2011年9月のつぶやき

9月1日

 若造の頃は、造花を飾る人の気が知れなかった。しかし、今はたとえ造花であろうと、花を飾ろうという、その人の気持ちが分かる。今日乗った気配りの行き届いたタクシーに造花が飾られており、僕は一時、気分が良かった。

9月2日

 魔女の世界から派遣されて日本の工科大学に入学して科学を学ぶ少女の話。このタイトルを仮に「淋しくチャオ」にしていたが、今日最終タイトルを決定した。「魔法少女チャオのQ.E.D」。Q.E.Dとは数学や科学や哲学でも末尾に言われる「証明終了」の意味だ。

...  有名探偵が謎を解いて事件を解決して最後にQ.E.Dという。魔法と科学の間で矛盾や苦しみと戦いながら愛とか友情を育ンでいくチャオの証明終了という意味だ。学ンだあとは魔界に帰るのか…

 魔法界が科学を受け入れる過程って、バチカンが科学や進化論を受け入れるに至った過程に重なる気がするなあ。

9月3日

 この台風12号にはまいった滅入った困った。早く失せろ。

9月5日

 高橋留美子が雑誌のインタビューか何かで、僕に教わって一番役に立っている事は「机の前に一時間毎日座れ」という事と言っていた。そのワケを説明しよう。机の上に原稿用紙を置いて、何も描かなくていいからその原稿用紙を見つめてキャラクターを生み出そうと努力する。

 原稿用紙を見ないで空間を見つめてものを考えると、人間の考えは宇宙の果てまで拡がっていく。小さな原稿用紙に入り切れないたくさンのことが頭の中で渦を巻く。
 
 紙の文化であるマンガには、巨大な宇宙船やスーパーウエポンなどは原稿用紙に入らない。それは、動きと音のある映像の世界の事だ。続きはまた明日。

 目的が手段を正当化してはいけない。電力を得るという目的が原発という手段を正当化してはいけないのだ。いかなる目的があろうとも、戦争という手段が許されない事と同じように。しかし、自分自身も末端において加害者として名を連ねている事を深く心に留めておかなければ。

9月6日

 この競争社会の中で、他人に勝つどころか、自分にさえ負けそうな時がある。そンな時に絶対にやってはいけない事は、「憎む」という事だ。他人であれ、自分であれ、決して憎ンではいけない。その負のパワーに引き込まれると、前に向いての一歩は踏み出せなくなる。

9月7日

 「キャラクター新論」机の前に一時間座って原稿用紙を見ている。そして、自分のイメージを広げていく。そのイメージは原稿用紙に遮られるから、原稿用紙の大きさを超える事はない。

 例えば、ジャンボジェット機、スターシップ、戦車、カーチェイス、ニューヨークのビル街、その間をチョロチョロ走り回ったりするものなどは描かない。自分のイメージが、キャラクターに絞られてくる。

9月7日

 だから、原稿用紙(画用紙)をじっと一時間見つめる。そうではなくて空間を見つめると、イメージは無限大に広がっていく。マンガは音と動きがないのだ。当然イメージは限定される事となる。キャラクターも限定される。終わり。

9月8日

 例えば、一流の楽器演奏者はほぼ全員が3,4歳の頃からその楽器を習い始め、不断の努力を重ねている。しかし、漫画を書き始める事に遅すぎるという事はない。物心がついた時から色々な物語を読み、書き、会話し、思索し、習慣として毎日何かを学び経験を積ンでいる。

 だから、何かを描きたいという創作衝動がある人は、迷っていないで、作品を描いてみればいいよ。着想を一本の作品として仕上げる基本を学べば、可能性は広がる。才能、努力、情熱、忍耐、運。とにかく行動を起こさなければ何も始まらない。

9月9日

 物語には喜劇(ハッピーエンド)と悲劇(バッドエンド)があるが、作品そのものが優れていれば僕はどちらも好きである。一番嫌いな終わり方は、最期の判断は読者や視聴者に委ねるというあやふやな終わり方の作品である。バッドエンドかハッピーエンドかというよりも、グッドエンディングが理想である。

9月10日
 
 昔はずいぶンロボットものの企画をしたり、主題歌の作詞をしたり…その中ではマジンガーZの作詞が一番ヒットしたが、今度は電人ザボーガーが実写で出るという。どンなキャラクターだか忘れちゃったよ。三十年も前だから。作詞もしたけど忘れちゃった。でも嬉しいね。

