ある家庭の霊祭

決まり文句のように言われる言葉、
「みたま様も喜んでるね」
僕もこれまで何度となく言ってました。でも…
少し疑問に思いました。

信心は親孝行のようなものと例えられます。

親孝行とは親に喜んでもらうことかと。

心からそう思ってるなら言うことなしです。
でも、
して当たり前、とか
決まりごとのようになるとちょっと違うのかなと。
「親孝行しなければいけない」とか、ホントに?とも思いますし、何かそう思うこと自体が悲しいと思います。「しなければいけない」と思いながら親孝行される親もどうなんでしょう。。

冒頭の言葉も、
霊祭をやる
みたま様が喜ぶ

霊祭をやらない
みたま様が喜ばない、悲しむ

ホントに?と思うところです。

まず、
人が動くのは、
しなければいけない(強制)
もしくは、
せずにおれない(自発)
のどちらかだと思っています。

先ほどの霊祭の言葉も、
みたま様が悲しまないように、霊祭を「しなければいけない」になってやいないかと思いました。

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僕の体験を書きます。

①強烈に生身の人間にありのままを受け止められた
②自立しなければと思っていた心が「そのままで良い」と自分で自分のことを思えるようになった
③すると今度は自分が存在していることに目がいき、僕が生きているのも先祖、その先の神様、またそれらを体現してくださった生身の人間(取次者)あってのわが身と思えるようになり
④神様、先祖、取次者が喜ぶような行動がしたくなる
⑤結果、参拝とかご祈念とかお取次とか「信心」になっている
僕の強制(とも思ってませんでしたが^ ^;)から自発への転換です。

そうすると冒頭の霊祭も、
「みたま様が喜ぶから」
ではなくて、
【せずにはおれない】
結果、みたま様も喜んでくださるだろうになっています。

ここの違いも大きいと思い、文字にしてみました。

以上です。

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教会では月に2度祭典を仕えています。

神様への御礼のお祭りと、
教祖様(神様を現してくださってお方)の御礼のお祭りです。

それとは別に集会のような活動もしています。

今日はそこでの話。

ある氏子が、
「子の体調が悪くて今日のお祭り参拝できません。午後からの集会には顔を出せるかと…」と言いましたので、
順序が違う、
と言わせていただきました。

氏子にその気がなくても(本人がそう言ってた)、
上記の話だと並列になってるんですね。
そもそもで、
神様に命いただいて、
日々お取次いただいて、
ようもようも立っていられるはずの私なのに、
御礼のお祭りをすっ飛ばして、お役をいただいている集会には顔を出すと、
言葉にすると嫌な表現ですが、ホントのことと思います。

本人、叱られたと思ったようです。
否定されたと言ってました。
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叱ってないです。
天地の通り、順序のことを伝えたまでです。
ただ、本人が「叱られた」「否定された」と思ってるならそうなのでしょう。そのままに、次を願います。もちろん意図を聞かれたらしっかり応えつつ。。

思い出しました。
僕も師匠から同じように言われていたなぁと。そのときは先の氏子と一緒です。「叱られたー」「否定されたー」と騒いでいました。あぁ諭してくださっていたのだと今思えます。。

結果はどっちでもいいんです。
いろいろなことを経た結果、お祭りに出られず、集会に顔を出しても、それはそれで良いと思っています。
けれど、その行動に至るまでの本人の想いです。そこをどこまでも問いたい。

心から申し訳ないと思っていたら、次に繋がると思います。
そこを、「先生には分からないです。私の大変さなんて。私の気も知らないで。本当に大変な中、なんとか集会だけには出られたんですよー」なんてちょっとでも思っていたら、アベコベですから。その言動を見てる子もアベコベな生き方(選択)をしていくように思います。

一生懸命やってます
と、
信心しておかげいただく
は、
まったく別物だなぁとあらためて思いました。

一生懸命やればいいもんでもないのだろうと思います。

何を大切にするか、
何に重きをおくか、
その違いで、次への伝え方も、自身の理解も、大きく変わってくるだろうと思います。

余談ですが、
その集会に出てたほかの氏子、祭典不参でしたが何も言いませんでした。その氏子は、冒頭の氏子とは違います。ようやく教会が近しくなってきた状態。だから、教会に来てお取次いただくだけでもありがたいと、心の底からそう思えたから順序のことも言いませんでした。
かたや褒めて、かたや叱って(こちらとしては叱ってない^ ^)、差別してるようにも見えますが、伝える段階があるのだろうとも思っています。

先日の出来事から思うところをつらつらと。
今日は以上です。

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「言い続けることが大切」と、
自分でブログに書き、
自らに実践しはじめました。

まず私から。

くどいと思われても言い続ける、願い続ける。

言い続け、同時に自分に言い聞かせ、
言い続けたその方向に少しずつでも向かっていけるならそれはそれでいいのかと思うようになりました。無理と思わずそう思えるのがもうおかげです。

『人がいいのと信心しておかげを受けるのは別』

と教祖様は言われました。

もう、待ったなしなんだろうと思います。
ありがたいことに、良い人、と言われることに価値を見出せなくなりました。誰になんと言われても、そんな気持ちは年々強くなっています(凹みもしますが…)。

荒削りでも、言い続けること、
こちらは本気です、と。
言い続け、本気さが伝わって、結果神様を揺り動かすほどの願いになったら、これ以上の喜びはないと、今の心境はそんな感じです。
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参拝者が増えますように、
取次願う氏子が増えますように、
そのための徳と力をお授けください


そのように願い始めました。

あらためまして、今の僕の命の使い方となっています。

今日は以上です。

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