体を半分入れて抑え込む。
目の前で信じられない事が起き、脈が一気に上がり、顔が青ざめる。
風が止む瞬間を待ち、再びロープを固定し直した。
このとき被っていたニット帽が風で飛ばされてしまった。
あのままテントが飛ばされていたら、高所靴も無線も飛ばされ、僕は降りられないまま不思議な形で氷の中から発見されていただろう。
10月6日、夜から風の気配に耳を傾け続け、あまり深く眠る事ができなかった。
だが徐々に風が弱くなるのを感じた。
朝一はまだ強かったが、日が当たる午前9時頃ようやく安定したので出発を決めた。
7600mに向かっていく長い道。雪は少ないが、所々ブルーアイス(硬く凍って青く光る氷)が見えた。
7500m以上からはペースが下がる。
ここからが本当の低酸素の世界に入っていくのが分かる。
ペースは下がるが、あえてペースを落とし脈を一定に保つ。
ここからは常時、脈が110以上になり、体を地上にいるときのように自由に動せない。
どんな時も静かな足取りで、静寂を保たなくてはいけない。
心の動きも同様。不安もストレスも高い感情も、ここでは全てを「空」にする。
そして体内にある潜在的なエネルギーを引き出し、カロリーでは絶対的に足りない不足分のエネルギーを内側から引き出す。
標高7600mのキャンプ4に着いたとき、デポ(荷物を埋める)しておいたリグと呼ぶ中継機材の一部を掘り出す。
僕の冒険には「冒険の共有」という、もう一つの大きな山があった。
今回は8750mの南峰からプモリ中継キャンプが見え始め、栗城の姿が見え始めた段階から中継機材のスイッチを入れ中継を行う予定だが、極寒の中、電池の消耗が激しい。
僕は常に中継機材を寝袋の中で温め続けていた。
通常ハイキャンプを作るなら、7900mのサウスコルに作るだろう。
それは春のエベレストであり、秋にこのサウスコルにどれだけの風が吹き付けるのか見ていた事がある。
2012年、西稜に挑戦しリッジに向かう時、一回目に見えていた雪が2回目上がった時雪煙とともに消えていたのを見たことがある。
その前後にローツェを登ろうとしていた登山隊のシェルパ二人が、サウスコルで風で吹かれ滑落したのを知っていた。
秋に僕の小さなテントをサウスコルに張るのは、ヒマラヤの風に乗っていくようなものだ。
僕は風の影響は少なく、また登頂後に低酸素の影響を軽減できる場所を考えて7600mに張ることにした。
10月の7日、最後の「ラ王」を食べた。
食事の中で、この「ラ王」がもっとも豪華な食事となる。
ガスは節約のため水を沸かすのではなく氷や雪を溶かすだけにしていたが、この日は温かい飲み物を口にするだけ口にしていた。
ベースキャンプでぬるくても味噌汁がどんなに美味しかったか、このテントの中で改めて当たり前と思っていた自分を反省していた。
アタックは、日が沈みかける夜19時に出発。
登頂は恐らくお昼前後となり7600mまでの下山を考えれば24時間以上の行動になるだろう。
長丁場にはなるが、それなりに耐えられる自信はあった。
体力面では十分い行ける。
それはベースキャンプを出てからずっと感じている事だった。
少ない食料でどれだけ動けるか、そして酸素を取り込みやすい身体をいかに作るのか。
トレーニングと食事制限や瞑想も取り入れながら、心も身体も無駄なエネルギーを使わないように集中してきた。
しかし、それは自分の努力だけではなく、多くの仲間や支援者が環境を作ってくれたのであった。
冒険の世界は登るだけではない。
資金作りから中継の準備など、マネージメントの力も必要となる。
その負担を多くの支援者と仲間が支えてくれた。
今では中継班も少数精鋭で最も集中しやすい環境ができている。
「今回は体調が良い」無線でプモリ中継キャンプの仲間に伝えていた。
あとは、ここから先にある深くて硬い雪と強い風。
不安よりもついに向かい合うというワクワク感が勝っていた。
夜7時、強風に備えてテントを畳む事を考えていたがそのまま残し、真っ暗なサウスコルに向かっていく。
無線は電池の消耗を考えて定時更新なしと決め、余裕がある時だ現状を伝える事にした。
極寒の中のラッセル。
寒いのはわかっているので気にはならない。
呼吸を整え、一歩、また一歩と踏み出していく。
サウスコルは思っていたよりも距離があり、長く感じていた。
そして、ゴーという風の音が近づき始めているのが聞こえていた。
サウスコルには相当な風が吹いているのがわかっていた。
ラッセルを続け、徐々に平坦になっていく。
ゴロゴロとした岩や石が現れ始め、広い場所に出る。