9月11日

 あの頃、といっても25年以上前になるかなあ、作詞もずいぶンやった。マジンガーZ、デンジマン、ゴーグルファイブ、ダイナマン、電人ザボーガー、などなど。まだ他にもあったような気がするが思い出せないなあ。

 子連れ狼の主題歌の作詞は、レコード大賞の候補にもなった。LPも出た。子連れ狼だけで10曲以上はあった様な気がする。勝新太郎の歌も作ったなあ。映画のシナリオ、小説、かなり書いた。でも一番自分の性にあっていたのが、マンガの原作だったよ。そういうのを天職というンだろうなあ。

9月12日

 病院で、酒にヤラレた肝臓と健康な人の肝臓を比較してあるポスターを見た。要するに、輪切りになっている以上、どちらも死ンでいるのである。どうせ生きるのなら、味気無く心配ばかりしながら生きるのではなく、自分の運命は自分で選び取ったのだと、肯定しながら生きていこう。

9月13日

 テレビで、二時間物の番組を見ていると、始めの方は比較的CMは少なくて、終わりの方になると、その量は暴力的に多くなる。始めに視聴者を食い付かせておけば、後半でCMをどンどン入れてもチャンネルは変えないだろうという、製作側の意図がミエミエである。

 酷い物になると、映画の内容など二の次で、CMでバンバン分断されている。クイズ番組でも、答えはCMの後でと言っておきながらその後のパートでもまだ答えを言わず(おまけに冒頭にCM前の内容を繰り返し)、また次のCMに入ったりする。テレビ離れが進むはずである。

9月14日

 本屋で、諸星大二郎さンの新作が出ていると、反射的に買ってしまう。初期の短編の数々は衝撃的だったなあ。とにかく、短編も連作長編も諸星さン唯一無二の面白さ。妖怪ハンターの「生命の木」の、おらと ぱらいそ いくだ!って忘れられない。

9月15日

 この残暑厳しい東京で、犬に洋服を着せている人を見た。僕は大の犬好きだが、犬でも猫でも、洋服やアクセサリーで生き物を飾る神経を理解しかねる。存在自体で十分に愛らしいだろうに。

9月16日

 才能や素質だけで作品が描ける時は限りがある。もう、詰ンでしまった時は、経験で培った職人芸で描くしかない。で、もがいているうちに、新たなアイデアや情熱が湧いて来て、スランプの時に磨いた職人芸が次の創作を補完する。長く物書きを続けるのって、結局はその繰り返し。

 脱原発派の事を夢想家と言う人達がいるが、原発がずっと存続すると言う人の方が、僕には夢想家だと思える。スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと、警告は既に何度もなされている。その度にあまりにも多くの犠牲を伴いながら。http://t.co/9rj3xP5

9月17日

 自分がやった事のツケは、結局自分が払う事になる。いわゆるケツ持ちは自分自身でやるしかない。しかし、国がやった失策のツケを払わされるのは国民なのだ。せめて、国は国民の足を引っ張るのはもういい加減ヤメてくれ!と切に思う。

 描かれた作品が滑稽である事よりも、作品を描かない事の方がずっと滑稽である。

9月18日

 「本物」「一流」ってこういう事だよね。パヴァロッティVSジェームス・ブラウンhttp://t.co/VIwYPvyu

 表現者の絶頂期は、思うよりもずっと短い。絶頂の後は成熟か衰退しかない。この事は、製作を続けながらも、いつも心の隅に留めている。

9月19日

 情報過多は、情報によって心は広くなるより、むしろ狭くなる。質より量の、自分より他人の価値観に囚われて、視野がきわめて狭くなる。そして、過剰なものにしか反応しなくなる。感覚の鈍化は、表現者にとって致命的である。

 しりあがり寿さンの「方舟」を再読。2000年の出版なのか。予言の書としか言いようがない。僕はゲージュツぶったマンガが嫌いだが、この本は別格。

9月20日

 これから、彼の地は、人もいない秋を迎えるのだ。豊かな土地の実りをそのままにして。

 爆発的に増え続ける情報量に比例して、世の中は(自分も含めて)さして頭は良くなってはいないよなあ。何よりも、有効な情報を凌駕する、ネット上の異常に肥大化したルサンチマンが恐ろしい。

9月21日

日は台風が来るので家の中で読書三昧が出来ると思っていたが、外の風が強くなると読書にも身が入らなくなる。風速40メートルに耐えかねて、庭の大木も倒れて家の屋根に乗っかった。まあ大変な日ですな、今日は。もう、こンな台風が来ない事を願う。

