読書感想文。
↑こんなツイートを目にして、面白そうだなぁと図書館で予約してみました。

今回読んだものは、
お金のいらない国3
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図書館から借りる関係で3から読んでます(1、2、3と同時期に予約して一番早く貸し出しになっただけ)。
3から読んでも、というより3だけ読んでも、とても考えさせられるーと思いました。

お金。

僕の中でも知らず知らずに「なくてはならないもの」になっていて、そのせいで生きるのが苦しくなったり、僕と同じように度合いは違えども苦しんでいる人がいます。そのような人たちへ警鐘を鳴らしている、そんな内容でした。

すごく読みやすくて、一冊15分ぐらいで読めました。

その中で「お墓」のことが書いてあり、とても共感出来ました。

宗教家として日々御用させていただいて、御霊様のことは常日頃から考えて、もちろんお墓にも思い入れがあるのは確かなのですが、僕の個人的な気持ちはずっと前から「お墓不要」でした。

本の中では、先祖を敬う対象がお墓参りという前提で話されていますが、それを覆す内容で、[何代か前を遡ればみな先祖は一緒]なのに「〇〇の墓」っておかしいよね、というかもっと大きく考えようよ、そんな問題提起で、それがとても分かりやすく、共感しました。

僕は、拝む目当ては必要と思います。
でも、それがお墓じゃなければいけない(結果、形として)、がずっと疑問でした。
必死になって守るものでもないと思ってます(後世のものがお墓の継承問題で揉めるとか何なんだろう、と)

形が心を作る、とも教えられそれはもう大切にしていることですので「参る」「何かに縋る」ということはとっても大事と思うのですが、そのために墓を作って、その墓を必死で継承してとか、その辺はもっと合理的に、拝む目当てはそれこそ霊璽や位牌でいいと思うのですが。(持ち運べるぐらいの)

とにかく、お金にまつわる、僕も含めて「常識」と思われている事どもを、大きくひっくり返している内容と思います。

それからこんなのも。
「根本原因は所有」
これもとっても共感し、分かりやすい表現に膝を打ちました。

[私のもの]
そう思ってしまうから、奪われないように、出来る限り多く獲得するように、そんな発想になるのだなぁと。

お墓もそうかもしれません、
私の墓、〇〇家の墓とか、
何代か遡って先祖は一緒であるにも関わらず、、、
もっと大きく、みな神様の氏子、ただそれだけで、すべて天地のお恵みをそれぞれに与えられあえたら…この本を読んでいてそんなゆったりとした気持ちにもさせてもらえました。

まだ読まれていない方は是非。
ホント15分で読み終えられます^_^

いかがでしょうか。

こちらもよかったらぜひ↓

毎日いろんなニュースがありますが、
たとえば犯罪のニュースを見て、加害者に対して「怖いですね…」とか「悪い人が近づいて来ませんように…」とか言われる方に出くわす度、「あれ?」と思うようになりました。これは信心してからと思います。

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「怖いですね」とか「近づかないように」はよく分かります。でもその言葉の奥には、犯罪者は自分とは別物、異質のもので、自分の家族とも別物で、おかしい人で、だからおかしくない私や私の家族には近付かないで、という言葉になるのかと。
もちろん「近付かないように」は願いとしてごもっともですし、そのまま聴かせていただきますし、その想いもものすごくわかるわけですけれど、極端に言って、自分と犯罪者を棲み分けしてしまうと、「あれ?」って思ってしまうのです。先でのこと。

自分は大丈夫、とか、うちの子にかぎって、も同じかもしれません。

そのような思考で、人を見ていると、また自分を見ていると、そうやって見ているから犯罪も繰り返されるのではないのかなぁと。

生きづらさを抱えている人もそう。
周りからしたら、怖い存在、近付いて欲しくない存在かもしれない。多分そうでしょう。それだって、近づいて欲しくないとか思われてたら良い気はしないと思います。はじかれているのですから。

僕自身、信心してからですが、犯罪者を見て「可哀想だなぁ」と思うようになったのと、「もしかしたらこれは自分だったかも」と本気で思うようになりました。ホントにスレスレだったと。

世の中、さもありなん、と思います。

自分は大丈夫、では、はじかれた人を見ることなど出来ないですからね。
そんな人見たくないです、ならそれはそれで良いとも思いますが、いざ自分がはじかれた時、ですね。どうなんでしょうね。

いかがでしょうか。

このツイートからいろいろと考えさせられました。
加害者を怪物にして「私とは違う悪い人」…
ものすごく共感しました。

良かったらこちらもどうぞ。


受け止めてもらったこと。
誰かに。
だから人は生きていける。生きようと思える。
という方程式のようなものが腹落ちしました。

金光教の信心は独特でして、
スタートが
「人が助かりさえすればよい」
なのです。
だから、こう生きなければああ生きなければというのがまったくなくて、けれども『天地の道理』に反した生き方をしていたら苦しくなるのもこれまた道理で。でも…そんな天地の道理を守れずに
どうしても苦しんでしまう人でさえも、というよりそんな人こそ、大海原のように受け止めるのが、そもそもの神様の役割と、それが始まりです。 

だから、
受け入れない人間はいないし、
これからも、どんなことがあっても、どんなことをしても(綺麗事に聞こえるかもしれませんが)、受け止めるんですね。少なくとも、金光教の神様[天地金乃神]を現す宗教家は。僕も含めて。

あなたのその生き方が…
とか
あなたのその考え方が…
なんてことは言わない。
言われて受け止めてもらったと感じる人なんて皆無でしょうから。

でも、
繰り返しますが、
そういう生き方をしてたら詰まる、
そういう考え方をしてたら上手くいかない、っていうのは事象として起こってきます。

だから未然に防がないということ。それも金光教独特の雰囲気、受け止め方で、取次の仕方なのかと思います。

信心したら暮らし向きが良くなった、ということでも内実、自分のことはまったく分からないということもあるのではないでしょうか。
そんな信心ではありません。
どこまでも自分(あなた)を見ていく。一緒に。
あなたの生き方を。
あなたの考え方を。
そこに答えなんかありません。もちろん大切にすること(天地の道理)はあれども、それぞれの立場が違うでしょうから、理解度も、苦しみ度も違うでしょうから、こうしなさい、ああしなさいは一切通じないでしょう。(知らずにやっていた教師なりたての頃を思い出し猛省しております)

一緒に歩いていく。
あっちにぶつかって、こっちにぶつかって、でも横を見たら先生(自分を受け止める存在…この存在から神様を連想)がいて。
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↑こんな感じではないけれど。。

人間として。 

とても必要なことですから、これは、時代がいくら変わっても、テクノロジーがどれだけ進化しようが、人が人を助けるというのは、人を受け止められるのは人だけというのは、未来永劫変わらないのだろうなぁと確信すらしています。

ただ、信じる、というのも怖いものですので。
これは経験した人でないと理解に苦しむことなのかとも理解しています。

いかがでしょうか。

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