いつかみた映画をひたすらあげる、ミタメモ。



若き貧乏画家、北斎は
大手版元の蔦屋に見出されるものの
欲がありすぎて空回りするばかり。
当時の人気浮世絵師、歌麿や写楽のようには
うまくいかない。
しかし挫折を経て風景画で花開き
老齢まで活躍するが
江戸幕府の出版物への圧力は
絶えず彼の心を悩ませるのだった。


北斎という題材はすばらしく
キャスティングは豪華絢爛。


だけどノレなくて。

一般論なんだけど

ステキなキャラが
ステキっぽいことを言うだけでは
10秒くらいで退屈になるということ。

その退屈応用編みたいなもので

偉大だと言われる人物を
描く場合にやってしまいがちなのが
(自戒、自戒)

エキセントリックな人が
エキセントリックっぽいことを言い

良い人キャラがそこに
良い人っぽい相槌をうつ

という会話は退屈だ、ということ。

会話も、アクションシーンとおなじく
そこでの主人公の目的があり
障害があり
そこから変化が生まれるという過程に
時間を費やすもののはず。

キャラクターの特徴を立てる言葉を並べ
その感情表現みたいな抑揚をつける
だけだと
歌のひとフレーズや漫画の一コマっぽく
短時間では成立してしまうけど
実は
ドラマっぽいけどドラマではないので退屈だし
その連続からでは物語は自然な展開をせず
プロットでゴリゴリと、
あまり効果的でない外的要因なども使って
動かさざるを得なくなる。

そこで描かれる感情は
物語から生じるというよりは
シーンごとのキャラ付けのための
「演技」に見えて

良い役者さんでも
勿体ないことになる。

そもそも、また一般論だけど

偉人の物語で作り手が語るべきことは、

「偉大な人は
もとからエキセントリックだったから
偉大なのです。
さあどれだけエキセントリックだったか
見ていきましょう」
という、天才の突き放しでは
ないはずなのにな、

と思うのだ。


この、
言葉と抑揚と顔つきで
キャラ付けを表現するが
ドラマはない会話シーンって

日本の映画やTVドラマに散見されて

なんでなのかなと思ってる。
なんか文化的な素因が
やってしまいがちな落とし穴を
つくっている予感がする。

というわけで

北斎の絵は好きだし
その生涯に興味はあったし
田中泯さんは素晴らしいけど

映画にはまったくノれず
ドラマ作りではまりやすいワナについて
反省しながら考え込む結果となったのでした。

ところで外的な障害として配置されていた
江戸政府の出版物への圧力というのも
なんとなくってかんじだったけど
それがどんな理屈で行われ
どんな作家がしょっぴかれたのかとか
もっと詳しく知りたかった。


自分がつくったわけでも、
つくれるわけでもないのに
反省した