相手に何か言われて腹の立つことや、ガッカリすることが度々あります。
多分この先もあると思います。

逆に、自分から相手へも同じようにしている場合があるのでしょう。
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まぁ、相手がどう感じてるかはいよいよ分からないので注意はほどほどにして、まずは自分の腹立ちとかガッカリとかと向き合うことが先決で、というか今ではそれしか出来ないのかなぁとも思います。それしか出来ないけどそれは出来る!!

いつしか、
腹が立ったり、ガッカリするということは、
『相手のそのままを飲み込んでないから』
とある人に言われて、ものすごく合点がいきました。

腹が立つということは、相手のことが納得できてないことの現れです。
ガッカリすることは、相手に期待していることの現れです。

たとえば、言われた相手(ここではわが子や大事な人です。上司とか嫌な人とかは除外)に、助かって欲しいと願っているのであれば、その人を丸抱え、すべてを受け止める覚悟のようなものが必要で、その上でまだ、腹が立ったり、ガッカリしてるのなら、腹を立つことを言う相手、ガッカリさせることを言う相手が問題ではなく、その助けたい相手を丸抱えられない、助けたい相手のすべてを受け止められない「自分」に問題があるのだなぁということに、合点がいった次第です。

そう考えると、助けたい助けたいと言いながら、変わらない相手を目の前に腹が立ったりガッカリしたりしてるのですから、骨が折れるのはホントですが、いつぞやは自分が邪魔してるとも思ったりして、もう助けたいなんて大それたことは言わないでおこうかなぁとか思ったりも正直しますが、今では、これも通るべき道なのかとも思えたりしますね。ここはそんなに深く考えずに、自らがお育ていただくということで。

ましてや、自分が相手の目の前からいなくなってしまったら、目の前の相手を助けたいと本気(本当の本気)で願う人なんてそんなに現れないでしょうし、ここは正念場なんだろうと思います。お育ていただきながら。

ここまで考えると、
ホントに、こんなの「親」しか出来ないよなぁと思います。親ってやっぱりすごいなぁと。※親は産みの親のほかにもありますので、親子関係が上手くいってない人はこちらもどうぞ↓

わが子から、腹立つこと言われて、ガッカリすること言われて、それでもそんなわが子のことを願って祈って、丸抱えにして、すべてを受け止めてとか、狂気の沙汰です。愛情とか一言で綺麗にまとめられるほどのものじゃない。ケースによっては荒れ狂うわが子にしがみついてでも、ですから。狂ってます、変人です。

『変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ』
と教祖様。

親子関係、愛情の授受、一筋縄、一朝一夕にはいきません。
諦めそうになる時も多々ありますが、そんな時こそ取次者が側にいたら、もう少し、あと1日がんばってみようかなと、そのような気持ちにもなれるのかとも思っています。

そのような人たちめがけて。
この命を使っていただけますように。

いかがでしょうか。

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先の不安と信仰の関係性について。
分かりやすいのは医療。

専門家ではないので詳しくは分かりませんが、今日医学が発展し、教祖が生きていた160年前と比べると医療で「治せる」病気が増えたことは間違いなさそうです。

ただ、このご時世、病名も増えました。

以前なら「なまけ病」と言われていた類も〇〇症とか、今では病院で何かしらの悩み事を打ち明けたら、病名がつくのかなぁと、個人的ですが、そう思ってます。そして薬が処方されて。

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薬と信仰も密接です。

「信じる」という点では、薬もお医者さんも、信仰に入るのかと思いますが、どこまでいっても、「物」「人」なので、有限で折れやすくも感じます。

何が言いたいかといえば、

信じるものの確定が、どの時代においても大事なんじゃないかなぁと思うわけです。

『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ』

と教祖様。

医学が発展してなかったあの頃だから必要だったのでも何でもなくて、
医学が発展した令和のこの時代においても、物では行きつけない、人では行きつけない、神の領域というのは必ず存在して、その部分においての信仰は求められるのではと思うわけです。

信仰は、
弱い人がやるもの
とイメージされがちです。

それは、
考えることをやめる
を連想させるからだと思います。

決め打ちですから。
この神様、
この信心、
と。

でも、
さらに時代が変わって、
医学がもっともっと発展しても、術後の経過の部分(もちろん日常の生活の中でも)で、神の領域は残り得ると、そんな確信というか、悟りに近いのかも知れませんが、これも個人的にですが強く思ったりしています。

信仰がない人は、
先の不安視がちゃんとできてない人だと
私は思います。

神様に生かされてる、
とか、
神様から離れたらいつお暇(命に関わること)が出るか分からない
とか、
そういう世界観で、
一言で言えば、
常に死を連想できる今を送っているかどうか
によると思うのです。