ここがサウスコル(7900m)。
着いて余韻に浸っている暇はなく、風が当たらない岩陰にしゃがみ隠れた。
遠くにはマカルー(8463m)が見える。
5分間の浅い休憩だけを取り、いよいよここから先が8000mの世界。
他の山ならこの前後の標高がゴールになるが、ここから先にもう一つの山が続いていく。
とてつもない高さを改めて思い知った。
酸素ボンベがあれば、この標高はなんとも思わないのかもしれない。
無酸素はこの「高さ(低酸素)」をまともにくらう。
僕は一本の糸が切れないように呼吸に意識を持ち続けた。
ところどころにブルーアイスと呼ばれる、コンクリートのような硬い氷が覆っているのが見えた。
そのブルーアイスを避けながら、テングラルフェイスに向かっていく。
傾斜が強くなるとともに、それ以上に雪が僕の足にまとわりつき一歩一歩を塞いでいく。
雪といっても日本のように柔らかい雪ではない。
外は氷のように硬く、しかし体重をかけるとバリッと割れて2-3mの亀裂が入り、中はさらっと乾いた砂のような雪で身体ごと引きずり込まれ、まるで砂時計の中にいるようだった。
秋は数々の登山隊が、この雪と風に下山を余儀なくされた。今は、僕一人だけ。
こちらもそう簡単には引き下がらない。
斜面を叩き割り、氷の砂をかき分けて進んで行った。
リズムはまだ乱れてはいなかった。
ただ、どんなに進んだつもりでも、思っていたより進めていなかった。
この雪の状態が続き、そして夕方には風はさらに強くなる。
上を見上げると星々がまるで電球を着いたり消したりするかのように光っている。
そこに一本の白い道が上に続いていた。
午前3時、もうこれ以上、雪をかき分けて進んでも帰りの時間を考えれば二度と帰れなくなることはわかっていた。
どんなに最強と呼ばれる人間でも「帰れない」それを分かっていながら行く人がいるだろうか?僕は戦争に来たわけではない。僕は山を登りに来たのだ。
山は登ってダメなら引き返し、また登るもの。
おそらくこれ以上進む者は誰もいない。
「もう、もう十分です。」
最後に無線で、僕はそう伝えていたらしい。
ここが生と死の境界線ギリギリまでやってきた。
下山は悔しいが、悔やんでいる状況ではなかった。
風が強くなり始めていた。
サウスコルに再び近づき始めると、風はさらに強くなり、まるでマシンガンに打たれるように立っていられなかった。
対風姿勢をとるがとても通じるような風ではなく、あまりの強さに頭一つ分の石にしがみついた。
顔を上げればヘッドランプも頭にかぶっていた頭に被ったバフも吹き飛ばされる。
顔をできるだけ地面につけて風が弱まるのを待った。
片目を開けると、近くに硬いあのブルーアイスが見える。
もしあの上でこの風に当たっていたら、今は東の彼方に消えていただろう。
テントがある7600mの南西の方向に足を向け、はいつくばるように下りていく。
ここにテントを張っていたら、完璧に僕もテントもいなくなっていただろう。
サウスコルから徐々に降りていき、標高を下げるたびに風が弱くなり始めた。
真っ暗な闇の山々に太陽が出始め、ようやく周りが白く明るくなり始めていた。
あの風の強さでは、7600mでもそれなりに強風であることは間違いない。
もうテントは吹き飛ばされているかもしれない。
だとすればガスもわずかな食料もなく、ベースキャンプまで夜通し歩き続けなければいけない。
傾斜が強くなると、オレンジ色のテントが見えた。
テントが見えた時、一気に身体の力が抜け、腰が落ちた。
下山開始から、水分補給はほとんどできていない。
ダウンの内ポケットに入れて温めていたジュースも、すでにシャーベット状になっていた。
テントの中にアイゼンを履いたまま潜り込む。
冷え切った身体をガスで温めたくても、しばらく動く気にならなかった。
そのまま眠りにつきたかった。
頭の中でふと2008年に見た短編山岳ドキュメンタリーを思い出した。
それはまるで僕と同じようにアメリカ人医師が秋季エベレストに5度目の挑戦したものだった。
エベレスト上部でアメリカ人ガイドが引き返そうと言う。
ベースキャンプで待つ奥さんが無線で「帰ってきて」と言い続けるが、山岳ガイドの制止を振り切り、その医師は頂上に向かっていった。
夕日を背に、頂に向かっていく姿があった。そして医師は帰ってこなかった。
それを観たとき、そこには感動ではなく、無機質な空気が広がっていた。
もしかしたら自分も同じような空気をつくっていたかもしれない。
なぜその短編ドキュメンタリー映画を思い出したのか?
