先日、秋の教祖様のご大祭ではじめて、おはなしをさせていただきまして、あらためてこれまでのことを振り返ってみましたら、大きなことに気付けたなぁと思いまして、今日はそのことを書きたいと思います。

一言で言えば、
これまで
「何とも思ってなかった事が難儀のタネだった」
ということです。

僕はこれまで、何事も本人の努力だと思っていました。本人の努力次第ですべてのことが良くも悪くもなる、ということ。

生きていく中で色々な事があります。
人間関係で言えば、相手に対して嫌な想いを抱くこともある、けれどもそれは誰にでもあることで、あえて誰かに言うまでもなく、それぞれが気持ちをあらためて、見方を変えて「努力」という形で乗り越えていくものだと思っていたのです。

ここが違いました。

努力で解決するのならば、じゃあ、努力できない人はどうするの?という話です。

僕の場合も、まぁギリギリだったと思います。努力しようとしながらやることなすこと上手くいかずに「もういいかなぁ」とも思ったことが何度もありました。日々、訳分からずにイライラしてるのです。それはもう朝起きた瞬間からイライラが頭の中を駆け巡ってました。出勤時の満員電車も原因の一つでした。

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これらも努力で、本人の努力次第で、もしくは工夫次第でどうにかするものだと思っていたのです。だから生きづらく、諦めたくもなっていました。

それが、ある時、
お取次をいただいて、
「僕はこう思ってる」
ということを『そのまま』聴いてもらったんですね。

で、ここが重要なのですが、
『そのまま』
聴いてもらったんです。

だから、「それはあなたがいけない」とか「もう少し視点を変えてみたらどう?」なんて言われた日には、聴いてもらったとは感じなかっただろうと思いますし、また、僕の努力かぁと思ったことでしょう。

そのまま、です。

「そう思ってるんだね」
と言われたんです。
僕としてはこの言葉は衝撃的でした。

そこからまぁ、出るわ出るわ。

これまで、
「こう思わなきゃいけない」とか
「こんなことを言ってはいけない、思ってもいけない」とか、
道徳とかモラルとか、よく分かりませんけれども、一般的にジャッジされがちな空気で、自分で自分のこともジャッジしてしまっていて、「本当はこう思ってる」ということを心の奥底にしまい込み続けて、それらがまぁ出てきました。

そのことどもを『そのまま』聴いてもらって僕は救われたんだと思います。

もちろん、そこには祈りや願いもあったのだろうと思いますが、僕は『そのまま』聴いてもらったことがただただありがたかったなぁと。
だから、今僕はそのことを、『そのまま』聴くことを大切にして、苦しんでいる人の話を日々聴いています。


「努力」でなんとかしないといけないと思い込んでいる人、世の中にたくさんいるのでは、とわが経験もまじえて想像しています。

そして、
『そのまま』聴いてくれる場所もなかなかないんだろうなぁと思います。だいたい、何か言われてしまって、また、出そうと思っていたものを心の奥底にしまいこんでしまうのがオチではないかと。

それでは、しまいこむのを繰り返すだけで、根本的に何も変わらず、そしてまた努力を強いられるだけではないかと。自分で自分に努力を強いるんです。辛いです。生きづらいと思います。

努力出来る人は良いです。
そのまま努力されたらいい。
問題は努力出来ない人、自分なりに努力はしつつも、側から見たら到底努力とは思えない人、でもそれが限界なんだという人、努力したいけど出来ないという人、当時の自分も含めたその人たちです。

大切にすることはこのことなんだと、その辺が、今回のおはなしでクリアになりました。

何とも思ってなかった事、本人の努力次第で解決するべきと思っていたことが、その考え方自体が実は、難儀のタネだったんだろうなぁと。そしてこのことを抱えている人は世の中に多くいるだろうなぁと。自己責任とか言われる今の時代は特に。

言葉だけじゃなく本当に心の底から、
そう思ってるんだね、とか、
これまで頑張ってきたね、とか、
ここからおかげいただこうね、と思えるかどうか、目の前の当人に言えるかどうかが課題でもあるなぁと思います。

