[受け止められて、何が変わるのか]

一言で言えば、
受け止めたくなりました。

してもらったことを、する。

相手については、境界線はありません。
ここは宗教の持つべき大切な部分と思います。
みな神の子
という世界観が僕の中にインプットされたから、相手は誰でも、なんです。本当に。わが子も、誰の子も。大きくは変わりません。

だから、相手によって、受け止めたい、受け止めたくない、が変わるのはどうなんだろうと思ったりしています。それってあなた、本当に受け止められたの?と聞きたくなります。直接は聞かないですけど。

つまり、境目を持つということ。
この人は受け止める(たい)
この人は受け止めない(たくない)
だと、知らず知らずに受け止めたい人へも変な境目を持つんじゃないかなぁと。

「そんな子はうちの子じゃありません」とか、その境目って何?と。
僕は、どんな僕でも受け止めてくれる、と感じたんです。そこに境目はないですから。

この教会でも、お参りしてる人が新しい人を指して「変な人」と表現したりします。自分のコミュニティに変な人が入ってきた、そんな意味なんでしょう。

悲しくなりました。
と同時に可哀想だなぁと。
その境目思考が…

変だから困ってるんでしょう。
僕だって自分のことを変だと思ってます。
というより、言ってるあなたはご自分のことを変だ、と思った瞬間はないのですか…と。
そんな気持ちが入り混じります。

話を戻します。
それもこれも境目なんでしょう。
どんな僕でも、どんなあなたでも、が受け止めるには必須で、それは経験するよりほかない、ということだと思ってます。

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自分がどの位置にいるのか。

本当の自分を出したが最後、誰からも受け入れられなくなってしまうー、そう思って生きることほど辛いことはないと思っています。

おわり

取次者と出会い、自分を見つめる旅へ。自分を見つめることに取り組もうと思えたこと。

このことは、今考えても不思議なことですし、あの僕が?と自分で自分に未だに言いたくもなります。

それもこれも取次者と出会って、『受け止めてもらった』からこそ、この僕の中から出てきた想いなのだと感じています。

『受け止める』

受け止める本人が「受け止めたい」と思っても、受け止める側が「受け止められた」と思わなければ成立しないことと理解しています。親の愛なんかもこれと同じかと思っています。「あなたのことを思って…」「頼んでないし…」は不成立の典型です。

僕の話ですが、何で「受け止めてもらった」と感じられたのかなぁとずっと考えております。考えて考えて、今、言えることは、受け止める人がそもそもで受け止められたからだ、ということです。

とんちのようですが、これは「連鎖」のことを言っています。

経験したことない人が、経験したことがないことを施そうとしてもそれはうまくいかないどころか、かえって相手を傷つけてしまう(期待をさせて失望させる)ことにもなります。

だから経験が要る。その経験ですけれど思うに、これも一生かかることなんじゃないかなぁと思ったりしています。

悟る、と言われるように、死ぬまでブレない、と感じたり実践できたらそれに越したことないですが、僕は、一生かけて受け止めていく、覚悟のようなものは万人に手渡せるのではと、そのように思いながら日々の御用に当たらせてもらってます。

親の愛情も途切れたらそこまで。
受け止めるっていつまで?それは一生のことです。

まとめると、取次者に相見えて僕は、

一生、この人は裏切らない
どんな僕でも受け止めてくれる

ということを感じたから、受け止めてもらったと感じたんだろうと。

その一生は、自分で一生生きてみて確かめるしかほかありません。
でも、生きているうちに、人に対してそのような感覚になれたということがもう、ありがたいのかと思うわけです。

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以上、受け止めるについて、でした。

次は受け止められて何が変わるのかについて書いてみます。

つづく

[自分を見つめる旅]

堰を切ったように話したからでしょうか、本当にとめどもなく今まで無意識的に(意識もしてましたけど…)抑え込んでいた、我慢していたものが吹き出されて、まぁそこから辛い時期を迎えることになりました。

本当に、当時を思えば(当時と言ってもまだ数年前のことですが…)何かに取り憑かれているのでは?もしかして僕は多重人格なのでは?と思うぐらいに、ドロドロと、他人への怒り、憎しみ、悲しみ、諦め、嫉妬、自分への失望、やるせなさ、歯がゆさ、もどかしさ、後悔などなどが入り混じりながら出てきて、やり場のないそのエネルギーの塊と共に生活する日々でした。

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今でも強く思います。
「あの時、僕にお取次がなかったらどうなってたんだろう」とゾッとします。

ここでお取次とは対話ですから、そもそもで相手がいないと始まりません。だから、受けてくださる相手と巡り合えたこともこれおかげなんですね。いつぞやは、呼び水になるその原因を作ったのも取次者なのでは?なんてまた人を責めることも正直思ったりしましたが、あれを乗り越えねば今がないどころか、あのままでは何の喜びも見出せないまま人生を送っていたんじゃないかと思ったりもして、それはそれでまたゾッとしました。

深く刺さった杭を抜く時って、真っ直ぐには抜けません。グリグリと差込口を拡げてやっと抜けるんですね。イメージとしたらそんな具合です。

杭を抜く作業を取次者と一緒にやるんです。
辛いです、しんどいです。もしかしたら、当時の人間関係で苦しんでた時よりも辛かった気もします。でももう抜き始めた以上、戻すことも出来ずに。本当に、あの場で取次者から心ない一言を言われたりして、僕の気持ちが折れていたらと思うと…またゾッとします。。

未だにその余波はありつつも、元気にありがたく過ごせております。ですから今はただ、ここまで乗り越えられて来たことに御礼申しあげておる状態です。

自分を見つめる旅は一生終わらないと悟ったのもこの頃でした。


次の項では、どうしたら人は人を受け止められるのか?なぜ僕は取次者に受け止めてもらえたと感じたのか?を思い起こして書いてみようと思います。

つづく

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