もしかしたら、もう一人の自分が自分に「生きて帰ろう」というメッセージを送ろうとしたのかもしれない。
日が差し込み、テントの中が温まる。
そこで足が凍傷になっているのはわかっていた。
いつもと変わらぬ明るい太陽。
とても嵐のような風に当たっていたとは知らなかったような太陽であった。
時間をかけてテントを畳み、キャンプ2に向かって下山していく。
本当はキャンプ2で一泊し、翌日ベースキャンプに戻るのが通常だが、ベースキャンプまで僕は下りたかった。
陽が沈み、真っ暗なセラック地帯を降りていく。
体力的にすでに限界ギリギリなのか、めまいと吐き気が何度も襲ってくる。
しかし、なぜか巨大なセラック地帯の中は温かく、真っ暗なクレバスの怖さをまったく感じず、まるで暖かい雪原の中を歩いているようだった。
夜11時過ぎ、5300mのベースキャンプにたどり着いた。
出迎えてくれた日本人スタッフは、皆カメラを回しており誰も声をかけてくれない。
僕も何かを言葉に出せる余裕はまったくなかった。
暗闇の中、みんなの顔が見えたとき涙を堪えることができなかった。
最後の祈りを捧げるためプジャ塔に向かう時、コックのアムリットさんが抱きついてきた。
いつもひょうきんな彼が泣いている。
彼が泣いていたのは、栗城が登れなくて悔しかったのではなく、もう栗城は帰ってこれないだろうと思っていたらしい。
ネパール人スタッフ、皆そうであった。
僕は心配をかけて申し訳ない気持ちと、全てを出し切った開放感が絡みあっていた。
キッチンに入り温め続けてくれていたカレーライスを口にする。
登頂した時の喜びは格別かもしれない。
でも、何気ない温かいカレーを食べられる日常が、格別な登頂と同じくらいの幸せを感じていた。
ネパール首都、カトマンズ。
帰国の日が迫っており、ベースキャンプでのわずかな休養のみでルクラに向かって歩いて行ったが、足の凍傷が痛くて歩くのに時間がかかった。
カトマンズに着いたその日。
お世話になっている山の先輩が、若手を引き連れてヒマラヤ登山に向かうためカトマンズにいた。
当然、この冒険も先輩は見ていて心配してくれていた。
「いい登山だったね。」と、僕の背中に手を当ててくれた。
確かに登頂はできなかった。その悔しさは、そう簡単には消えない。
しかし、あれ以上進んでいれば帰ってくることはできなかったことが明らかで、その中で生と死の境、ギリギリのところを登り生きて帰ってきたこと、風を読み、少ない食料と燃料で動き続けられたこと、結果は厳しいかもしれないがあの風の中で「8150m」まで行けたこと、確かに「いい登山」だった。
「でもネパール側と聞いた時、難しいなと思ったよ。」
先輩はネパール側の登山となった時、難しいというのは知っていた。
日本で準備進めている時に「許可はネパール側のみです」と聞いた時、かなり厳しいというのは自分でもわかっていた。
秋季エベレストを本当にソロで登ることを考えれば、ルートの長さ、効率を考えると確実に北側(中国側)になる。
中国側のアドバンスベースキャンプは、標高6400mからスタート。
ネパール側と比べるとすでに1100mの差があり、また危険なセラック地帯もない。
中国側はラインホルト・メスナー氏が1980年に北側の単独・無酸素の登頂を成功させた。
しかし、ネパール側の秋には誰もいなかった。
僕は今年、中国側の登山申請をしていた。
しかし、震災の影響で中国側の8000m峰の登山許可はすべて出ることはなかった。
ネパールのエージェントから、ネパール側のみと聞いた時、辞めることも検討していた。
しかし、僕は行くことを決めた。
このエベレストに来る前、震災支援でネパールに来ていた。
観光客が激減し、遠征の仕事がないシェルパが多くいることを知っていた。
彼らのために、何かできないかということを考えていた。
だが、冒険に私情は禁物。
僕はこのネパール側のエベレストがやはり好きだったのかもしれない。
ネパール側のエベレストは、北側にはない緑と何よりも自由な空気があった。
そして子供の頃から見続けたエベレストの形はこのネパール側のエベレストであった。
誰もいない美しいネパール側のエベレストと向き合えたのは本当に夢のような時間だった。
日本を出発する前、僕が師と仰ぐ先生に挨拶に行った。
その方は、学生の頃に年間100日以上、山を登り、また戦争も体験してきた方。
挨拶をしようとした時、僕に開口一番、こう言ってくれた。