今日も明日も変わらずに生きてるだろう(先の不安視が出来てない)では、
とてもじゃないですがその状態では信心なんて必要ないですから。ただ、先で詰まります、何か起こった時のことです、危険予測(現場用語)に近いのかも。

それが、
信心させていただくと、クリアになります。
今の今がハッキリとクッキリと色濃く映ってくるのです。

それが丁寧に生きることだと思うのですが、
これも強制は出来ないことと理解もしています。

あくまで、
生きることへの疑問、先への漠然とした不安、もしくは変な楽観視で生きている人(何かあるとすぐ折れがち)へ、
信心を伝えたいなぁと、
伝える相手が明確になりつつあるのもありがたいのかなぁと。
そこめがけて、です。

今日も神様に生かされております。

いかがでしょうか。

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相手に気を遣っているかどうかで、自分の意見は変わるのかもしれません。

自分がどうしたいか。

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自分がどうしたいか、とかよく聞きます。
私も話を聴く上でとても大事にしているこのことも、まずもってその人が日常をどう生きているかで変わってくると思います。

他人の目が気になる生き方をしていれば、自然と他が喜びそうなことを自分のしたいことに置き換えるかもしれませんし、それはモヤモヤとはしつつも、これが私と言い聞かせていたり。

逆に、他人に何と言われても…と思っている人の自分のやりたいことはとても強く、けれどその強さが周囲を傷付けているかもしれず、そのことは知っといてもいい気がしています。誰に何と言われようとも、なのですから。

その上でどちらを選ぶかはそれぞれで。
バランスのことも一時期よく考えました。

ようは、他人の目も込みで自分なんだ、ということだと思うのです。気にする気にしないも含めてのことです。

かといって、結局、相手のことはどこまでも分かりません。ましてや自分のことだってあやふやです。自分の考えすら、日々の生き方で変わるのですから、こんな不安定極まりないものと一生涯付き合うのかと考えただけで発狂しそうにもなります。なりませんか。

これまでの私がそうでしたが、そういう場合、自我を押し殺して周りに合わせよう合わせようとしてきたから発狂せずに日々を送れていました。

でもそれだと蓋をしているだけだと後々気付き、気付いた時には結構遅かったなぁと思います。反動の末の発狂を目の当たりにしました。

だからこそ、ここまでの一連のこと(人間とは、みたいな話)をまずは頭で理解して、自分という得体の知れない存在がどうして成り立っているのかと少しでも考えることが出来たなら、その上で一つひとつお願いしながら選択していくことも、一手なのかと思ったりしています。

知ると知らないとじゃ大違いですから。

相手がいて、私がいて、神様がいて…
相手の思惑があって、私の感情があって、神様の願いもある。
相手にも、自分にも、神様にも、すべてに合わせる合わせないもしなやかに考えていけたらいいかなと。

神様は、
人が助かりさえすればそれで結構
と神様の意思を教祖に伝えました。

これはホントに言葉のまんまです。

助かればいいんです。

じゃあ助かるって何、ですが…

それはその人にしかいよいよで分かりません。

私は、「ありがたい」が出てくることを助かりの基準と捉えてます。
神様にでも、親にでも、物にでも、何にでもいいのですが、その人の口をついて「ありがたい」が出てくることに。

色々と日々考えていますが、人間の心ほど、不安定なものはないように思います。
対して、自然は一定です。
そこに理由はありませんから。
流れていくものです。

天地自然(神様)が大天地
人間が小天地

風が吹くように、雨が降るように、陽が照るように、
私たちの心も、水のように形に合わせ変えながら生きていけたら楽だと思いますし、奥底からの「ありがたい」も出てきやすいのかなぁと思っています。

ありがたいって、
「生きてるだけでありがたい」が
やっぱり最強ですから。
それ以外に何があるのかとも思います。

生きてるだけでありがたいを阻害するものが日常にはたくさんあるのです。

あの人が嫌、
仕事が辛い、
財的にピンチ、
病を抱えてる、
頭が痛い、
腰が痛い、
手首が痛い、
首が回らない、
何故かイライラする、
寝られない、
食べられない、
どうしても考えてしまう、
気になってしまう、
辛い、
苦しい、
しんどい、
死にたい、
でも死ねない…

何かを抱えながらも、今、紛れもない私と向き合うことが大切に思います。私も、一人だとしんどいので、取次者と一緒に、神様を杖にして、わが命と向き合う稽古を今日もしております。

いかがでしょうか。

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