4月3日にCo-CoLifeタレント部との業務委託契約の解除を私から申し入れ、正式に受理されました。ところがこれに伴い、事務所は自社サイトに「契約解除の経緯」なる文書を掲示しました。こちらの内容がいかにも含むところありな筆致であったことから、日ごろ私を応援してくださっている皆さまに混乱と不安を与える結果となりました。
ご心配をおかけしたことにつきましては、幾重にもお詫びを申し上げます。
しかしご安心ください。
小林春彦は以前と変わらぬスタイルで、今後も自分のなすべき活動を続けてまいります。
そのための英気は十分に持っていますから。

 とはいえ、とても弁護士を介したとは思えない小林春彦への名誉棄損を匂わせるサイトの怪文や最近の私のSNSを見て「一体何が起きてるの」かと思われていた方もおられるはずです。実際、私のFaceBookへの書き込みは100を越え、私の元に、たくさんの質問や激励の声が寄せられています。誠心誠意お返事を差し上げておりましたが、流石に今は逐一お返事ができない状況にあります。
 私としては皆さんにキチンと説明する責任があると考えていますので、このブログで、今言えること・今私の心境をお伝えしようと思いました。

 私がCo-CoLifeの所属タレントになったのは昨年初頭、ある女性から「障害者専門の芸能事務所をはじめるから、ぜひ」と誘われたのがきっかけです。2020年に東京でパラ五輪が開催されることから、時代を先取りしたビジネスとして立ち上げられたのだと思います。私としては、その女性とは年に1度、顔を会わす機会があるかないか程度の間でしたが、独立時に応援する程度には信頼していた方でした。また自分の活動の領域を広げられるならと、事業に参加させていただきました。

 しかし、実際に所属で活動していると「あっ、これは問題になるな」と思うことが頻出しました。税務や契約や運営について尋ねると、はぐらかされたりシャットアウトされたり。「あなたには関係ないことでしょう」といわんばかりの対応です。私は同じ船に乗る仲間だと思って、また信頼していたからこそ、当事者の経験をもって積極的に関わろうとしたのに……心の距離はあっという間に離れていきました。
 しかも件の誰某、「小林春彦を育てたのは私だ」という謎の吹聴を事務所の仲間たちにしているというのです。この人は、恩を仇で返すというのか。

 それが決定的になったのは、200名を超す応募のあったCo-CoLifeタレント部による新人オーディションです。囲い込みや青田買いのあった私を含む初期メンバーとは別に、事務所は次代の障害者タレントを発掘すべく、全国に募集を掛けました。対象は知的・精神・身体の3障害で、曰く「障害者手帳の有無を問いません/障害の程度を問いません」。結果、選抜されたのは身体障害の方ばかり。
 私同様、発達障害や高次脳機能障害といった脳機能障害を抱えている方も多数応募していたのですが、一人も採用されず……疑問に思ったものです。
 実際、「身体障害じゃないとだめなんですか?」という声が多数出ました。そういう問い合わせは発足当初からあったことです。ところが、あろうことか関係者が回答に「ウチには小林春彦さんという障害者がいますよ」——私は一つの証拠として扱われていたのです。

 オーディション後も違和感は募りました。一番堪えたのは外向けに用意されたレッスン生の口から度々こぼれる「小林さんのようになりたかったのに」という悔悟の言葉です。同様の悩みは、私の元へと直接メールで寄せられました。

 随分な量です。
障害者にとって高額なレッスン代やオーディションの受験料、サポート体制、叶わぬ夢。そこには思いのたけが、縷々綴られている。
 私は全くの無名だった頃を思い出し、胸の締め付けられる思いで一つ一つ読み、考えました。

「彼・彼女らの中には私の本を読んだ人もいる。なのに事務所はその私を広告塔にして人を集めている。その結果、彼・彼女らは……」

 私は胸のモヤモヤを抱えきれなくなりました。「障害」という同じ問題があって人は人、そんな簡単に割り切れるものか。嘘や矛盾や不条理を両手いっぱいに「それも人だよ」って笑えるようにならなくちゃいけないの。


「オーディションで、総合的に判断しました」


 その後、同じ所属タレントの中で、残念ながら亡くなった若き故人の写真を掲げ、頭に「サンキュー」などと書いて真っ黒な契約書を結ばせていた事務所にSNSで苦言したりといろいろやりとりがあって、今回の顛末に至ったというわけです。
 事務所に所属して1年間。事務所がとってきた仕事なんてメディアも講演もなかったのに、小林春彦に指名でやってきたTVや講演会の仕事は何故か事務所実績のようにHPで演出されていたり、今回フリーに戻るまで、実にいろんなことを見て聞いて考え悩まされました。夢と現実を行き来し、とはこのことでしょうか。しかし屈せず、最善を尽くしてきたつもりです。
 