「必ず登頂する、という欲望に打ち勝てよ。」
もうすでに知っていたのかもしれない。
挑戦には成功もあれば、失敗もある。
しかし、今まで挑戦をしてきて思ったことは、成功や失敗を超えた世界があるということ。
それは「学び」と「成長」、何よりも人との「繋がり」であった。
挑戦することで多くの人と繋がり、山を知り、そして自分を知ること。
この冒険を支えてくれた全ての人達に本当に感謝です。
そしてこれからも真っ黒く日焼けしボロボロになりながらも、成功と失敗の先にある世界に向かっていきます。
成功と失敗を超えた世界へ
~~~
収穫とお詫び~~~
今ままで8000mでのラッセルは一歩踏み出すのに5回~6回の深呼吸が必要でしたが、2回~3回の深呼吸で一歩踏み出せるようになり、一日一食分の食料で動き続けたこと、日本で高所順応のしやすい身体を作れたことなど、確実に成長を感じ次に繋がる登山でした。
ただ残念だったのは、「冒険の共有」生中継が今までの遠征の中で最もできませんでした。
元々、中継は栗城がエベレストの南峰(8700m)まで登り、プモリ中継キャンプからの見通しが確保できて初めて中継ができます。
しかし今回はそこまで登れず、中継を楽しみに思っていた方に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
そして今ままで繋がっていたベースキャンプからの衛星通信が、今年は全く繋がりませんでした。
このためにインタラクティブなやり取りができませんでした。
原因は、使用していた衛星の位置が微妙に変わったこと、通信機材が最新の物で、ある程度衛星との指向性が合わないと通信ができないことが分かりました。
それでも編集の林さんが、一人プモリ中継キャンプ(そこでは通信可能)に留まり、穴を空けないよう配信をしてくれました。
僕は全く情報が取れませんでしたが、福山雅治さんの結婚ニュースだけは知りました。
冒険にトラブルは付き物ですが、これを活かして次も頑張ります。
皆さん、ごめんなさい。そして、応援ありがとうございました。
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行った人しかわからんと…。
私はずっと応援するけん!
楽しみです。
これだけの文字を打ち込むのも、どれだけ大変かの想像も出来ないのですから。
(って書くと、今は指以外でも文は書けるとか言われてしまうだろうけど)
命がけの強風の中をもっと滞在して挑戦しろという人もいるしね。
登頂出来ない=失敗としか思えないとか、プロと名乗るならこうあるべきとかなんとか。
厳しいビジネスの世界での狭い価値観でしか物事を見れないのも かわいそうに思えてしまいます。義務だとか責任だとか。
他人の評価?必要ですか?
自分が思ってる価値観で、執拗にその方向から人を監視し続けて 何をしたいんですかね?
新ルート開拓、おめでとうございます。
成田へはいつお戻りですか?
シャンパンシャワーでお迎えしますよ
とかいう決まりはあるのでしょうか?
人それぞれ自己責任で山を楽しんで登ってもいいのではないですか?
その楽しみを共有したく、
私は応援していますが。
栗城さん、お疲れ様です‼︎
気を付けて帰ってきて下さい‼︎
生きて帰って来てくれてありがとう。次回に夢叶えましょうよ。成功する時が、きっとありますよ。楽しみにしなが、応援していますよ。
ロープが一本抜けただけでテントが浮かび上がる?
どこのメーカーのテントですか?
親指一本でこれだけの長文、エベレスト並に大変だったと思います。
とりあえず思ったことは、
「どんだけベースキャンプ好きやねん!」
エベレスト無酸素登頂をした日本人登山家の記録です。
彼らはサウスコルにテントを張って夜中に出発し、12時間以上かかって登頂し
そのうちの何人かは帰路で命を落としています。そこまでやらないと登頂できない
のが無酸素エベレストという登山だと分かります
風でサウスコルにテントを張れないとか、夜明け前には登頂を断念するとか
そんなの最初から登頂する気がなかったとしか思えません
栗城さんの登山は、今まで命がけで無酸素登山をしてきた先人を愚弄するものです
そもそも、本当にサウスコルまで上がったんですか?
証拠となる写真が1枚も無いのに信じろと言われても無理です
ラッセルできれば、どこでも行ける!
