「宗教」とか「教祖」とか、
怖さを連想させる言葉。

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それは、これまでの歴史が物語っていて、「怖さ」を連想してしまうのも無理はないかなぁと、正直思います。

僕も、よくその「怖さ」を耳にしますし、直接にも聞きますし。
そのときに、これまでは一つひとつ説明していたなぁと思い出します。
たとえば、「金光教の神様は怖くないですよー」とか、「金光教の教祖様は元は農民でね、かくかくしかじか…、怖くないですよー」だとか。

最近では、あまり説明も要らないのかなぁと思い始めています。


僕は信心始めに、
信じるというのはどこか怖いものと教えてもらったから強く思うことなんですが、
まずは、「怖さ」を当人が受け入れていくことこそが、誰もに必要なわけで、そんなことを思い始めた具合です。


信じるのは怖い、なぜか…?

それは言うまでもなく裏切られるかもしれない」という想いが、信じる裏側にあって、それは誰の心にもにあるからなんだろうと思います。

信じるって、身体ごとですからね。命丸ごとです。一生もの。
そりゃ怖いに決まってます。私の人生どうなっちゃうんだろう、と真剣に考える人ほど「怖さ」を感じるのはアタリマエだと思うわけです。

そこを、あれやこれやと、のらりくらりと、「怖くないですよー」とかわす必要はないんじゃないかなと。むしろ、その「怖さ」を『一緒に』乗り越えていくことが必要なんじゃないかなぁと、最近思うわけです。それは僕が経験してきたことでもあります。

だからといって、「怖さ」を助長する必要もないわけで。すんなりと「信じます」なら、それはそれで良いのですが。

「信じるのが怖い」と思う方には、「怖くないですよー」と説明するのでは無しに、お願いしながら『一緒に』その「怖さ」を乗り越えていってもらいたいなぁと思うのです。
時間はとってもかかりますが。それで良いのだろうと。

今日も少しずつではありますが、使っていただいております。
これが僕の命の使い方、ありがたいなぁと心から感謝しています。

いかがでしょうか。

先日ある氏子から、次のように言っていただきました。
「(これまで言えなかった悩みを今)お話ししようという気持ちになっているのは、先生にお取次ぎをいただくようになってから、諭すでもなく、話を取り上げるでもなく、まとめるでもなく、叱るでもなく、すべて受け止めてくださる先生の姿勢に、全幅の信頼を寄せるようになったから」

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素直に嬉しかったです。
今まで聴くこともなかった(出来なかった)悩みを聴かせてもらえたことが嬉しいのはもちろんのこと、受け止めてきたその内容がちゃんと「伝わってたこと」がとっても嬉しかったです。

諭すでもなく、話を取り上げるでもなく、まとめるでもなく、叱るでもなく、すべて受け止めてくださる
これはそのまんま、これまで私がしてきてもらったことです。経験してきたこと。だから氏子にも出来たんだと理解しています。

またいつしかのお取次で私は、「あなたにはそれほど期待していない」とも言われました。会社勤めの頃ならとてもショックなこの言葉も、今の私にとってみたらとても心地が良いものだったのです。

それは、期待する、叱る、正す、まとめる、それから成長を喜ぶなど、親が子に抱く自然な感情に、いつからか苦しくなってきたからだと悟りました。

期待するは、現状、成果をあげられていない自分を。叱るは、現状、叱られることをしてしまっている自分。
正すは、現状、性格がひん曲がってる自分を。まとめるは、現状、まとまりのない自分。
成長を喜ぶは、現状、成長できていない自分ということ。
これら親が子に抱く自然な感情が、「受け止める」ということを理解していないまま与え続けられると、子の「現状の否定」につながってしまう、ということを知りました。
今上手くいっている人だって、この感情の上では、危ないと思います。先々上手くいかなくなったときに自分の存在が否定され、身の危険につながるのではないでしょうか。

神様はどうか。
言うまでもなく存在自体で受け止めていますね。
決して、何かしないと(成果をあげないと)受け止めないなんて、そんな神様ではないはずです。

このことをお取次をいただき、生身の人間(取次者)に受け止めていただき、私は理解できるようになりました。

また、不思議なことに、期待していないと言われたとき、「出来ないながらに何かさせていただきたいなぁ」という感情が湧いてきたのです。
これこそ、人間それぞれの命を生かす神様の愛情なのではと思ったほどでした。

何も難しいことはありません。受け止めてもらった経験そのままに、難儀苦しむ氏子を受け止めていくだけなのですから。

いかがでしょうか。

「神様ゲーム」という本を買って読みました。

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特に「読みたい!」と思って買ったわけでもなく、図書カードが財布の中にあったことと、手頃な値段なことと、「神様」という言葉が入っていたのと、表紙の絵から簡単に読めそうだなぁと思って買ってみました。

読んでみて。
宗教家として、読んでみて、、、

まず、神様の設定が面白いなぁと思いました。
神様には感情がないと書かれてました。
だから、そもそもで、人間がどうなろうと知ったことではないという神様目線のスタンス。
また、人間は、物事を疑うように作ったという前提もおろしろかった(将来に対する不安や疑いがあるから種を残そうとしたという話、逆に不安も心配もなければ子孫が残らなかった失敗例だとか)。
だけれども、神様には感情がないのに、暇潰しに話した主人公の少年の願いを聞き届ける部分なんかも、矛盾してますが、親近感わくというか、何か妙に納得してしまいました。

あとは、人間模様ですね。どうにもいたらない人間。ヒーローでも悪さするよ、ということ。
人間の二面性、三面性。
その辺は特段驚きもせず。
ただ展開の早さにはゾッとはしましたが。あとは女性同士の、と。
まぁ、結末も飲み込めました。


神様には感情がない。
ここは金光教とは違うところですね。ほんとのところは?教祖様が親と子の関係で、と、それを信じているに過ぎないのか、真実は?なんてこともチラリと。

暇潰しに人間の願いを聞き届けてくれる所。
これは金光教に何か近しいなぁと思いました。

やっぱり神様は、
「ある」「ない」で論ずるのではなくて、
どこまでも、
「何」を信じるかどうかで(あると信じるも一面)、そうすることでわが心に浮かぶ感情も変わってくるのだろうなぁとあらためて思いました。生きやすくなるか生きづらくなるかも踏まえて。

あらためて、
何が真実なのかは知りたいと思いました。個人的に。謎は究明したい。
だから、近くに神様がいたら聞きたくなるよなぁとも思いました。
ただ、、真実を知った上でその先をどうするかが大切なことではあるのでしょうが。

この本の主人公(小4)の先の未来を案じました。
真実を知って(神様から教えてもらって)、で、その先どうやって生きて行くのかなぁと。神様と信じた対象も消えた中、、、

おそらくあの後では、何も考えられないし、どうしていいか分からなくなるのでは、そんな気もしました。

とすると、知りたがってる真実よりは、それよりもまずは、どう生きて行くかを考える方がやっぱり大事なんだろうなぁと。

でも知りたい、、、ですね。

面白い本でした、買って良かったです。


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