 でももう、ガマンの限界。この集まりの中で1番最初に口を切るのは、10数年以上、プライドをかけ障害者啓発を続けてきた自分でいたかった。

 そもそも、「障害者バブル」という景気の良い言葉と共に産声を上げた当初から、互いの意識の間に、看過できないズレがあったのをハッキリと思い出します。新しい元号を前にして尚も美しくパッケージ化され消費されていく障害者、難病者、闘い抜いた死人。

 愛され受け入れられて育った自己肯定感溢れる障害者の、障害を「武器」に笑いに涙に個性になどというパワーワードが、障害を得て社会から転落し身も心も病んだ障害者たちにどう聞こえるかCo-CoLife理事の連中は一度でも想像したことがあるのかー。
 私たちはこの社会に潜んだ怒りや悲しみを許し、どう癒せというのでしょう。仲間の生を祈るほかない属性です。

鬼が行き交う世間、渡り切るので精いっぱい。
この世の中は、弱い者に冷たいね。



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 …と、ここまで落ち着いて書いたものを読み返すと、書き足りないことがたくさんあるような気がします。私の奥歯にはまだ随分とモヤモヤが挟まっている……しかし今日のところはここまでにしておきたいと思います。

事務所には、現に所属している人がいます。レッスンに励んでいる人もいます。
今まさに、夢を追いかけている人がいるのですから。
あらゆる意味で注目のある事務所だから、色んな話が順番に出てくるとも思う。
彼・彼女らの顔を思い浮かべつつ、ひとまず、投稿ボタンをクリックすることにしたいと思います。

  昨日、一昨日、で片付くはずだった大掃除と引越しが終わらないわけですよ。


 今年は、これまで撒いてきた種…というより我が身から離れ風にのって運ばれた綿毛が、思わぬ土壌で次々に発芽してるのを強く感じていました。


  とにかくいろいろ声がかかる。

  年始に芸能プロダクションからスカウトされて契約を結んだかと思いきや、事務所とは全く関係のないところで小林春彦を発見して下さったメディア関係者も多くいました。

  けっきょく、メリットデメリットを考慮して、事務所とは専属契約からエージェント契約に切り替えてしまいましたが、仲良くやっています。

  ある局では指名でテレビの討論番組に呼んでいただいたり、別の局では何故か私ソロの特集番組が組まれたり。また突然アパレル企業のメンズモデルに起用される、六本木ヒルズでのファッションショーへの出演を果たす、旧知のところでは母校や馴染みの学校から人権学習の講演依頼もあり、という充実ぷり。

  なんでも屋を謳って執筆や講演業をやってきましたが、他でもない私という人間の持ち味を求めてくれる奇特な人が世界にいるのは、素直に嬉しく、有難いことです。


  あと、何か宗教に入信したというわけでもないんですが、自分教とでもいうんでしょうか。自分なりに理解した神への信仰心を、持つようになりました。

  やはり先行きの見えない中での漠然とした不安はありますし、神なき世界、指針なき社会の中で「こんな時はどうしたらいい」っていうのが私にも長い間ありました。

  そして社会の階段を上がり、何かを発信し続ける過程で、落とし穴が随所にあるのが人生。そして足を引き合うのが世の中だとするならば、処世として品行方正こそが、最高の武器に他ならないと思います。

  1人でいても神は見ている、誰が言わずとも良心に従う。

  私自身まだまだ弱い生き物ですし、いろいろ嫌がらせをされるくらいには社会との繋がりもあります。
  ただ、他人や世の中を裁くのではなく自分の側の問題だけを見る。新しい歳は、そういう態度で自己の成長を続けていきたいと思っています。


  聖人君子にはなれないけれど感謝と負けん気で、上手にリスクをとって生き抜いていけたらと。

取り敢えず大掃除、引越しを終えなきゃ。

  
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31歳に、なりました。

 若い頃は「こんなところ出ていってやる!おら東京さ行くだ!」って感じじゃないですか。
 でも実際出てみると色々な理由で地元が恋しくなるものなんですよね。いま、故郷はどうなっているんだろう。あいつらどうしてるんだろう。という都会に月が浮かんだ1人の夜。