おおー、感動のお言葉、お涙太平洋。
ありがとうございます。
そしてどんだけ体力あるんでしょうか?凍傷がきにかかりますが…。
ブログをよんで目の前に想像画面がうかびます。
ご苦労様でした。ありがとうございました。そして…
続きをまっています。(^ー゜)
百聞は一見にといいますよね
小石が飛んで穴があいたテントの写真や
新ルート開拓の詳細の公式発表や
中継用で撮影された未編集の動画を
バーンと見せれば
あなたの偉大な功績が評価されますよ
あれだけの感想文ではなく
一つの証拠ですよ
大事なのは
そこには、単独のあなたしかいなかったのなら
みんなこの証拠が目に入らぬかって
出せばいいんじゃないのかな
ただ、それだけのことですよ
一般の会社でも報告の時には
エビデンスは必要なものです
狭い価値観や評価以前に、「登山に対して疑問がある」人が多いんだと思いますよ。
途切れるGPS、下山時のありえない速度の移動、他の登山家から「無謀」と言われる計画、C3からサウスコルまでの詳細な道のり…。
コメントで幾度も指摘されていますが、いまだに栗城さんはその点に回答されていません。
何故でしょう?そこを聞きたいと願うのは、根拠のない「批判」ではありません。
批判的なものは「監視してるだけ、視野が狭く可哀想」だと決めつけるのは尚早かと思いますよ。
これだけ疑問が噴出するということは、それだけ注目されているという事。
適切な回答があれば、今後も栗城さんを支える人は増えるでしょう。
多くの疑問があること、それに対して詳しい説明が出ることを待ちたいと思います。
鋭い指摘をされてる方がいます
それから、お疲れさまでした。
もっと評価されるべきなのに…
マスコミもっと取り上げてくれたら
いいのにな
大々的に発表していたはずなんですが、今回おとなしいのはなぜ?
発表して困ることでもあるんですか?
ナマステ‼︎
栗城隊長は、私に出来ないエベレスト登頂と言う冒険の代理人です‼︎
栗城隊長のエベレストシャツを着て、今日も藻岩山を登ります‼︎
今度、北海道で登山ツアーを開催して欲しいです‼︎
登山ツアー➕エベレスト支援を兼ねてください。
新しい健全な支援モデルです‼︎
本当にお疲れ様でした。
まずはゆっくりからだを休めてあげてくださいね。
乙 (・ω・) 栗城さん
山の天気は気分屋だなぁ
行くてをはばむかのように試練を与
えるね頑張れ栗城☝️今までも乗り越
えてきたでしょ応援するょ
まずなにより、栗城さんが無事に生きてくれているという事が嬉しいです。
本当にお疲れ様でした。
またひとつ、栗城さんの挑戦に胸を熱くされました。
ありがとうございました。
なんだかなぁー
タイトル 僕ちゃん
ただ、やってもいないひとたちはやってから言えよ!みたいなコメント出したら
終わりだって!!
そうゆうコメントはグッと飲み込んで
プロらしく、コメントしなきゃね。
子供じゃないんだからさ。
サウスコル直下は急峻な崖になってるはずですよね。誰も登ったこと無かったはず
そこをラッセルしながら登ったとか、夜が明ける前に下ったとか、それが怪しいんですよ
急峻な崖を手にハンディがある人がどういう技術で登り切ることができたのか
しかも、その崖のあたりだけSPOTは切れてしまってる。もちろん写真もない
だから本当に登ったんですかって疑惑をもたれるわけ。
はっきりした行程の証明を出さなきゃいけないと思いますよ
疑惑を訴える書き込みを削除するばかりでは、ウソついてるって告白してるようなものです
それが、見えない山ということだと思うですがいかがでしょう?
どうでもいいなら 関わらなきゃいい。
一番の難所で見せ場のはずですが…
なぜ詳しく書けないんでしょう?
色々不思議な所がありますね
確実に証拠になる映像があっても
素晴らしい!と感じる人も居れば
自己アピールがしたいだけだろ!と言う人もいる。
受け取る側しだいだよ。
100%の物を見せつけられても、アンチはゼロにはならないよ。
あとサウスコルに至る描写がほとんどありません。
これってご本人が書いたものじゃありませんよね。
こういう表面だけ取り繕うような行為は今まで応援してきた者にとって非常に残念です。
どう反応されましましたか。カトマンズで取材されませんでしたか。
あのサウスコル直下の壁を登ったんですよね。フィックスロープもなしで。
私も登山をしているので、是非どうやって登ったか教えていただきたいです。
エベレストに登ったことのある友人に聞いたら、とてもじゃないけど登れる壁じゃないと
言います。まさか・・・は無いですよね。どの様な手段を用いたのか大変興味があります。
栗城さん本人が登ったというのですから登れたのです。急な斜面なら必死に這いつくばってでも登ったんですよ。
事実サウスコルより上のGPSデータもありますし夜中なので暗いですが8150m地点での動画もあますから。
アンチの人は信じたくないかもしれませんがそれが事実です。
今回の新ルートを語れるのは今世界でも栗城さんだけではないでしょうか。
八ヶ岳で帯同してた「お山の先輩」は花谷泰広さんでしたよね。 ある程度山やってる人だったらみんな知ってるんだから隠すこともないと思いますが。
マカルーが見えるぐらいの明るさがあったんですよね??