間違っても、
あなたのここがダメだからおかげいただけない、などと言うことが無きようにしたいです(これまで金光教内でもよく聞く言葉でとても嫌な言葉でした)


○おまけ
僕のおはなしを聴いて「み教えで裁く」という言葉が印象的だったと言ってくださる方もいました。話す前までは考えてなかった言葉です。神様が言わしてくださったんだろうなぁと思います。み教えで裁く宗教家だけにはなりたくないなぁと、そのことも新たな願いとなりました。

[受け止められて、何が変わるのか]

一言で言えば、
受け止めたくなりました。

してもらったことを、する。

相手については、境界線はありません。
ここは宗教の持つべき大切な部分と思います。
みな神の子
という世界観が僕の中にインプットされたから、相手は誰でも、なんです。本当に。わが子も、誰の子も。大きくは変わりません。

だから、相手によって、受け止めたい、受け止めたくない、が変わるのはどうなんだろうと思ったりしています。それってあなた、本当に受け止められたの?と聞きたくなります。直接は聞かないですけど。

つまり、境目を持つということ。
この人は受け止める(たい)
この人は受け止めない(たくない)
だと、知らず知らずに受け止めたい人へも変な境目を持つんじゃないかなぁと。

「そんな子はうちの子じゃありません」とか、その境目って何?と。
僕は、どんな僕でも受け止めてくれる、と感じたんです。そこに境目はないですから。

この教会でも、お参りしてる人が新しい人を指して「変な人」と表現したりします。自分のコミュニティに変な人が入ってきた、そんな意味なんでしょう。

悲しくなりました。
と同時に可哀想だなぁと。
その境目思考が…

変だから困ってるんでしょう。
僕だって自分のことを変だと思ってます。
というより、言ってるあなたはご自分のことを変だ、と思った瞬間はないのですか…と。
そんな気持ちが入り混じります。

話を戻します。
それもこれも境目なんでしょう。
どんな僕でも、どんなあなたでも、が受け止めるには必須で、それは経験するよりほかない、ということだと思ってます。

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自分がどの位置にいるのか。

本当の自分を出したが最後、誰からも受け入れられなくなってしまうー、そう思って生きることほど辛いことはないと思っています。

おわり

取次者と出会い、自分を見つめる旅へ。自分を見つめることに取り組もうと思えたこと。

このことは、今考えても不思議なことですし、あの僕が?と自分で自分に未だに言いたくもなります。

それもこれも取次者と出会って、『受け止めてもらった』からこそ、この僕の中から出てきた想いなのだと感じています。

『受け止める』

受け止める本人が「受け止めたい」と思っても、受け止める側が「受け止められた」と思わなければ成立しないことと理解しています。親の愛なんかもこれと同じかと思っています。「あなたのことを思って…」「頼んでないし…」は不成立の典型です。

僕の話ですが、何で「受け止めてもらった」と感じられたのかなぁとずっと考えております。考えて考えて、今、言えることは、受け止める人がそもそもで受け止められたからだ、ということです。

とんちのようですが、これは「連鎖」のことを言っています。

経験したことない人が、経験したことがないことを施そうとしてもそれはうまくいかないどころか、かえって相手を傷つけてしまう(期待をさせて失望させる)ことにもなります。

だから経験が要る。その経験ですけれど思うに、これも一生かかることなんじゃないかなぁと思ったりしています。

悟る、と言われるように、死ぬまでブレない、と感じたり実践できたらそれに越したことないですが、僕は、一生かけて受け止めていく、覚悟のようなものは万人に手渡せるのではと、そのように思いながら日々の御用に当たらせてもらってます。

親の愛情も途切れたらそこまで。
受け止めるっていつまで?それは一生のことです。

まとめると、取次者に相見えて僕は、

一生、この人は裏切らない
どんな僕でも受け止めてくれる

ということを感じたから、受け止めてもらったと感じたんだろうと。

その一生は、自分で一生生きてみて確かめるしかほかありません。
でも、生きているうちに、人に対してそのような感覚になれたということがもう、ありがたいのかと思うわけです。

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以上、受け止めるについて、でした。

次は受け止められて何が変わるのかについて書いてみます。

つづく

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