朝から「オウム真理教教祖死刑執行」というニュースを目にして、複雑な気持ちを抱えております。複雑な気持ちとは、すべては、「なんだったんだろう」という[人の怖さ]だけが残ったまんまのそんな心境です。

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わたしの人間観ですが、
《追い詰められたら何をしでかすか分からない》
というものですから、自分も含めて人間がしでかしてしまう大抵のことにも特に驚きもせず、
ですけれども、怖い、闇、深い闇、そして自分も同じ[人]であるという事実、この部分がどうしたって「なんだったんだろう」につながってしまうのかなぁと、そんなことを思ったりしています。


海外に住む方からメールがありました。
わたしのはじめて作ったブログ( https://blog.konkokyo-mk.com/ )を見てくださったそうで。
ブログを続けてて(あれこれ時間を費やして)心から良かったなぁと思う瞬間です。

最近ではこのブログもイジることもありませんし(当時はレイアウトがああだこうだと結構な時間を費やしていました)、更新もせずただただほったらかしなのですが、見てくれている人がいる、必要としてくれる人がいるということは、とてもありがたいことに思います。
あらためて御礼申し上げます。御礼、何にでしょう。自分の働きに、そのように動かせてくださった神様に、導師に対してでしょうか。

そんな中、
↑ずっと前に書いたこの記事を、久し振りに読んでみました。

思ってること、今もまったく変わりません。
それは、なぜなら道理だからと思います。

わたしはといえば…読んだあと、
甘んじてはいないだろうか、と殊更に思わされました。

おぼつかなかった数々の御用も、時が経つにつれ何事にも慣れてきて、「これでいい」「これでいいや」なんて思ってやいないかしら、そんな焦る気持ちを覚えました。

それでいいんだと思います。
それでいいとは、反芻することです。これでいい、ではなくて。
改まったらいいんです。
これでいいわけがないのですから。まったく本当に。
そして「どうしたいの?」「どうなりたいの?」と自分にきいてあげたらいい。聞いてあげてみたいです。
それから、まだまだおかげいただけるよ、と^^



今日も一日おかげいただきたく思います。
何事も、お願いしながら(^人^)

いかがでしょうか?

子どもたちの会話を聞いていてとても考えさせられる。

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年齢的なものもあるのかもしれませんが(上6歳、下3歳)、子どもたちなりに一生懸命関係性を築こうとしています。

関係性を築こうとする際、仲良くね、という声かけは個人的にあまり好きではないので(仲良くするかしないかは本人が決めることだと思っているから)僕は言いません。それでも幼稚園や保育園などで自然と耳にしているのかもしれませんが。。

お姉ちゃんが、何か気に入らないことがあり、妹にキツく言ってしまったようです。すると、
「ごめんね」
それに妹が応じます。
「いいよ」

このやりとり。
逆も然り。

ここで考えさせられたのが、果たして自分は出来てるのかということ。大人になるとこのことはとても難しく(そう感じて)思ってしまうのでは、そんなことを思いました。

なんでかなぁと。

「ごめんね」
「いいよ」
たったこれだけなのに。

とても簡単そうで、でもとっても難しい。結果、出来ていないのだから、どう考えても現状では難しいのでしょう。

これは、お取次でも言っていることです。
例えば、夫婦関係で揉めていたら、
「それであなたはどうしたいの?」
と、まずは聞きます。
白黒つけたいのか(結果別れることになっても…)、それとも関係性を築いていきたいのか(別れたくないのか)。

前者でもお願いしながら前に進みますが、後者なら、お願いしながら「ごめんね」が言えたらいいですね、とか、言わずとも思ったり。
「ごめんね」そう言えたら、どれほど楽かと思ったりもしますが、まぁそれも本人が決めることとして。

でも。
言えない。思えない。
あっちが悪いんだから、とか。

自分におきかえても、まったく言えてません。
難しく考えてます。一つひとつを。

考えることといったら、
こちらの正当性だったり、
あちらの非だったり。

「ごめんね」
「いいよ」
で終わることが、謝れないから何年もかかって関係性がこじれてる。現状です。身の丈。

ふーーー。

「それであなたはどうしたいの?」
まったくもって自分にも聞いてあげたいです。
お願いしながら。

いかがでしょうか。


衝撃的な本を読みました。
「鬼畜の家」
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何が衝撃的だったか。

事件当事者(子殺しの親)の心理と自分の心理にそれほど境界線がなかったことに気付けたことが衝撃的でした。

感想はまた折を見て書いてみたいです。

ある記事を読みました。
「お墓」について想うことがありましたので書いてみます。

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ご信心をさせていただくようになって、お墓についての想いは大きく変わりました。また、御霊(故人)についても。

どう変わったかといえば、
『今生きている人のためのもの』
だよなぁと思うようになりました。

親孝行も、親は嬉しいですけれど、遺された、これから生きていく人たちにとっての、大事な生き方、生きていく指針なんじゃないかなぁと、後世に伝えていく材料として。

そう考えると、墓守とか、本家とか、分家とか、もう、まったく関係ないなぁと思うようになりました。

お墓。
どうなんでしょう。

拝む「目当て」としてはあった方がいいのかなぁ、その程度です。その程度の考えになりました。決して、「なくてはならないもの」ではないなぁというのが今の気持ちです。まちがっても是が非でも守っていかなきゃいけない、という対象のものではなくて。

だから、最近よく聞く、
「永代供養」とか、「無縁墓地」とか、とても理解に苦しみます。

誰のために、何のために、何を守り、何を遺そうとしているのかなぁと。
考えられるのは、「怖さ」ですよね。
御霊(故人)が成仏しますように、決して子孫に悪さをしませんようにとか、そんな感じではないでしょうか。それはつまり「怖さ」を継承していってるのでは…(まぁ、畏敬というぐらいですから怖さも必要とは思いますが、第一ではないと思っています)、そんなことも思います。生きている人たちへのものなのに、です。

お墓に対しての考えが大きく変わったのは、ご信心をさせていただくようになってからではありますが、数年前に参加させていただいた「沖縄遺骨収集」の経験が大きかったように思います。お墓は必ず要るものではないなぁと、強く思うようになりました。
この時も遺骨が出たのです。丸々一体の遺骨が、確か2、3体。
実に何十年と発見されることがなかったその遺骨が。今回に限らず、見つかってきているのです、何十年の時を経て。

そこで感じたのが「お墓」のことでした。

遺骨がないのにお墓は作れないとか、そうではないなぁと。
戦時中や戦後なら多くの見つからない遺骨があったであろうという事実。でも、子孫は今も生きています。

このことから、御霊(故人・先祖)を「想う」ということがもっとも大事で(お墓なんかよりも)、それが今生きている人たちに求められることなんじゃないのかなぁと強く思います。これは、お墓の有る無しに限らずに。

また、御霊(故人)を想うのも、御霊(故人)のためかと言われたら、違うんじゃないかなぁと、今生きている人(後世の人たちへ)のためだよなぁとも思うわけです。ある意味、生き方ですから。御霊を大切にするという生き方ですから。

間違っても、本家とか、分家とか、墓守とか、このお墓は守っていってもらわないと困るとか、そんなことではなくて。
「御霊を想う」が抜け落ちて、「墓を守る」が先行しているのが現代なのでは。だから「永代供養」とか「無縁墓地」とか、あなたが長男なのだからとか。
一見御霊を大切にしているように思うのですが、一体誰の?何のために?と、そう思います。

いかがでしょうか。

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