共有が売りのはずが
なんで動画はおろか写真一枚すら無いんですか?
言うだけで良いなら「昨日歩いて月に行ってきた」でも成立してしまいますよ。
垂直以上のオーバーハングがある未踏の崖を、
なんと真っ直ぐ登るという、
複数チームでもフィックスロープがあっても登攀不可能なルートを
「深雪をラッセル」しただけでサウスコルに到達すてしまう
栗城隊長の超絶テクニックに脱帽です!
先ずはしっかり休養して、次の挑戦に備えてください。
楽しみにしています。
またいつか、お会い出来たときにお話しを聞かせてください。
長文になれば矛盾が多くなる。
取り急ぎ、サウスコルまでの核心と、サウスコルまで
登ったと証明できる写真を提示できれば、批判は
落ち着くとおもうのですがいかがでしょうか?
その動画か写真でもどこかで見たの?
証拠証拠と騒ぐより自分で先にその証拠を出してはどうかな?
まさか自分の想像とか妄想で書いてはいないよね?
それともどこかのネットの匿名掲示板の書き込みを信じてるとか?
それが単独登山というもの
そもそも絶賛に乗せられて2年前にどうなったか忘れたの?
アンチって何なんでしょうね…
確かに変な事や汚い言葉を書いてる人もいますけど
「普通に疑問に思うこと」を書いてはいけませんか?
9指無い状態で、過酷なルートでサウスコルに素早く上がり
(行きも帰りもSPOTを切っているので詳細が分からず)
8000メートル以上まで達しつつ、27時間ぶっ通しで動いて下山
10分で雪の山道を数キロ移動(平道をダッシュするような速度)
危険なアイスフォールを夜間に通過した、というのは
「詳細を聞いてみたい!」と思うものではないでしょうか?
私は、後学のためにぜひお聞きしたいです
特に、指が無い状態での工夫や苦労をお聞きしたいのですが
栗城さんの説明の中では一切の描写がありませんね
それを書くことで、同じ状況の方を勇気づけられると思うのですが…
様々な工夫については、後人の参考にもなりますし
「疑問に思うな、質問するな、それはアンチだ!」というのは
あまりにも栗城さんを冒涜しているかと思いますよ
全てが事実ならば素晴らしい武勇伝なのですから
「きっと得心のいく説明してくれる」と信じて待ちましょう
涙流してうん、うん…ってうなずいてました
衛星がうんたらの部分、いまさら書くのおかしくないですか?
バンキシャの時も生中継すると言っておきながら、
その時は天候が理由で事前に収録されたものだったし、
衛星との問題もわかってるなら、ベースキャンプにいる時に事前にアナウンスしておくべきですよね。
生中継を売りにして、それを理由に募金までしていたわけですから。
今までなにも言わず、今になって衛星がうんたらかんたら言っても
言い訳にしか聞こえません。
カッコいいな。
来週楽しみです。
。批判物凄くてびっくりしました。何がそんなに悪いのか私は正直よくわからんですが、必死で批判を書き込んでる人は物凄く沢山の時間を栗城君の事に使っているのだなー…と…愛の裏返し⁉︎
実際のところこうだったという話は時間が経てば経つほど言い訳がましく聞こえるものです。やはり途中でアナウンスをいれられると良かったですね。残念です。
経験を今後の挑戦に活かして、これからも夢に向かって頑張って下さい!その姿に私は勇気づけられます。応援しています!
命を大事にしてくれてありがとう…すごく登頂中心配でした(⌒‐⌒)
栗城さんの次のチャレンジのために
年金から少しずつ貯めてるみたいです
おじちゃんが生きてるうちに絶対登頂してください
失敗して、けなす人❗
言い訳❓
一度の登山に、どれだけの準備を要するかご存知で
のほほんと!毎日を送って
平和だよね。
栗城さん!
また元気な顔を見せて下さい。
君が頑張ってたのはわかるんだ
頂上を目指したの
けど、君が頑張ってた、その時に
応援したかったんだ
君の姿を見て、会社や学校とかで
辛い時に頑張ってる人も大勢いる
エベレスト無酸素、単独登頂が
君のゴールではなく
あくまでも、それは手段だと思うんだ
自分勝手に書いて、申し訳ないけど
次は君の頑張りをリアルタイムで
応援させて欲しい
エベレストじゃなくてもいいと思う
君が頑張れば応援するから
次回の挑戦を待ってます!