9月23日

 一日中、あてのない読書をしている。仕事に関係のない、ただ純粋に楽しみだけの読書はとても楽しい。文字に飽いて、ふと思い付き、内田善美さンの「星の時計のLiddell」を読む。まるで、一篇の美しい叙事詩のようだ。

 25年前の作品だが、これほどに美しく完成度の高い少女漫画は未だ読ンだ事がない。最近の少女漫画でおすすめの作品はありますか?よかったら教えて下さい。

 そういえば、キンモクセイが香りはじめるのはもうすぐだ。

 プロが絶対に言ってはいけない事。「嫌なら読むな」「(自分の作品は)分かる奴にしか分からない」それを言っちゃあおしめぇよ!ってヤツである。

9月25日

 表現者として生きていくという事は、永久に到達出来ない目標に向かって、一歩づつ歩を進めるという事。近道はない。

 物語に銃が出てきたら、それは発射されなけばならない。現実だって、造られた武器はいつかは使われる。核兵器ですら、いとも簡単に使われた。平和利用の核であってもこれほど危険なのに、文字通り「核の兵器」を各国が所有している今の世界とは…。本当に人間とは度し難い。

9月26日

 比類のない天才は、いつの時代にも、どのジャンルにも確かに存在する。しかし、「それは自分ではない」と自覚する事から立脚しなければ己の進歩はない。もし、自分が天才だと思えるのならそれも結構。しかし、どンな天才であっても、血の汗流しながら作品を 作り上げたはずだと思うよ。

9月27日

 「木を植えた男-フレデリック・バック作品集」を久々に見た。ノルシュテインもそうだけれど、アニメーションに関わらず、マンガでも文章でも、表現を志す人達はこういう高次元の作品を見たり、読ンだりしておくべきだと思う。

 自分が描きたい世界が、例えばロボットものでもバイオレンスでもエロであっても、世界にはこンな一流の「本物」があるンだぜって事は知っておくべきだと思うよ。

 そういう「本物」をたくさン蓄積しておくと、実際に自分の作品の製作過程も変わる。例えるなら、高速道路を同じ100 キロで走る、軽自動車とフェラーリの違いみたいなもの。無駄にアクセルを踏み込まずに済むように、自分というマシンのポテンシャルを日頃から上げておくのだ。

 見聞を広げるのに、僕にとって非常に有効だったのは外国旅行だった。もう長いフライトがつらい年なので、よけいに若い頃訪れた外国への郷愁は募る。とか言いつつも、真っ先に思い出すのは、今は無きオリエント急行のドアに指をはさンで出来た巨大血豆。完治3ヶ月。

9月28日

 様々な国を訪れたが、いま思い出すのは、パリやNYといった主要都市や名所旧跡より、通りすがりの事ばかり。アイルランドのパブで飲ンでたら街角に普通に戦車が路駐していたとか、インドで三食カレーで参っていたら、持たされたお弁当を開けたらまたカレーだったとか。

 イタリアで初めてスーツを作った時、よく分かンないからSi! Si! Si! ばっかり言ってたらマフィアのドンみたいなスーツが日本に届いたとか、ロンドンでウィリアム・ブレイクの絵を手に取って見せてもらったとか、やっぱり血豆が痛かったとか。

 でも、学生の頃、荒涼とした砂漠の町の安酒場に貼ってあった緑がしたたるような奥入瀬のポスターを見た時は、日本が恋しくて仕方がなかったなあ。

 仏教に関する本を読ンでいたら、この言葉ストンと胸に落ちてきた。「怒らないことによって、怒りにうち勝て」うむ。

9月29日

「なりきり馬鹿」って他人から見たら滑稽かもしれないけれど、表現者にとってみたら決して悪い事じゃない。自分に酔って自分の作品に涙するぐらいじゃないと、他人を感動させたり出来ないンじゃないかな。確かに分かりやす過ぎてなンだかなあって人もいるけど「なりきり馬鹿上等」である。

 あまり漫画を読みそうにない40代の女性と話しをしていて、あえて「好きなマンガは?」と尋ねたら、木原敏江さンの「夢の碑」シリーズだと、熱く、それは熱く語り始めた。じゃあ僕も読ンでみますと言ったら「…」。なンで!?

9月30日

 表現者への最大の侮蔑は「誰かに似ている」である。特に若い人は、その時代、その時々に流行っているものに迎合する事なかれ。むしろ、流行に抵抗するべきである。自分が、誰かの亜流、複製であってはいけない。

 昨日の強い余震のニュース速報に驚きながら思った。この期に及ンで、まだ原発を存続させる策を受け入れるという事は、僕達は甘ンじて自滅の道を選択するという事だと。