 ただしこれは私の個人的な価値観であって、地元なぞ黒歴史がいっぱいで二度と帰るもんかというのも分からなくはありません。私も東京での生活は適度な無関心と個人主義が超快適ですし、自己実現のためにはあらゆるインフラが整っています。


 気がかりにしつつも今や年末年始もお盆休みもあまり帰らなくなった親不孝な私めに春と秋を前に地元から届くのは、母校の吹奏楽部が決まってゴールデンウィークに開催する定期演奏会のOBOG合同ステージへのお誘いと、やはり母校が決まって夏休み明け学園祭直後に大講堂で開催する在校生向け人権学習の講演依頼です。

 今年は例の芸能プロ所属による仕事の引き継ぎに新年度のスケジュール整理に多忙が予想されていましたので、事務的に送られてきたであろう封書を開いてはいましたが、演奏会への参加は見送りを考えていました。

 しかし新年度に入り、こんな老いぼれOBとなった私になんぞLINEで熱心に声をかけてくれた現役後輩さんの嘆願には二つ返事で参加の約束をしてしまいました。ぶっちゃけ余裕がなさすぎて即座に「OK」スタンプ押しちゃっただけな気もしますが。パッションに弱い男です。

 急ぎ神戸への切符をとって帰省の荷造りを始めたのは、テレビ朝日さんの収録の真っ最中という。東京のアパートを訪れていた番組ディレクターも、散らかった部屋と白杖にキャリーバッグに楽器を...という帰省前の雄姿を見て笑っておられました。私の身勝手な都合で東京を出る晩まで撮影にお付き合い頂いた皆様ありがとうございました。


 ところで私の実家は神戸といっても、海の見える「浜」でなければ華やかな「街」でもなく、千仭(せんじん)高し六甲の「山」でもない、朝夕には霧(きり)がかかる北の「果(はて)」に位置します。

 そんなわけで我らが帰郷列車、「福知山線鈍行」は土曜夜でも車両に "おひとりさま" ということがしばしばあるのですね。都会っ子はにわかには信じられまい。

 東京の満員電車があたりまえとなった今では、薄暗いホームに人っ子一人いない無人駅を通過するとき回送列車に乗ってしまったのではないかとヒヤリ不安にすらなってしまうという。あゝ若かりしワイは、この空間で1人リズム練とか「イタいこと」してキャッキャはしゃいだンゴねえ,,,などと確かに回想列車と化したこの車体に運ばれ里へと帰っていくわけです。


ちなみに途中ココまで書いていて、標準語となんJ語と関西弁が頭の中を往来発着していて調子を崩しています。 


 山越え川越えトンネルを抜け辿り着いた実家は、前に帰ったときと別に大きく変わったところもなく、といった感じ。

 それから一息つくなり、あの木造ボロ校舎の一角にある居心地抜群であった青い絨毯(じゅうたん)の部室へと合同練習のためフライング気味で直行。

 早々に集まっていたのは、入学したての中学1年から卒業したての大学1回までの現役および準現役たちでした。
 経営難で共学化して以降、それなりに母校の吹奏楽部の在り方も変わってきたとは聞いていましたが、明らかに女子学生慣れしている若い男子学生に地味な嫉妬心を抱きながら、「若いっていいなあ」などとにこやかに佇んでおりました。

 私が卒業する頃までは男子校でしたので、しばらくしてやってくるのは凡そアラサー以上の常連OB達です。先輩らとは同じ「男子校時代」を知る側とはいえ、話をしていてもジェネレーションギャップが多々あります。

 神戸っ子だからか、ひとつ世代確認の指針となったのはズバリ「阪神大震災のときに何歳だったのか」です。私は小学校低学年の頃に被災しているのですが、当時ドンピシャの現役であられた方は「部室の底が抜けた中学のときや」とか「県のコンテストで高校の部が中止になった年や」といった具合。
 0年代産まれに至っては寧ろ東日本大震災を指針に、「あれは確か幼稚園の頃であった」とか謎の震災マウントをとりあって世代間交流する一コマも見受けられました。年配の冠婚葬祭ネタは参考程度に。


 中高6学年、楽器を始めた瞬間も同じ同窓仲間の一人が
「俺ら出会って20年になるんやなあ。こうやって古い友達とつるむのって、ほんまええわぁ」
 と昔と同じ楽器を構えてこぼしていたのが印象的でした。