栗城さんの挑戦をわかろうという気が無いんじゃないかな
わからないんじゃなく、なにも理解する気がないだけ
「山の事はよく知らないけど、ともかく応援してます!」というのは
少しばかり無責任ですよね…
栗城さんを応援するからこそ、登山について少しでも調べようと思うし
色々調べたからこそ出てくる疑問や質問だってあるんですよ
そこだけはご理解くださいね
登頂は出来なかったけど、少なくともあたしは、栗城さんに登頂してほしい頑張ってほしい!!と応援しながらワクワ
クしながらlineブログ待ってましたよ♪
それを共有と言うんじゃないんですか?
だから大丈夫ですよ。次回のチャレンジ待ってます(*≧∀≦*)
栗城さんの挑戦を知りたいいう気が薄いんじゃないかな
わからないんじゃなく、理解する気がないのでは?
応援するからこそ、登山について少しでも学びたいと思うし
エベレストについて知ったからこそ出てくる疑問や質問だってあるんですよ
登山を学ぶものとして、色々聞きたいと思うのは当然のことですよね?
批判じゃないんです、「質問」なんです そこだけはご理解くださいね
ますます、元気勇気もらいましたぞ。
次にまたエベレスト、又は8000メートル峰に挑戦するならば、色々難しいかもしれない中継を必ずや成功出来るようにしてチャレンジしてください。
今回のエベレストは通過点だったと私は思います。
私は栗城が大好きです。
これからも冒険して行きましょう(*^ー^)ノ♪
> 元々、中継は栗城がエベレストの南峰(8700m)まで登り、
> プモリ中継キャンプからの見通しが確保できて初めて中継ができます。
> しかし今回はそこまで登れず
プモリ中継キャンプからは通信可能だった
生中継の予定は南峰8700mまで登ってから
ベースキャンプからの衛星通信状況とは関係ない
中継は8700mまで登れるという前提
しかし実際に登れたのは8150mまで
結果的に生中継ができなかった
ラッセルだけで登れたのですか?
ゴロゴロとした岩や石が現れ始め、広い場所に出る。
ここがサウスコル(7900m)。
ラッセルのみですか?
ロープなどは使わなかったのですか?
新ルートですよね。
エベレスト登山史にのる偉業ですからもっと詳しく経過をお願いできますか?
世界へ
素晴らしい感銘をうけました。
真実ですよね?
更新ありがとうございます。
ベースキャンプからの道のり大変でしたね。
足の凍傷は回復しましたか?
元気に胸を張って帰国してください。
グランドキャニオンと穂高岳で強風の怖さをわずかながらでも体感した経験のある私にとって今回栗城さんが経験されたサウスコルはブログを読んだだけでも想像を絶する恐怖を私に与えました。
次回の挑戦は是非、中国側からお願いします。
私は今後も栗城さんの挑戦を応援します!
顔晴って!!
生中継ができないそうですが、
前回までも8700m以上登った事は無いのに、
なぜ生中継出来てたのでしょうか?
矛盾してませんか?
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ただ残念だったのは、「冒険の共有」生中継が今までの遠征の中で最もできませんでした。
元々、中継は栗城がエベレストの南峰(8700m)まで登り、プモリ中継キャンプからの見通しが確保できて初めて中継ができます。

しかし今回はそこまで登れず、中継を楽しみに思っていた方に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
ここを見てるってことは少なからず興味があるわけだし❗
いろいろな事が聞けて少しは勉強になりました。
ありがとうございます。
無事に帰国されたみたいで、良かったです。
ただ、一点だけ気になったのは、ニット帽が風に飛ばされたのにベースキャンプに着く時に被って居たのは何故なんだろう?
と少し疑問に思いましたが。
通常軽量化の為なら予備も少なからずあまり持って行かず、持って行っても手袋や靴下などかな?
と思うんですが。。。
エベレストは別格なのかな?
何はともあれ無事に帰国出来て良かったです。
いつも使っているのに…。
ところで、サウスコルはラッセルだけでは登れないですよね?
どのように登攀したのか、道具とハンデある指での使用を交えて共有して下さい。
感謝!
