頭では分かること。
ここまでの御礼

元気な人ほど「説教」のように聞こえるのではないでしょうか。
ここまでの御礼。

一度病気になったとき、
出来ていたことが出来なくなったとき、
ここまでの御礼を、
と言われたら
たしかに、
とも思えますが…

日常がどうかということです。

もちろん急場でここまでの御礼を言わないよりは言った方がいいとは思いますけれど(神様も喜ばれることとして)
日頃から、神様にお世話になり通しの実情を鑑みると、どこまで
ここまでの御礼
が言えてるのか、言わずとも思えているのかなぁと、自問自答しては申し訳なくなったりもしています。

まぁ、生きているうちに気付くだけでもありがたいこととは思いますが。

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歩ける
飲める
食べられる
話せる
掴める
吸える
吐ける
書ける
考えられる
聞ける
聴ける
感じられる

などなど。

ここまで出来てきたこと、その御礼の積み重ねをもってして、御礼が出来ずに苦しんでいる人たちに少しでも手を差し伸べられるような(間違っても御礼が足りないなどと一刀両断にはせず)、そんな生き方を、命の使い方をしたいと思ってます。

そうしてきてもらったから。

お返しです。
命の恩人への。
神様への。

いかがでしょうか。

職業柄、
「どうしたらいいですか?」
と聞かれることが多いです。

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以前なら、
どうしたらいいのかの返事を何か言わないと…とか変なプレッシャーの中、「教祖様のみ教え」を水戸黄門の印籠のように羅列しては、氏子を困らせていたように思います。結果的に、どちらも助からなかったです(僕も助からず)。。

最近では、
「どうしたらいいんだろうねぇ」と、
一緒に悩めるまでになりました。

当時を思えば大きな変化(成長)ではありますが、
それだけで氏子が助かるかと言えばそうでもなく、一緒に悩んだ先にまた、新たな感情が芽生えているのが今です。

もう今では、さすがにみ教えを上から下に下げることはないです。あらためてみ教えは人を切りますね、出来ないことを言っても仕方ない(腹を立てないとか…)

突き詰めて思うと、
【 一緒に信心させてもらう 】
なのかなぁと。現状としてこれが僕の答えです。

「一緒に」がやっぱり心強いですね。
自らの経験でも、1人突き放されることがなかったからやってこれました。
一緒に信心、一緒に悩んで、一緒に祈念してもらってきたからの今で、その深い強い感覚があるのです。。

今日もまた八方塞がりの氏子から
「どうしたらいいでしょうか」と、、

僕の答えを述べました。
一緒に信心させていただこう、と。

基本の基本ですが、
参拝して、
お取次いただいて、
ご祈念して、
これらすべてを「一緒に」
ですね。

それしかないようにも、早合点ながら思ったりもしています。

信心させていただいている内に、あまり気にならなくなったり、そんなこともありますので。

み教えも、知りたくなったら知ればいいし。
腹立てなければおかげになることは頭で分かっていても、難儀の真っ只中でそれを聞いても出来ないし、言われても困るだけです、、

おかげいただいてくると、学びたくもなってきますから。そのときに知ってることを伝えてあげられたら関係性も深まりますし、だから大事ではあるのですが、段階として。

これもそれも、
時節のこと、
なのかもしれません。

正解はないですし、(と、早々に言い切っていいものかどうかわかりませんが最新として)
人それぞれでもありますし。

だからここからも、
一対一で、
目の前の氏子と、
神様と、
二人三脚で進めさせていただきたく思います。
とっても時間のかかること。

ただ、
それ(一緒に信心)は出来る、
というのがあるだけでも難儀の真っ只中での救いになると思うのですが、

いかがでしょうか。


信心が大切

金光教の教師として、そんなこと分かっているつもりだったけど分かってなかった。

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どこかでずれてくる、ほんのちょっとしたところで。

信心になっていたら、御礼しか出てこないはずなのに、現状にとらわれ、理想と現実の違いにとらわれて、ああだこうだ思っている自分がいて、取次をいただきながら(←ここで信心してると思ってる)、「どうしたらいいでしょうか」とか言っているのだから、心底分かってないんだなぁと思わされます。

あなたの信心はどうなってますか。

そう照り返されてハッと我にかえるような気になり、出来ていない我が身を突きつけられます。それが嫌な感じでないからありがたい。

出来てないことを突きつけられるから、辛くもあるのだけれど、そこは取次の力です、「よしっ」という気持ちにならされています。

夫として、父親として、息子として、教師として…

どの場面でも信心になってるかどうか?

出来ることがまだあるから、そう思えた瞬間でありがたくもなります。

人生リスタート。

参る場所があるのもありがたい、
聴いて受けてくださる取次者がいることもありがたい。

取次いただき、分かっているようで分かってないことを分からせていただきました。

また、繰り返すような気もするけれども、お取次いただきながら、リスタートを繰り返していけるから、そう思えたらとても楽な気持ちになります。

師のお広前に月の一度のお参りをして、感じたことをつらつらと。

今日は以上です。

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