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いつかみた映画をひたすらあげていくだけの、ミタメモ。



落ち目のブロードウェイプロデューサーが
気弱な会計士と組んで、
投資を募った舞台の初日に失敗し
金を持ちにげする詐欺を思いつく。
そのために
最低の脚本、最低の俳優、最低のスタッフを募り
失敗確実なミュージカルづくりに
のりだすのだが……。


ちゃんとおもしろかった気がする
メル・ブルックス映画。

主人公がたくらむ詐欺の内容は
まったくリアリティが感じられなかったけど
ジーンワイルダーとのかけあいをみているだけで
笑えたし、という印象。

しかしあらすじをネットで見直してみると
オカマネタに頼りすぎてはいまいか。
60年代。
ヒトラーをバカにするというライフワークに
すでに邁進しているブルックス監督。



しかしそのためにも

オカマネタに頼りすぎてはいまいか。

むかしのクレヨンしんちゃん劇場版なども
そんなかんじはあったよな…

この、
エンタメの一時期に
洋の東西を問わず共通してみられた
オカマという
コメディ用のキャラクター性の型は
なんなのか

白人が顔を塗って黒人のふりをして笑わせた、
でも実際の黒人はそんなんじゃないだろ
っていう
ブラックフェイス
みたいなものなのか


いつかみた映画をひたすらあげていくだけ、ミタメモ。
今回は最新作なのでネタバレなし。



前作「ブラックパンサー」の主演俳優
チャドウィック・ボーズマンの急逝は
いまだにみんな悲しいし寂しいよ……

ということで、彼の演じた若き王、
ティ・チャラの死を悼む気持ちから
この映画は始まる。

そのなかで、
悲しみに沈む王の妹シュリの姿を描く。

こうして、

外国の、
黒人の、
英語にアクセントもある、
女の子が、

喪失と再起という
個人的な物語の主人公となって

メインストリームの映画が成り立ち、
当たり前のように大型公開されるというのは

前回の、1970年代前半の映画
の時代からみたら、
隔世の感がある。


その前にはもちろん、
映画ブラックパンサーの功績があり、

その前には

数々の人権運動に加えて
数々の黒人アーティストや作家、
そしてふつうのひとたちの
彼らの視点からの文化活動があり

私たちも個人的な事情や感情をもつ
人間なんだよ、と
外の世界にも語りかけ続けた時間がある。

そういうのはべつに黒人に限ったことでなく

アジア人が
日本人が
女性が
子供が
老人が
オタクが

とか、
さまざまな主体が
さまざまな形で

プロでも素人でもなんでも
大ヒット映画でも観客一名のライブでも
ベストセラー小説でもホチキス同人誌でも

無数の立場から発信しつづけることが
人類の未来のためには
大切なんだなと
おもってる。

だからなんか正直につくって出してる人
みんなとおとい。


ところでこの映画は

そんなふうに、ストーリーの骨格が
外国の少女の個人的な成長物語なのが
とてもいいなと思った

けどそれ以外は

かなりどうでもよくて

困った

けど

新キャラとか色々出てくるので
長いけど退屈で死ぬことはなかったです。

いつかみた映画をひたすらあげていくだけ、ミタメモ。



イギリスから来た女子高生と少年が
オーストラリアの砂漠で迷子になり
通過儀礼の旅の最中のアボリジニの少年と
道行を共にする


動物が死んでウジがわいてる!
うわー
女の子の白い腿にドキドキ!
うわー

と、なんとも真っ直ぐなカメラの視線が
砂漠の風景と重なっていくモンタージュが

美しくもあり
あけすけで恥ずかしいときもある

映画の力を見せつけてくれる作品。


一時、欧米に跋扈した
エスノグラフィ映画の系列にあるのかなと
おもう

そこにある
「進んだ人類である白人」
が、
「純朴で美しく、目を見張るような文化を持つ
なつかしくも遅れた人類である、白人以外」
を、きわめて他者的にみつめる視線。

この少女の、
アボリジニ少年に対する

おいしいとこだけ喜んだり驚嘆したり
命令すらしたりするけど
交流しようとは決してしないという態度が

典型的なのだけど

そこに、この映画では

幼い弟と、すでに大人になりつつある姉の
圧倒的にいい人であるアボリジニ少年への
態度を対比させることで

批判性を重ねているのが

エライ

けど結局、そんな考察も
自分で無視して

少女の物語の結末は
大自然のロマンの思い出、みたいな
ほんわかしたお気持ちレベルに
納めてしまっていて

残念
だけど
しかたがないのか



肌の色や文化がちがう人間たちも
感情移入を試みるべき、
人間たちなのですよ、
つかんでいるのに映画言語化しきれない、
または、
明言するのはまだちょっとはばかられた…

いや、もしかしたら、
脚本は単純な白人の搾取的ロマン物語で
監督がそれを書きかえたかったけど
製作側からゆるしてもらえず
かわりに映像でがんばって主張したとか
そんな経緯があるのか…?

…そんなころの白人映画…

というかんじで

つまりこの映画こそが
通過儀礼のなかのひとつ、

まさに原題のとおり、
通過儀礼の旅、ウォークアバウト
なのだろう……

たぶんわざとじゃないけど……


とか思ったりした。
日本でも70-80年代にたぶん
「進んだ人類である日本人」からの
(または欧米から輸入した文化に流行していた視点を内在化させた)
エスノグラフィ映画やテレビ番組は

ひょいひょいと産出されていた記憶

ある意味、いまも?

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