「生きて帰る」という強い思いが大切なんでしょうね。
普通だったら怖くて二度とやりたくないと思ってしまいそうだけど、こんな過酷な挑戦を何度もできる栗城さんはやっぱり凄いなと思います。
これからも「生きる」を共有していきたいので、おもいっきり楽しんで長生きして下さい。
これを繰り返し言ってるだけ
自分の計画が甘かった
もっとこうするべきだった
失敗した理由はこうだ
これを話すべきですよ
なんていうか栗城さんって自己愛が強すぎるんだろうな
関西のエリカ様とか言われた議員と同じだわ
と、取る人がいるんだ。
不思議だな、、、
健常な登山家でも忌避するあの谷を登り切るなんてすごすぎる。
情報お願いします!
キフロム!
単独無酸素を謳っておきながらあたりまえのようにシェルパを利用してよろしいんですかね…。
BCまでサポートしたいのですが
ボランティアの募集はしていませんか?
無報酬で構いません。
登山にも栗城さんにも全く関係のない第三者的に経過をみていましたが、
申し訳ないですが、こんなに心に届かないブログに驚いています。
命がけの大変なチャレンジをしているはずなのに、何故でしょうか、、。
伝えたい事を文字にするのは難しい事ではありますが、文章の上手い下手ではないはず。
心に響くこと、本当に伝えたい事がわかりませんでした。
ちよっとチャレンジしたけど、厳しいんだよくらいにしか伝たわらず、残念ですね
栗城さんにとって、今回の登山はいい登山だったんですね。
正直応援してた私は、今回は、疑問が沢山あった登山でした。
エベレストは、命懸けの挑戦だと思います。
これから栗城さん、チームの方がどの様な登山をされていくのか、どの様な発信されていくのかわかりませんが、栗城さんが共有や、生中継を謳ってこれからもやっていくんだったら、そこだけは、確実に有言実行して下さい。
とても充実した登山だったんですね
長い文章読ませてもらいましたが、心理的描写ばかりで、実際の登山の内容はぼんやりすぎてよく伝わりませんでした。
こんな道具を使ってとか登山中の写真などまじえてもらえるとわかりやすいかなと思います。
皆から出資されているのだし、今回地震後のシェルパを支援したかったのだったら単独という必要もないな。みんなは登山は応援したけど炎上は残念。無関係。恥すら感じることもある。みんなの力であそこまで行けたんだという具体的な過程を知りたいよ。批判に子供みたいな反論して騒ぎを大きくすることなくまた詳しく最後のアタック部分のみでも書いてみてください。
それが騒ぎを静める一番の近道ですね。努力を頑張って。
いきなりですが、ああそうか、成功と失敗を超えた世界かと思いました。
なんか気が遠くなることもあるけど、まあもう少しがんばってみるかと思えてきますね。
栗城さんも身体は大事にしていただき、また楽しい山登りを伝えてくださればと。
すごく楽しみにしてます。本当にすごくね。
クラウド出資者のひとりとして、自力でサウスコルに到着した証拠を求めます
本当の意味で単独だった証拠ですよ
今後楽しみにしております。
さて、今後学校での授業予定はありますか?栗城さんの文の中には、「登頂でない」「ラッセルだらけ」等、およそ日本語的には間違ったものが多々見受けられます。
是非子供相手にされ、注目している子も多くいる方でもありますので、大人として少しでも直していただければと思っております。
今回のこの報告もまだ、草稿のようなものも思われますので落ち着いてからまた細かな訂正を入れてくださればと思っております。
たくさんの子供達とお待ちしていますね。
非常に納得できました。
真面目に登頂する気があるのならここまで金を掛ける前に戦略を練り直すか、前提に無茶が無いか検討し直すところだ。それ以前によほどの資産家でもない限りこう毎年毎年遠征はできまい。
それをなんら省みることなく成功や失敗を越えた世界などといって誤魔化すのは醜悪に過ぎるし、もはや「金とコネを得た人間が成果も求められず好き放題やっている」ようにしか見えず、誠実に生きている人間には一歩を踏み出す勇気どころか不快感しか及ぼさないだろう。
誤解呼ぶよ。
いわゆる世界ではなく、
○○の世界ってちゃんと主張せなぁ!
頑張ってくれよー。次に期待視。
『 とても嵐のような風に当たっていたとは知らなかったような太陽であった。 』
の部分、意味が分かりませんでした。
どなたか、解釈をお願いします。
栗城さんでなくても結構です。
アンチなコメント入れてる人に対し
嫌な思いをしてきましたが、
ずっと見てるとおおよそバカばっかりとわかってきたから
もうここは見ないし気にしないし
書き込まないことにします。
栗城さんは本当に心が広く、
温かいということが更に分かりました。
体調は如何でしょうか?
帰国されてお忙しいでしょうが、母国の美味しい物を沢山食べてゆっくり休んで下さい。
身体が一番です。
現在の報告が欲しいです。どのようにお過ごしですか?皆、待っていると思います。