 ロースト、スパーク、ストラヴィンスキー、ホルスト、スミス、リード…部員数枯渇の中、あんな草の根メンツで弱音も吐かず数々の大曲を演奏できたのは、顧問の先生を始めとした先輩や後輩、こっそりと部活に寄付金や差し入れを下さっていた保護者の支えだったと気が付くのも大きく大人になってからだというような話や、伝統というのは言葉や態度で受け継がれるものでなく音で受け継がれるものだというようなしみじみトークもしたり。

 勿論すっかり忘れていた傑作エピソードや定番の内輪ネタ全開の流行語なんかも思い出して笑い、語りだしたら止まらないんですよ。それで未だワシらも(精神的には)若いじゃないか、となるわけですね。

 こうしてみんなで振り返る過去というものは、やはりどこかどんどん美化されているものなのだと思います。中学高校生活といえども決して楽しいこと美しいものばかりではなかったですし、辛かったこと嫌だったこともいくらかありました。

 ただ今こうして思い出しているものは一部であっても決して虚構ではなく、それが今の我々をこれほど楽しく幸せなものにしてくれているのであれば美化でも何でもええやん、となる。
 だからこれからも多くの思い出し笑いが止まらない過去を量産させていきたい、それが理屈抜きに「財産」になるはずと信じられるから、未だ私は故郷に帰ってくるのです。分かち合う仲間と居場所がここにはあるというエモさな。


 現役生とOBOGの合同演奏の方はというと、通常は楽団に一人か二人しかいないバスクラリネット奏者が、現役生くん♂現役生ちゃん♀の2人に私を含めたOBOG3人と合わせて、バスクラ5本でステージに乗るという珍体験がありました。

 今年はポップス曲が多かったので、いっぱい曲乗りしたり大きくベルアップしてみたりマネしたりハモったりユニゾンしたり、白玉ロングトーンではカンニングブレスが被らないよう空気を読みあったり、ピッチは歪んでましたが(w)練習から本番まで、マジで楽しかったです。もう曲がいいとか上手いとかじゃなくて、雰囲気が最高。
 それも和やかとか協調性がとれているとかじゃなく、プチハプニングやニヤニヤポイントを瞬時同時に察知してアイコンタクトと口角運動だけで共有できる、客席にいては堪能できない裏の楽しみの方向性が似通ったメンツが低音部1プルトに「バスクラリネットパート」として固まっているという意味で。

 私が中学1年生のときに門をたたいたこの吹奏楽部にはバスクラリネット奏者なんていなくて、カビか何かで変色したYAMAHAのスクール用バスクラ1本を渋々ながら引き受けたというのに。男ばかりでなく女子もいて、実に良かった。

 
 今回の練習から打ち上げも含めた演奏会の一連は、私からすると上も下も最大20年ほど歳が離れているとはいえ「三田学園吹奏楽部」という肩書を一度は背負った面々が、入り混じり、交流し、他者紹介し、バカ話や思い出話に夢中になっている光景が、一体となって織り成すサウンドが、最初から最後までまさに圧巻でありました。

 やはり人生、大きな喜びや崇高な努力とその成果とは別に、こういう要素があってこそ幸せだと思うのですよ。くだらないことで心が緩み、かつそれを誰かと偶発的に共有するときの悦。笑いや感度のツボが近い人々と長い時間をかけて築き上げた閉鎖的コミュニティー内での、他愛ない非日常という資産。


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そういえば帰郷前、テレ朝の取材で番組ディレクターさんが「小林さんは病気の前後で、音楽を核に自己肯定感を保ち、言葉を武器に闘い抜いてきたように見える」と言って私を評価してくれました。


 確かに非言語・言語という違いはあれ、音楽活動も講演活動もスポットの当たるステージに立たせて頂いたことで、エネルギーのアウトプットとインプットという循環がいつも私の内側で何らかの形で行われていたように思います。うまく言えないけど。

 例年、私にとって4月末から5月頭までの春の地元とは、福知山線事故の追悼と母校の定期演奏会と脳卒中に倒れ即時手術の執行された日という、様々な原点が交差する複雑な場所であります。
 けれど今年度は東京で新しい環境に身を置き始めながらも重い腰を上げて帰郷して、本当に良かったです。

 オチも脈絡もなく(自己校正もせず)ズラーッと綴ってしまいましたが、何かこう、自分のために残しておきたいと思いまして。


 ゴールデンウィーク中、誘い出してくれたり話し相手になって絡んでくれた皆さまに、改めて感謝申し上げます。

  しっかり故郷パワーで心身を充電させて頂いたので、帰京しても毒を吐きアホ面を晒し、平常運転で小林春彦は頑張っていけそうです。
  またお互いに日常を生き抜いていきましょう。

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