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「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」という本の感想を書こうと思い、読み進めていたが、憤りを感じている。

まずはJR横浜線で桜木町へ向かう途中、この本を読みだしたと思ったらそれはまあ「わがままボディ」という単語がよく似合うセクシーでグラマラスでダイナマイトでウェッジソールな女性が僕の隣に座ったことから始まる。

この日の僕は相も変わらず売れないバンドマンみたいな格好をしているものの、「スマホ」ではなく「本」を読んでいたのだから普段より幾分マシに見えたはずだ。売れてないバンドマンだけど活字は読むちょっとインテリ派。きっとウェッジソールな彼女の瞳にはそう映ったはずだ。

よくよく考えてみると、あの小沢健二にだって売れていない時期はあったはずだ。彼だって売れていないころは井の頭線か東横線かわからないけど何線かの電車に乗って、きっと文庫本とかを読んでいたに違いない。僕もギターこそ背負ってはいないが目と鼻の穴が2つずつあって口が1つしか付いてないのだから、小沢健二とほぼ同義と言える。だからウェッジソールの彼女にもきっとモテる。電車で本を読めばそれは、小沢健二に激似だからである。





話がのっけから思い切りずれているので、とりあえず本題に戻す。憤りを感じているのは、そのセクシーな美女の隣で読んでいた、本の内容だ。

これがまさか、190ページにも及ぶのに最初から最後までカップ焼きそばの作り方しか書かれていないのである。それも、「新しいカップ焼きそばの作り方」や「10倍おいしいカップ焼きそばの作り方」などの実用的な提案しているわけではない。オーソドックスで伝統的なカップ焼きそばの作り方を延々と190ページ、役100回繰り返されているだけの本なのだ。

何度ページをめくっても、繰り返される湯切り。

それをいかにマトモそうな顔で読んでも、もうどうにも格好つかないのである。隣にいるセクシー美女の露わになった太腿も、巻き散らかされるかやくのまえには無意味。これでは僕の太宰も、湯切り後にベコっと音を鳴らしたシンクよろしく治になるというものである。





よって、憤っている。せめてこのタイミングでヘミングウェイでも読んでいればよかったのに、僕はよりによってカバーもかけず「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」を読んでいるのだ。タイトルを周りに見られないように、少し本を倒し気味にして読んでいるのだ。すると両隣ーーすなわちセクシー美人ーーには本文が丸見えなわけで、延々と繰り返されるカップ焼きそばの作り方に狂気すら感じていることだろう。信じてください、僕は決して、妖しい者ではないのです。




ここまで憤りだけでiPhoneをフリックし続けてきたが、憤っているのはその概要だけではない。よくよく読んでみるとこれが、電車の中で読むには悉く向いていない笑いのるつぼのような一冊なのだ。

少し具体的に書くならば星野源がいつものエッセイ調でカップ麺を作っているかと思えばシャーロックホームズが実に論理的に部屋の主がカップ焼きそばを食べたばかりであることを推理し、その横をロミオとジュリエットがカップ麺と愛について語り歩いているのである。

名だたる文豪たち(や時には女性誌「VERY」や迷惑メールにまで)の文体を模写し、完璧に再表現する。そのクオリティの高さと、オリジナル作品への異常なまでの執着と愛に、ただただ憤りを覚えるのである。

「ジュリエット、ぼくはあなたのカップ焼そばになりたい」(本文51ページ)
やかましいわ。





ほかにも憤っているところは幾つもある。たとえば表紙は田中圭一先生が手塚治虫に寄せたタッチで太宰治を描いているのだが、これももう、いい加減にしてもらいたい。どこまでハイクオリティの模写を続ければ気が済むのだ。満点である。
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さらに、本の帯は、あのクリープハイプの尾崎世界観が書いている。

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あんた、ここで何やってるんだ。

この装丁の時点で、憤りしか感じない。なんて贅沢なのだろう。関わる全員が全員、才能の無駄遣いをしているのだ。そしてそして、最後に憤るべきなのがこの作品の首謀者、作者2名についてである。

菊池良といえば、「世界一即戦力な男」としてWebメディア界を震撼させたあの男だ。あれから何年たったかわからないが、元・即戦力の男は相変わらず現代社会を鋭い視点で切り抜いたシュールなネタをSNSに投げては画面を賑わせ、その様子をパソコン越しに「爆笑」という名の真顔で見ているに違いない。つまりこの書評も、きっと彼の眼には止まっているものの大した反応も示さずにビジネスライクな「いいね!」とRTと月並みな感想が付いて終わるのだ。憎い。ぼくよりバズるアイツが、とかく憎い。

もう1人の作者が、神田圭一だ。尊敬する先輩ゆえここは本来敬称を付ける場面だろうが、もはやそれも面倒くさい。「POPEYE」「スペクテイター」「ケトル」。神田圭一という男は、ライターを目指すサブカル好きな若者なら誰もが一度は憧れる媒体でバシバシ記事を書き上げては、何食わぬ顔をして飄々と生きている男なのだ。憎い。僕なら絶対ドヤ顔してしまう場面でも何食わぬ顔で飄々と暮らしている神田圭一が、とかく憎い。



ということで、憎きライター・クリエイターである2人による共作が、本書である。当然、内容は先ほど挙げたとおり、憎い。憎いぐらいに面白い。いま改めて読み返してみたら、高城剛さんが「ハイパーメディアヤキソバー」という見出しでカップ焼きそばについて語っていてさらに憎い。どこまで人を小馬鹿にすれば気が済むのか。また、その小馬鹿にした内容に反して、どうすれば作者へのリスペクトをこれほどまで巧みに込められるのか。大ファンであっても不快にならない。それこそが、本書で最も憎いところである。

長々書いたが、最後にひとつ念を押しておく。本書はギャグである。冗談である。ジョーク商品である。冗談やギャグやジョークには、笑ってこたえるのがオーディエンスというものである。この作品について「バカにしている」「パクりである」と、昨今のウェブ界隈のように怒鳴り散らすのは、お門違いである。ツッコミばかりが増えているこの時代に、ひさびさに良質なボケが生まれたのだから、ここはひとつみんなで見守ろうではないか。私は憤りながらも笑っている。皆さんもぜひ本書を手に取り、笑ってほしい。


(JR横浜線の桜木町→町田駅間で書いたため、誤字・脱字についてはご容赦願います)