いつかみた映画をひたすらあげていくだけのミタメモ!



またまたビットリオ・デ・シーカでしか。

敗戦後の経済難の中にあるイタリア。
妻子ある男アントニオはやっと職にありつくが、
それには自転車が必要。
やっとのことで質屋で買った自転車は、
仕事中で盗まれてしまう。
息子ブルーノとともに探しに行っても
なかなか見つからない……。



敗戦後の庶民の生活苦を
真正面から描写しようと
俳優には真の生活者を起用したという
この作品。

しかしデシーカ脚本は
すごくちゃんとしており
しっかりと演出された映像に
美しい少年……

その信じがたいほどに純朴かつ
愚かな庶民像には
創作者としての文化人による
「優れた創作」の中にひっそりとかくれていがちな
上から目線を感じてしまう。

リアル?
リアル、ってなに?
そして
リアリズムってなんだろうという
映画理論に立ち返らせられる頭痛。

だからこそ
デシーカをネオ・リアリズモの巨匠と呼ぶのは
当時の虚飾に満ちた、そして
アメリカという国の理想にひきずられていた
スタジオ産のハリウッド映画への
反動「ネオ」なリアリズム
として捉えることで

初めて腑に落ちる。

リアリズムってべつに
見かけ現実っぽい、って意味では
ないんだと
すぐ忘れちゃうんだけど

それこそ、この翌年の
ガチなファンタジー『ミラノの奇蹟』をみれば
デシーカが現実の描写のフリなんか
してないのは明らかで

ただ
現実の生活者に近い人を主人公にして
その立場に寄り添う物語を作ろうとして
失敗したり成功したり

物語のうそに勇敢に立ち向かい
その世界の中での現実の成立を目指す
堂々としたフィクション創作者で

リアリズムとかネオリアリズモとか
リアルという言葉に惑わされると
ほんとややこしいから

映画理論のひとには
なんか別の名前にかえてほしいと

ちょっと思ってる
ダメな映画研究修士なのだった。

いつかみた映画をひたすらあげていくだけのミタメモ



そこはアメリカ・メキシコ間の国境の町。
新婚国際カップルの運命を
一件の爆弾事件と
汚職にまみれた米警察が蝕んでいく。


オーソンウェルズの傑作と言われるものの
ひとつ。
オープニングが見事な長尺カットなのも
有名だとか。
たしかに、これだけ豊富なカメラワークと
多人数の芝居の動きで
ワンカットなのは見事だし美しい。

オープニングの音楽とクレジットが
楽しげでにぎやかなほうは元の版、

クレジットがでてこなくて
音が状況音だけなのが
オーソンウェルズが意図したままの復刻版

らしい。

私がオンラインでみたのは
元の版だったけど
YouTubeで復刻版のオープニングは
みられます。
復刻版は音がリアルでおもしろい。

けどプロデューサー的には

クレジットと音楽で派手にしたかったのは
正直、わかる……

元の版のオープニングも、
にぎやかながら
決して下品ではないし
いいじゃんねと
思ってしまった私は俗物なんかな。
あと、メインキャラは南米人の場合
南米人俳優は使わず
意地でも白人俳優をメイクで南米人にしないと
死んじゃう病は
いつものとおり

いつかみた映画をひたすらあげるだけ、ミタメモ。



優秀で裕福な学生フィリップとブランドンは
アパートの自室で学友デイヴィッドを絞殺。
不安を募らせるフィリップをよそに、
ブランドンは殺人を芸術として完成させるべく
遺体を隠したチェストに食事を並べ
客を招いてパーティーを開く。

訪れたのは被害者の両親、恋人、
そして彼らの担当教授。
共通の知人デイヴィッドの不在が
パーティーに疑惑のさざ波を立て始める……。


ヒッチコック初のカラー作品。
80分という小気味のいい短さのサスペンスで
全編が1カットで撮影されている……

ように、みえるけど、

ときどき物のアップとか人の背中とかを
利用してフィルムをつないでいる。

とはいえ、映像的にはほんとうに1カットとして
時が流れているわけで
映画の尺と事件の時間の流れが同じなのは
ホント。

わりとせまい
(学生のアパートとしては
私から見たらめちゃ広いけど)
中での移動のない話で
ぜんぜん、ダレないのがすごい。

厨二病の娯楽的な殺人の動機は
あまり説得力がないけれど
そこは敢えてあまり語らないのが

ヒッチコック先生の必要十分な娯楽術

いいんですよこれで。てかんじ。
脚本分析的には
キャラ的にとても冴えないフィリップが
主人公なのだろうというところが

またおもしろい。


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