「それで良いよ」
「そのままでいいよ」
その言葉で救われる命がある。

どうして、その言葉が言えないのだろう。

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「〇〇しなきゃダメ」とか、言葉にしなくてもそう思っている人の近くにいると、妙に苦しくなる。

私もそのように育てられてきたし、そういうものだと思い込んでいましたが信心いただき違うなぁと思い始めました。

周囲の願いとしては、今より良くなってほしいと思う心の現れからの言葉なのかもしれませんが、自信が持てない人ほど現状の否定になる。

だからダメなんだ

になってしまうのです。

どうするか。

そのままで良いよ
そのままが良いよ
と嘘偽りなく言い続けられるかどうか。
言い続けるということは、それを言う自分の中に混じりっ気がないように稽古していかないといけないということ。

プラス、未経験は表現できないのですから、まずは自分自身が「それで良いよ」を誰かに言い続けてもらうのも大事かと。

だから、私は、その誰かのために「それで良いよ」と言い続けたいです。

信心にはお参りがつきものですが、教師になりたての頃はお参りしてない人に否定の気持ちが強かったです。
お参りしないから〇〇とか。

お参りは大事なんです。

ただ、今出来てるところを見ていかないと、そしてそれを強く言葉にしていかないと、お参りが大事と言うメッセージも伝わらないどころか、それこそ強制、させられている感につながってしまうでしょうから。

まずは今です。

今、それで良いよ、です。

本来、命をいただいている今なのですから、そのことの御礼を神様に申し、氏子には、それで良い、ありがたいねとジャブを撃ち続けるような感じです。

これもそれも、
とっても自信が持てない時に、何もかも投げ出したいと思っていた時に、周囲からは「このままじゃ…」とため息しか出ないその時に、
現状を認め受け止めてもらえた自らの経験から、今、私は元気に動けているし、心から伝えていきたいなぁと思えているのだろうと思います。

これも、経験ですね。

いかがでしょうか。

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昨日の「誰のおかげ?」に続きますが、
伝える人が注意しておかないといけないことだと思うことを書いてみたいと思います。


信心しておかげいただき次、
信心を伝える際に注意することです。
伝える際、少しでも、神様以外のものが混じると、伝えようとしても、それでは伝わらなくなってしまうことがあるのでは、そう思います。

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伝える流れとして、大抵は、親から子です。

その親が、「誰のおかげ」ということで、本当は神様のおかげであるのにも関わらず(それしかない!)、人やモノや、薬のおかげという趣旨の発言をしてしまうと(もちろん薬をいただいて鎮静したとしても…)、それでは、伝えたい対象の子が迷ってしまうのでは、そのように思っています。

もちろん、お薬のお力もいただいて、です。
お医者様のお力もいただいて、なのですが…
その大元の、すべては神様のおかげなんだと表現するか、もしくはここまでのおかげをいただけた神様に対して御礼申させていただくねとか、そうやって発言を閉じないと、
薬や医者のおかげで終わってしまうと、
「あぁ薬のおかげなんだ」
「あぁお医者さんのおかげなんだ」となってしまって、
信心がなければない人ほど(子は特にないです)、目に見える働き(医者や薬やモノ)の方に想いが引っ張られますので。。

伝える親も、
そんなつもりじゃなかった、
本当は神様のおかげなんだよ、
そう思ったとしても、
タイミングとか、大事と思います。
あとは、淀みない熱というか、その瞬間瞬間でしか表現できないものかと、本気で思っていますので、伝える側として、言葉遣い「も」、とても注意しています。
伝える子側の判断に過ちがなきようにと、そしてまた、私としても良きタイミングで、しっかりと神様のおかげを伝えられるようにと、そのことだけを切に願っています。

教祖様は、
信心してくれや
と仰せられました。

信心しておかげをいただいてくれや
ということです。

やっぱり、伝える側に迷い(照れも含めて)があると、伝わるものも伝わらなくなると、そのように思っています。

いかがでしょうか。

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感謝するとき、必ず何か対象があります。

〇〇さんのおかげ
●●がよかったから
とか。

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信心させていただき、これらすべてを「神様のおかげ」に出来たら、とても楽だし、先々でおかげをいただき続けるだろうと思えるようになりました。

たとえば病気になり入院したとする。

名医と呼ばれる先生に執刀してもらうとする。

大抵は、
この病院、このお医者さんあって助けていただいた
となります。

それはそれで間違いでもなんでもないのですが、その考えだけではどこかで詰まります。
じゃあ、名医に当たれなかったら…、施設が整っている病院にかかれなかったら…、そのときどう思うのか。絶望しかないのでは。

けれどもその裏にある、間違いなくある神様のお働きにまで目をつぶるというのは、如何なものかと思うわけです。

手術を終えたある氏子が言ってました。

「神様のおかげで」この病院にかかることができた。
「神様のおかげで」名医に執刀してもらうことができた。
「神様のおかげで」ここまで回復させていただけました。

それが本当のことです。
聴かせていただき、ズレてない、ありがたいなぁと思いました。

だって、神様のお働きいただかなければ、一分一秒も生きていられないのだから。

病院も名医も、たかが知れてる。有限です。

無限におかげをいただくこと、それはご信心なくして語れません。

本来そうなのですが、我々人間がそのことをどこまで分かっているのか、そして分かった上でどこまで御礼が申せているのか、すべてはそこにかかっているなぁと。

もちろん、病院にも、お医者さんにも感謝したらいい。実際に手を動かしオペをしてくださったのですから。
でも、その奥にある(名医の奥にある)神様の尊いお働きをうやむやにすることだけはなくしていきたいなぁと思うわけです。切に。

ことここにお参りされているのなら、その辺りの感度は持っていないと、それこそ時代に流され、子や孫に信心を伝えていくなどとてもじゃないけれど難しいとさえ思っています。

今後、医療もますます発展するでしょうし。

ただ、その奥にある無限の神様のお働き、ということです。

『神様を離した時が一番恐ろしい』

それは目に見えるものに移ろいやすい人間の恐ろしさを教えてくださっていることと思うのです。

そして、そのことを私は、伝えていくためのお役をいただいているのだと強く思うようになりました。

いかがでしょうか。

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